はじめての

 私が異性に呼び出されるのは、いつも、お姉ちゃんへの手紙をお願いされるときだけだった。


 みんなお姉ちゃんが大好き。

 私だっていつも優しくてなんでもできるお姉ちゃんが大好きだった。だから、嫌だった。もっと、どうしようもないくらい性格が悪ければ、嫌えたのに。



「うちの妹に手、出さんといてください」


 怒りを孕んだ声。

 滅多に聞かない声に、私は動けなかった。

 左頬を赤くした彼は、静かに頭を下げる。

 足元には、丸めのサングラスがぽつんと落ちていた。


 二人が、話している。

 彼が謝って、お姉ちゃんが怒って、でも、内容が入ってこない。

 ただわかったのは、私たちは別れる、ということだった。



「あんまこういうこと、言いたないんやけどね」


 綺麗に整頓されたお姉ちゃんの部屋。

 私の頭は、まだうまく動かなくて、ただ、じっと空を見つめる。


「未成年と付き合おうなんて、そんな大人、信じたらあかんよ。なんかあってからじゃ遅いんやから」


 付き合っていた、そう、七歳上の人だった。

 胡散臭そうな人だと、最初は思っていた。声をかけられたとき、お姉ちゃん目当てだろうとも思っていた。

 でも、私を好きだと言ってくれた。

 初めてだった。


 お姉ちゃんはいつだって正しい。

 だったら、それも嘘だったんだろうか。

 未成年をたぶらかすための嘘、だったんだろうか。


「俺は成人してるから、手は出さんよって言うてた」


 嘘ではなかったと、思いたいだけかもしれない。

 でも、実際に手をつないだことすらなかった。


「そんなん、口では何とでも言えるやろ」


 わかってる。

 わかってるけど。


「初めてやったのに。初めて、好きや言うてくれたのに」


 いつだって、選ばれるのはお姉ちゃんで。

 そのお姉ちゃんは、いつだって私に優しくて。


 それが、すごく、苦しくて。


「お姉ちゃんなんか、大っ嫌いやっ!」


 初めて、人に嫌いだと言った。

 その言葉が自分の鼓膜を揺らして、思わず口を手で覆う。

 お姉ちゃんは形のいい眉をキュッと寄せて、固まっていた。


 否定をしようとして、赤く腫れた頬を思い出して、言葉を飲み込んだ。

 代わりに私はスマホだけ握りしめて、部屋を、家を飛び出していた。



 走って、走って、夜の雑踏に紛れて、立ち止まる。

 人が、迷惑そうに私を追い越していくのを感じながら、ただただ立ち尽くす。


 勢いのまま飛び出してしまった。

 どこへ行けばいいのかも、わからない。


 お散歩でよく歩いた道が、途端に見知らぬ道に見えてくる。

 ひゅっと息が詰まる。

 冷たい風が吹いて、腕をさすって、薄着のまま出てきたことに気がついた。


「帰らんと」


 声に出す。

 お姉ちゃんの顔を思い出す。

 一度もケンカなんてしたことがなかった。

 謝らないと。

 そう思うのに足が動かないのは、謝りたくない気持ちが強いから。

 どうしよう。どうしたら、いいんだろう。


彩夏あやかさん……?」


 聞き慣れた柔らかな声に、振り返る。

 ひょろ長いシルエット。

 金色の髪。

 よくかけている丸めのサングラスがなくてもわかる。


優真ゆうまさん……」


 息を吐くのと同時に出た声は、思った以上に頼りなくて。

 私の腕を掴んだ手の温かさに、視界が歪んだ。



 見慣れた公園についたところで、優真さんが着ていた上着を脱いで、私にかけてくれる。


「頬」

「うん?」

「ごめんなさい」

「あー、まあ、当然と言えば当然だよね。大事な妹さんたぶらかしたわけだし」


 ハハッと軽やかに笑う優真さんの頬は、腫れている。

 痛くないはずがないのに、いつもと同じ笑顔を浮かべる優真さんに、また視界がおぼれていく。


「泣かないの」

「ごめんなさい」


 私が泣いていいわけがない。

 優真さんを傷つけた原因なのだから。


「俺ねー、妹いるの。だからお姉さんが怒るのも、わかるんだ。俺だって妹が何歳も離れた人と恋人なんだー、なんて言ったら、大丈夫かってなるし。こんな胡散臭い見た目してたらなおさらだよね」

「でも、だからって殴ったらあかん、です」


 笑い声。

 軽やかなそれは、いつものそれなのに、どこかさみしい。


「でもね、お姉さん見る目あると思うよ」


 静かな声は、どこか自嘲的で、なにを言うのかわからなくて、横顔を見つめる。


「あんまり胸を張れるような恋愛はしてきてないからさ」

「そう、なんですか?」

「そうなんですー。君の耳に入らないといいなって思うくらいには」


 小さくもう一度笑うと、グレーの瞳がこちらを向く。


「涙、止まったね。スマホ、持ってる?」


 はい、とうなずけばよかった、と返ってくる。


「おうちの人に電話して、迎えに来てもらって。それまでは、一緒にいるから」


 いつも、デートをしても暗くなる前にこの公園まで送ってくれていたことを思い出す。

 これからは、それもなくなる。

 私たちは、すでに恋人ではなくなったから。


 嫌です。


 喉元まで上がってきた言葉を飲み込んで、スマホを取り出す。

 同時に、画面にお姉ちゃんの名前がうつされた。

 電話に出れば、切羽詰まった声で場所を問いただされる。

 勢いにびっくりしながら公園にいることを伝えれば、絶対にそこを動かないで、とだけ言われて一方的に電話が切れた。


「俺明日、両頬腫れてそう」


 電話の声が聞こえていたのだろう。

 誰が来るのかを理解した顔で、優真さんが笑う。


「ごめ」

「これから、さ」


 謝ろうとした言葉を遮るように、優真さんが話し出す。


「たくさん、恋をして、たくさん、いろんな人と関わって。今の俺と同じくらいの年になったとき、お姉さんがどうしてあんなに怒ったのかが、本当の意味で理解できるようになったらさ」


 ゆっくりゆっくり、優真さんが言葉を紡ぐ。

 柔らかなまなざしを忘れたくなくて、私はじっと彼を見つめた。

 ちゃんづけが、さんづけになった日を、ふと思い出した。

 あの日を境に、私を見るときの視線や、声色が、変化したことも。

 見守るような視線や温かな声、たまに淡く頬を染める横顔も、好きだった。


「そのとき、もしも俺と話したい、と思ってくれたら、連絡して」


 番号、変えないようにしとくから、と言ったその微笑みは、どこか諦めを含んでいて、胸が痛む。

 もう会ってくれなくなるのだろう、と理解したから。


 公園の外から、お姉ちゃんが駆け寄ってくるのが見えた。


 嫌だ。離れたくない。


 思わず伸ばした手は、さりげなく避けられた。



――――――

お借りしたキャラクターと作成者様です。順番は作品内での名前が出た順です。


辻浦 優真 様

作成者 南雲 皋 様(https://kakuyomu.jp/users/nagumo-satsuki

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