第6話お父さん冷たくなっているよ。

夕暮れのグレーに染まった空気の中に、車に乗った春子と和彦と良夫、二メートル先に正夫がいた。正夫の言葉に家族の周りの空気が固まっていくのを感じた。

「ええよ。辞めたら。」

春子が車の窓越しに言うと、後部座席に座っていた良夫がつかさず言った。

「これで不登校が三人になった。」

 それを聞いた正夫が声を荒げて言った。

「わしは不登校じゃない。早期退職じゃ。」

正夫は五十五歳で会社を辞めた半年後に、糖尿病性壊死で右足を切断し、その半年後に心筋梗塞で急死した。

波乱万丈の幕開け

春子は正夫が亡くなった日、高知へ泊りがけで研修会に出席していて留守だった。その日は製薬メーカーから、その頃、依頼を受け、その頃力を入れていた薬の販売方法を会員の前で話すことになっていた。前夜から高知に入り、美味しい郷土料理と地酒をご馳走になった。楽しい夜を堪能した翌朝、研修会の資料をテーブルに並べていると携帯電話が鳴った。ケアマネージャーの伊藤さんからだった。画面に映し出された伊藤さんの名前を見た途端、正夫がまた倒れたのかと思った。正夫は春子が出かける前に調子が優れず、定期の入浴サービスを断わっていた。出掛ける前に「行くのやめよか?」と、正夫に聞いたが、ベッドに横たわったまま弱々しい声で「行って来い。」と、言った。正夫が足を切断し「こまち薬局」で暮らすようになる前から、春子は休みの日に研修会などで出かける事が多かった。正夫が車椅子生活になってからは、極力出かけない様にしていたが、良夫もいてくれるし、急に約束を断ると会社に迷惑がかかるので、出かけることにしたのだ。この時、交わした短い言葉が最期になった。

「もしもし田中です。」

「田中さん?伊藤です。」

「伊藤さんお世話になります。何かありましたか?」

 春子が聞くと、電話口の後ろでザワザワと人の話声がして尋常では無い事態が起こっている事を悟った。

「お父さん冷たくなっとるよ。」

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