2話
気がついたら、しゃがみ込みながら初心者用の万年筆を吟味していた。これまでの人生で使ったこともなければ触ったこともない。どうしても贅沢品のイメージが先行するけど、探せば千円台でも上質なものも存在する。事前にある程度は目星をつけてきたので、後はその場のフィーリングに任せる。パイロットのエントリーモデルに決めた。安心安全の日本製だから、多少おかしな使い方でもすぐに壊れたりはしないだろうし。軸は真っ白、キャップは淡い黄色で親しみやすい印象。
横に置いたプラスチックのバスケットの中。サイズにゆとりのある角形二号の茶封筒に綴り紐のパック、忘れられないのが原稿用紙。文庫本丸々一冊分は書く予定なので、タテ書の五十枚セットを五つ入れた。それと替えのインクのブルー。私はまだ吸入式を使える境地に達していないので、カートリッジ式を選んだ。実はこの筆、別売りのコンバーターを差し込めばインク瓶も併用できるらしい。青色なのは気分。国語便覧のコラムに、戦前の文豪はみんなブルーブラックで執筆していたと掲載してあったような覚えがある。確か、昔のインクは長期保存に向いていなかったから化学反応を上手に利用して線を残していたんだとか。社会科の資料で見かける茶色い筆跡は、長い年月をかけて青みだけが抜け落ちてしまったから。
私の手元にあるものとは全く関係がないけれど、歴史に名を刻んだ小説家に勇気を分け与えてもらっている。そんな感じがする。
会計にレジまでやってきた。休日の昼下がりだというのに空いていた。暇そうな男の人が当番だった。大学生かな。夏休みの軍資金調達だろうか。私みたいな人種は目に映る全ての物事を創作の原材料に還元してしまう。嬉しいことも、悲しいことも。なんでも等しく。
「あのさ、キミってもしかして小説とか書いてる?」
「え、あっハイ!」
急に話しかけられてビックリした………………。私、コミュ障だからいっつも受け答えの始めに「あっ」ってつけちゃうんだよね。ダサいから早く直したい……。
「やっぱり。にしても今どき純文なんて珍しいね」
純文? 純文学のことだよね? 私が書こうとしているのはライトノベルなんですけど……。
「ぃや、ぁのその」
「僕もちょっと前まで趣味で書いてたんだよ。新人賞にも色々出してた。でもやっぱ二次選考まで何度やっても通んなくてさ。気分悪いから辞めちゃった」
「…………ぇ?」
物書きの人ってリアルでも実在するんだ。あれ、だけどこの人今辞めちゃったって。
「そもそも向いてなかったんだよ。器がなかった。毎回毎回完結させることだけに必死になっちゃってさ。無駄に文章引き延ばして文字数稼いだりしちゃったり。レジ袋いる?」
「あっあ、ぃいります」
…………やっぱり、現実はそうなんだ。
「じゃあ合計十点で三六五七円ね」
なんか、私ってバカみたい。勝手に一人で盛り上がって、勝手に一人で落ち込んで。バカなのは元からだけど。
「執筆頑張ってね。応援してるよ」
結局、店員のお兄さんに激励をもらったにも関わらず、俯いたままビルの外へ出てしまった。ありがとうございます、の一言でも返せればよかったのに。
私って、生きるの下手なのかな。
行きとは逆方向の電車に揺られながら、座り心地のすこぶる悪いシートで物思いに耽る。胸にはアズライトカラーのレジ袋を抱いて。
なんでさっきの店員さん、私が小説を書くことは見抜けたのに純文って言ったんだろう。
もしかして、私ってそんなに知的に見えるのかな? いやあ、インテリジェンスな雰囲気が溢れ出ちゃったのかも。この歳で近代の作品を手当たり次第に読み漁ってる子なんてほとんどいないよね。最推しは谷崎潤一郎先生だし。艶かしい身体描写がたまらないんだよなあ。あそこまでエログロを上手に使いこなせる作家はこの世界にいないんじゃないかな。ってことは、私の筆力は既にその領域ってこと!?
「うへへぇ、へっへへ」
この後、浮かれすぎて最寄り駅で乗り過ごしてしまった。しょうがないからキセルをして、上機嫌のまま我が家に帰った。ただいまをして、手洗いうがいをこなしたらシャワーを浴びた。カンカン照りの太陽の下にいるだけで全身ぐしょぐしょになるのは勘弁してほしい。髪を適当に乾かして晩ご飯をたらふく食べて、満たされた心持ちで自室の敷き布団にダイブした。
今日は疲れたけど、やりたいことができて、欲しいものが買えて。とても満足できた日だった。
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