【BL】かくりよの花嫁は溺愛される

やらぎはら響

第1話

 ガツリと鈍い音が自分の頬から響いた。

 糸峰理斗(いとみねりと)はその衝撃に反射的に目を閉じていた。

 鈍い痛みが走って眉根が寄ったけれど、そのままうっすら目を開く。


「私が野菜嫌いなの知ってるでしょ!」


 ヒステリックな声は目の前の少女からだ。

 キッチンの床には、たった今頬に投げつけられたフォークが転がっている。


「……すみません」


 謝罪を口にすると、従姉である高校二年生の輝子(てるこ)はゆるく巻いたセミロングの茶髪を揺らして、理斗から興味を無くしスマホをいじりだした。

 食事の最中にスマホをいじるのはいつもどうかと思うけれど、親に注意されるのを見たことはない。

 同じダイニングテーブルについている叔父夫婦は冷ややかな目で理斗を見やった。


「ちょっと!輝子は高貴なあやかしに嫁ぐ大事な子なのよ、食事には細心の注意を払いなさい」

「はい、すみません」


 食事に気をつかうのなら野菜は食べた方がいいだろうにと思うけれど、理斗は静かに謝罪だけを口にした。

 謝罪以外を口から出せば、倍になって怒声が飛んでくるのがわかりきっているからだ。

 すっかり慣れたやりとりだった。

 パサパサの長い前髪のあいだからは、痛々しい青痣が見える。

 それは今しがた出来たものではなく、ここ数年はつねにあるものだ。

 髪同様にかさついた肌は肌理が粗い。

 細部にまで栄養が足りていない証だった。


「まったくだ。妖子学園(あやしがくえん)に通っていれば、そのうちすぐに見初められるからな」


 叔父もうんうんと叔母に同意するように深く頷く。

 そんななか、ニヤニヤと輝子の兄である光だけが口元を歪めて理斗を見ていた。

 被虐的なその眼差しはいつ視界に入れても胸に不快感がわだかまる。

 顔にある青痣はすべて光によるものだった。

 二十歳の光に憂さ晴らしとして殴られるには、十八歳とはいえ理斗は骨と皮だけという体型なこともあり痣ができやすい。

 結果、いつもその顔には殴られた跡が痛々しくあった。

 殴った跡があることに満足するのか、狙われるのはもっぱら顔だったりする。

 輝子が高貴なあやかしにプロポーズされることを当たり前のようにこの家族は考えているけれど、それに対して理斗は内心溜息だ。

 そんなにあやかしとの交流は簡単なことではない。

 あやかしは人間と共存はしている。

 気づけば古来から姿を現し始め政財界を中心に文化や芸能にも大いなる影響を与えた。

 見た目がこの世のものとは思えない美しいものから標準的な外見まで人間同様に多岐にわたっているけれど、それでもなんとなく気配で人間じゃないというのはわかるものだ。

 強いあやかしほど美しく、そして権力を持っている。

 なので、強いあやかしほど同族だけでなく人間側からも伴侶になりたいと思う者は多いのだ。


「やば、学校行かなきゃ。あー面倒くさい」

「何言ってるの、二年生になったんだから本格的にお相手を探さなきゃよ」


 スマホを片手に立ち上がった輝子は唇を尖らせながらダイニングを出ていく。

 それを見送るためにふくよかな叔母が立ち上がって後を追うように出て行った。

 結局、輝子の前に置いてあったサラダは手つかずのままだ。

 二人を尻目にまだ食事をしていた光に叔父がチラリと視線を送った。


「お前はせっかく妖子学園の大学部へ入れたんだ。しっかりコネを作ってくるんだぞ」

「……ああ」


 小言めいた叔父の言葉に、光が面白くなさそうに小さく返事をする。

 眉間に皺がうっすら寄っていくのが、彼の不機嫌さのメーターが上がっていることをあらわしていた。

 よくない展開だと理斗は小さく唇を引き結んだ。

 食事を終えた叔父がダイニングを出るのを待って、光がゆらりと立ち上がった。

 そしてのったのったと偉そうに体を揺らして理斗に近づいてくる。

 理斗よりも上背があるせいで、近くに来られると圧迫感があった。


「くそっ」


 バシリと何の脈絡もなく頭を叩かれた。

 衝撃に一歩後ずさったら、二度三度と手が降ってくる。

 光のストレス発散に殴られるのは毎日の事だった。

 今日は拳じゃないだけマシな方だ。

 しばらく耐えていると気が済んだのか、光の手が止まる。

 終わったのかとほっとすると、代わりとばかりにぐいと顎を掴まれ上向かされた。

 叩かれてぐしゃりと乱れた髪が頬にかかる。

 まっすぐに顔を見れば機嫌を損ねることが分かっているので視線を伏せたままでいると。


「目を逸らしんてじゃねえ!」


 今日は違ったらしく頬を殴られた。

 反動で床に尻餅をつき、結局拳で殴られたことについてないと思いながら光の方を見上げれば、どこか満足そうな顔を浮かべている。

 そこには嗜虐的な光りが宿っていて、光という人間の本質を滲ませていた。

 飽きたと言わんばかりにふんと鼻を鳴らすと、大学へ行くためだろう。

 左手首に巻いている大学生には不似合いなブランドの時計に目を落とすと、さっさとダイニングを出て行った。

 そこでようやくひとつ息を吐く。

 緊張していた体からも、ふっと力を抜いて肩を下げた。


「やっと行った」


 乱れた髪を、気休め程度に手櫛でなおす。

 毎朝のことだけれど、まるで儀式のように同じことが繰り返されるのは苦痛以外の何でもない。

 のろのろと緩慢なしぐさでエプロンの下に身に着けている高校の制服のポケットから、理斗はそっと手の平に収まる丸い布地のブローチを取り出した。

 そこには白地にピンクの糸で猫が刺繍されている。

 所々ほつれているのは、それが六歳の頃に死んだ母親が手作りしたものだからだ。

 交通事故だった。

 両親は即死した。

 今いる叔父の家に引き取られたけれど、その際にほとんどの荷物は売られるか捨てられてしまい、残っている形見はこれひとつきりだ。

 父親にいたっては形見と呼べるようなものは、ひとつも残っていない。

 理斗はこれを肌身離さず大事に持ち歩いている。

 左手に乗せたブローチを右手でそっと撫でると、古くなってざらついた布の感触がした。

 糸が痛まないようにそっと指先で撫でていると、ハンドメイドが好きだった母親が理斗の頭を撫でてくれていた事を思い出す。


「大丈夫、平気」


 自分に言い聞かせるようにしっかりと呟くと、理斗は立ち上がりブローチをポケットへとそっと戻した。

 いい加減食器を片付けて学校に行かなければならない。

 手早く食器を洗って家を出ると、そのまま徒歩で二十分の学校へ行く。

 世間体を考えて高校には行かせてくれたけれど、バイトをしてお金を入れながら家の事が出来るようにと選択肢もなく徒歩圏内の学校にしか進学は許されなかった。

 輝子のいるあやかし達が多く通う妖子学園は莫大な金がいる。

 理斗の両親の保険金を使い寄付をおさめて裏口入学した二人がいるのだ。

 光にいたっては、おそらく大学も金を積んだのではないかと思っている。

 金はたいして残っていない筈だから、それでも学校に行けるだけ幸いだったと自分を無理やり納得させた。

 たとえこの辺では一番偏差値の低い学校で、治安もそんなに良くはなくても。

幸いだったのは、ことなかれ主義の教師も含め誰も理斗に興味を持たなかったことだ。

 学校につけば授業中も騒がしいけれど、バイトと家の往復で流行りも知らない理斗に話しかけることは、すぐにクラスメイトはしなくなった。

 昼食も食べずに放課後、バイトに向かうべくグラウンドを歩いていると部活をしている生徒の掛け声が響く。

 それに一瞬立ち止まったけれど、すぐにまた歩き出した。

 部活は最初から諦めていた。


「勉強、好きだったんだけどな」


 ぽつりと零した言葉は梅雨前の風にかき消された。

 中学生の頃は友人もいたし、成績のトップ争いもしていた。

 学級委員なんてものも推薦されてやっていたし、学校は楽しかった。

 思い出して今との落差に気分が底辺まで落ちていくが、これからバイトだ。

 理斗の一日は忙しい。

 きゅう、と腹が鳴ったけれど家からお弁当を持って出ることも、バイト代を使うことも許されていないのでつねに空腹状態だ。

 空腹すぎてうっすら痛みさえ感じる胃をよしよしとなだめるように撫でながら、理斗は気合を入れ直し一度家へ帰って着替えるとバイト先へと急いだ。

 制服で夕方以降歩いていると、何かと面倒くさいのだ。

 バイトはビルの清掃員をしている。

 帽子を被るので殴られた顔を隠せるし、一人作業なので人と関わって詮索されることもない。

 ただ、水仕事で手荒れが酷いのが悩みだった。

 皮膚が薄い方らしく、冬でもないのに指先が赤くなっているしパックリ割れているところもあるので水が染みる。

 経費削減だとゴム手袋は各自で購入とはいった時に言われてしまった。

だから自由になるお金がない理斗はすべて素手で掃除するしかない。

洗剤なんかも触るので手は荒れる一方だった。

 バイトが終わればあとは帰って叔父達の夕食を作り、自習をして就寝。

 毎日飽きもせず変わらない生活だ。

 高校を卒業しても働いて家にお金を入れろと言われている。

 それを思い出して、帰路につく足が重くなった。

 成人したら叔父家族に従う必要はない。

 働きだしたら、何とかあの家を出るのがささやかな目標だった。

 わざと猫背気味に俯いて、とぼとぼとゆっくり歩く。

 早く帰らなければ叱られるだろうけれど、少しでも帰る時間を遅らせたかった。

 行きかう人が邪魔そうに理斗を避けていく。

 ここら辺は高級ホテルなどが立ち並んでいる界隈なので、理斗のような子供が一人で歩いていたら明らかに浮いている。

 帰り道がだいぶ短縮されるから仕方なく歩くけれど、居心地のいい道ではない。

 けれど殴られた跡のある人間なんかに関わりたがる者がいるはずもなく、革靴やハイヒールの音が理斗を追い抜いていくなか、ふいに後ろから腕をぐいと引っ張られた。


「理斗!」


 驚いて引っ張られるままに振り返ると、そこにはほっそりと小柄な少年が驚いた顔で理斗の腕を掴んでいた。

 思わず理斗の目が見開かれる。


「春……」


 腕を掴んでいるのは中学時代にクラスメイトだった矢代春(やしろはる)だ。

 何の偶然か三年間同じクラスで、親しくしていた。

 おでこを丸出しのベリーショートに下フレームの眼鏡をかけた姿は卒業式で見たときから変わっていない。

 身長があまり伸びていないなと春が聞いたら怒りそうなことを、どこかぼんやり思いながら理斗はなんとか口を動かした。


「久しぶり」

「そんなことどうでもいいって!それよりその顔、またあの家族?顔殴るなんて酷くなってるじゃないか」


 詰め寄ってまくしたてる春を前にして、相変わらずハキハキと喋る友人に懐かしさを覚える。

 けれど、今の彼は細身の体のラインにピッタリとフィットしたネイビーのスーツに身を包んでいた。

 春も理斗と同じいたって平凡な家庭のはずだけれど、そのスーツはどう見ても彼の体に合わせて作られているオーダーメイドに見えた。


「落ち着けって、スーツ着てるなんて大人っぽくなったな」


 同級生との思わぬ再会に、少し心が弾む。

 高校生になってバイトを始めてからは自由な時間などなくて、スマートフォンを持つことを許されていない理斗はこうして友人に会うのも二年近くぶりだった。

 落ち着いていられるかとまくし立てる春を宥めようと口を開きかけると。


「春、そいつは?」


 変声期前のボーイソプラノが割り込んだ。


「秋人(あきひと)」


 春が声の方へ振り向けば、コツリと靴音を鳴らして十三歳程に見える少年が近づいてきた。

 その姿が現れた途端に、一気に空気へ圧迫感が伸し掛かる。

 背筋が反射でピンと伸び、鳥肌が総毛立った。

 背中の粟立つ感覚が気持ち悪い。

 秋人と呼ばれた少年は膝丈のズボンにソックスガーターが上流階級の子供を感じさせたけれど、その雰囲気はおよそ子供らしからぬ威圧感だった。


「あやかし……」


 チリチリとした空気が、彼から発せられている妖力だと言われるものだろう。

 あやかしに会うのははじめてだけれど、圧迫感に喉が詰まるようだった。

 そして何より白い髪と赤い瞳が、彼をあやかしだと決定づけている。

 また靴音を鳴らして近づいてくる秋人に、思わず理斗は一歩後ずさった。


「威嚇すんな、俺の友達だ」


 腕を掴んだままの春が、眉根を寄せてジトリと秋人に半眼を向ける。

 その慣れたような言い方に理斗は驚いて春の顔をマジマジと見やった。

 この空気のなか平然としていられることにも吃驚する。

 ふんと勝気に鼻を鳴らすと、春は今度は理斗にその半眼を向けた。


「行くぞ」

「え?」


 ぐいと理斗を引っ張り、歩きだされる。

 思わず足を動かすしかなかった。


「今からそこのホテルで飯だから、一緒に行くぞ」

「へ?」


 思わぬ言葉にまぬけな声が吐息まじりに理斗の口から放たれた。

 そこのホテルと言われてギギギとぎこちなく顔を向けると、そこにはこの辺りでも最高級のホテルが佇んでいた。

 無機質なタワーホテルなどに比べたら明らかに意匠の凝らされたクラシカルな外観に、とんでもないと理斗は顔から血の気を引いてブンブンと首を勢いよく振った。

 あんなところに、着古した服装に殴られた顔で入れるわけがない。

 それに。


(睨んでるじゃないか!)


 おそらく春と食事に来たのだろう少年がピリピリとした雰囲気で、赤い眼差しを理斗にぶつけている。

 あきらかに不機嫌だし歓迎されていない。

 こんな視線のなか、あんなホテルに入れるほど理斗は図太くないのだ。

 しかし、春は理斗の遠慮したい気持ちなどお構いなしにズンズンとホテルへと向かって行く。


「秋人、個室取って」

「最初から個室にしてある」

「さっすが」


 秋人の答えに春が笑うと、少年はまんざらでもなさそうな表情を浮かべている。

 慣れたような気安いやりとりに、仲のよさがうかがえた。

 一体どういう関係なのだろうと疑問に思う。

 しかしそこではたと思い出す。

 春は成績の優秀な特待生で妖子学園に行ったのだと。

 友人だろうか。

でも明らかに秋人は中学生だろうなどと、やや現実逃避をしている間に春に手を引かれるままホテルへと理斗は足を踏み入れたのだった。

磨き抜かれた床とデザイン性の高いキラキラとしたシャンデリアに眩暈を起こしそうだ。

目がチカチカするのは、シャンデリアの光りのせいだけではないと思うけれど。

 あれよあれよと言う間に洗練された制服のホテルマン高層階に案内され、所詮セレブという人種が食事をするのであろう広い個室にあるテーブルセットに座らされた。

 ここまで川の流れのように流されたけれど、一刻も早く帰りたい。

 白いテーブルクロスの上にはフルコースの準備としてカトラリーがずらりと並んでいる。

 ここまで来るのに何度心の中で悲鳴を上げたかわからず、理斗はぐったりと椅子に背中を預けた。


「あの、俺こんなとこのお金……」


 食事とか言われたけれど、庶民以下の暮らしをしている理斗は怖々と口を開いた。


「僕が払うに決まっている」

「え!いや、でも」


 秋人のまさかの言葉に慌てて声を上げると、ギロリと睨まれた。

 綺麗な顔をしているので、そんな冷え切った表情をされたら怖さが半端ではない。


「だから威嚇すんなって」


 ビクリと肩を強張らせると、少年の横に座った春がこらとたしなめる。

 少年が腕を組んでぷいと横を向くとトゲトゲしい雰囲気が幾分か和らいだことに、ホッと息を吐いた。


「じゃあとりあえず、お茶頼んだから」


 いつの間にと思っていると、まもなくウェイターが運んできた白地に花柄のティーカップがそれぞれの前に置かれた。

 そそがれた飴色の紅茶はかぐわしい香りだけれど、とても口をつける気にはなれない理斗だ。

 ティーカップを割りでもしたら弁償出来ない。


「で、どういうこと、その顔」

「えっと……」


 キッと目を吊り上げてくる春の剣幕に、理斗は思わず言葉を詰まらせ顎を引いた。

 何をどう説明しても、春が怒る予感しかしない。

 気性が真っ直ぐな春は、中学の頃から叔父家族をよく思っていないのだ。


「どうせあいつらだろ。理斗はあんまり言いたくないみたいだけど。高校も頭よかったのに無視して勝手に決めるし!」


 鼻息荒く言い切る春にどう答えたものかと、理斗はへにょりと眉を下げた。

 その通りなのだが、ここで肯定すればますます怒りそうだなと思うと体を縮こまらせてしまう。


「春、こいつはどんな友人なんだ」


 子供にしては鋭すぎる眼差しで秋人に貫かれ、理斗は肩を震わせた。

 あいかわらず、少年からはピリピリした雰囲気を感じるのだ。

 警戒されているのはわかるけれど、背筋がうすら寒くて仕方がない。


「だから威嚇すんなってば。理斗、怖がんなくていいよ。生意気なだけだから。こいつは蛇瓦秋人(へびがわらあきひと)って言って……まあ、友人」

「違う、春は花嫁。恋人で婚約者だ」

「え!」


 秋人の言葉に、思わず理斗は声を上げた。

 まったく予想していなかった単語が飛び出したのだ。

 この少年の言った言葉に目をまんまるにすると、春が眉を跳ね上げて秋人に食ってかかった。


「いちいち言うなよそれ、今関係ないだろ」

「ある」

「いいから黙ってろ。こいつは糸峰理斗、中学の同級生だよ」


 憮然とした秋人にピシャリと春が言い切る。

 すると興味がなさそうにふんと秋人は鼻を鳴らした。

 ティーカップを手に取り、一口飲む。

 その素知らぬ素振りを一瞥してから、春が再び理斗に向き直った時だ。

 バンと派手な音を立てて個室の扉が開いた。

 三人が驚いてそちらを見る。

 そこには一人の男が立っていた。


(……綺麗な人だ)


 理斗の頭にはその言葉だけが浮かんだ。

 年の頃は二十代半ばに見える。

 艶やかな白銀の髪に、スッと通った鼻筋と薄い唇。

 完璧な配置のパーツと白い肌に、白皙の美貌とはこういう事をいうのだろうかと感心する。

 まっすぐな眼差しの瞳が金色で涼やかだ。

 スーツ姿のその男は、凛とした清涼な雰囲気をまとって無表情にそこに立っていた。


(この人もあやかしだ)


 人間には有り得ない色彩と、独特な圧迫感を感じさせる雰囲気がそう表している。

 その美貌に目を奪われていると、秋人が焦ったようにティーカップをソーサーへ戻してと立ち上がった。

 ガチャンと食器のぶつかる派手な音が響く。

 うっかり割れやしないかと理斗は自分のことではないのにハラハラしてしまった。


「狐塚屋(こづかや)様!」

「狐塚屋って一番偉いあやかしの?」


 驚いたような春の腕を取って、秋人が慌てて立たせている。

 狐塚屋といえば、理斗も聞いたことがある。

 かなり大きな会社だった筈だ。

 目にすることが多いので、世間に疎い理斗でも知っている。

 たしかあやかしのトップだとも聞いたことがあった。

 秋人が知っているようなので知人だろうかと思っていると、男は何の迷いもなくひたりと座ったままの理斗を見据えた。

 座っているのは失礼なのだろうかと思うけれど、体が固まってしまっている。

 あやかし特有の何とも言えない空気感とその金色の瞳に見据えられて、その視線から目が離せない。


「どうしてこちらに」


 言いかけた秋人の言葉を無視して、男はツカツカと長い足でテーブルに近づいてくる。

 真っ直ぐな姿勢で歩くその歩調は迷いがいっさいない。


「え……」


 あろうことか、男は優美な動作で理斗の前に片膝をついた。

 顔を上げた理斗のことをじっと跪いた男に見つめられて、どうしたらいいか分からず理斗はおずおずと目線を逸らした。

 顔を少し俯けると長い前髪が顔を隠して、少しほっとする。

 その頬に、大きな手がそっと添えられた。

 触れられた体温は少し低く、突然の感触にビクついて肩が揺れる。

 添えられた手が理斗の顔を上へと上げさせた。

乱暴ではないけれど、ほんの少しの強引さがある。

いきなりのことに目線を上げて男の方を見ると、やはり彼は無表情だ。

 けれど、その眼差しは冷たい感じはしない。

 じっと見られることに居心地が悪くて、逡巡したあとにそっと問いかける。


「な、なに」

「名前は?」

「えっと……」


 突然の質問。

 何故そんなことを聞かれるのだろう。


「彼の名前は」


 答えない理斗に、慌てたような声音で秋人が口を開いた。

 けれどひたりと男に冷たい眼差しで一瞥されて、ぐっと詰まる。

 そのやりとりで、秋人より立場が上らしいと感じられた。

 ますます目の前で起こっていることに困惑するしかない。

 再びこちらを向いた男の眼差しは、秋人を見たときに比べてどこか熱量を感じさせる。


「君から聞きたい」


 じっと見られてどうしたものかと心細げに春を盗み見ると、こくこくと頷いている。

 教える以外の選択肢がないらしい。

 それに後押しされるように、理斗は口を開いた。


「糸峰理斗」

「理斗と呼んでも?」


 ぱちり。

 思わずまばたきをしたとき、頬に添えられていた少し低い体温の指先が殴られた跡に触れた。


「ッ」


 鈍痛に思わず顔を顰めると、その痛んだ場所を指先が優しく撫でた。

 そのまま口の端などにも触れる。

 なんだなんだと驚いているあいだにズキズキと苛んでいた場所が、痛みを感じなくなった。

 それが不思議で切れていた筈の口元に手を持っていくと、今度はその手を掴まれる。


「あの……」


 そっともう片方の手も取られると、大きな手で包まれた。

白魚のような手という単語が脳裏をよぎる。

長い指先は優美だ。

 次に手を離されたときには、ボロボロに荒れていた手が綺麗になっていて驚いた。


「えぇ?」


 不思議そうに手の平や指先をマジマジと見るけれど、荒れていたとは思えないほど綺麗に本来の手指になっている。

 痛みなどもなくなっているから完全に治癒してしまったようだ。

 顔の痛みがなくなったということは、そちらも手と同様に治してくれたらしい。

 あやかしってこんなことも出来るんだと、ポカンと理斗は小さく口を開けたまま、自分の手をマジマジと見つめた。


「他に傷は?」


 あまり抑揚のない淡々とした口調で問われ、理斗はぎこちなく首を振った。


「だ、大丈夫、平気」

「そう」


 突然現れて怪我を治されて、一体何なんだと理斗の頭の中はハテナでいっぱいだ。


「あの、あなたは?」


 さっき狐塚屋と言われていたなと思いながらも問いかける。


「狐塚屋遠伊(こづかやとおい)」

「狐塚屋さん」

「遠伊」


 名前を呼べと暗に言っていることに気付いて、えぇと困惑しながらへにょりと眉を下げる。

けれど彼はじっと見つめてくるばかりだ。

待ち続ける金色の眼差しにこれは呼ぶしかないのだろうかと思い、本当にいいのだろうかと考えながら理斗はおそるおそる口を開いた。


「……遠伊さん」

「うん」


 おずおず名前を呼ぶと、ふわりと口元に小さく笑みを浮かべた。

 そうすると、冷たい印象の強い美貌が柔らかく見える。

 ガタンと音がしてそちらを見ると、秋人がとても驚いた表情を浮かべていた。

 どうしたのだろうと思いながらも、遠伊に目線を戻す。


「あの……俺に何か?」

「この部屋の外から霊力を感じた」


 霊力とは人間に備わっていると言われている、あやかしにしかわからないものではなかっただろうかと思い出しながら、理斗は不思議そうに遠伊の顔を見返した。

 たしか、あやかしは妖力で人間は霊力を持っていると聞いたことがある。


「君は私の花嫁だ」


 春と秋人がええっと驚いて声を上げる。

 静かな部屋に、その声は大きく響いた。

 言われた理斗はぽかんと口の中で「花嫁……」と復唱した。

 予想外の言葉だ。


「あの……花嫁って」


 春の驚きように、これは普通の事ではないと理斗は狼狽して遠伊の包んでいる自分の手を引き抜いた。

 相変わらず遠伊は淡々とした抑揚のない声音で理斗の疑問に答えた。


「言葉の通りだ」

「お、俺、帰らないと!」


 ガタンと音を立てて立ち上がると、ひっくり返った声を出しながらも理斗は急いで個室を飛び出した。

 後ろから春が名前を呼ぶ声がしたが、何だかここにいてはいけない気がしてそのままレストランも後にする。

 途中、店の人間が目を丸くしていたけれどかまってはいられない。

 ラグジュアリーな空間で不躾だとは思うけれど、それどころではないのだ。

 急いでエレベーターに乗り込みフロントホールまで降りると、ようやく小さな息を吐いた。


「何だったんだ」


 はあと嘆息しながら出口を目指して歩き出す。

 ただでさえ場違いな格好なのだ。

くたびれて汚れたスニーカーで磨き抜かれた床を歩くのは恥ずかしい。

 さっさとこの場を後にしてしまいたい。

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