第6話 陸ノ巻

(1)


 夜の帳が下り、宵の時間も過ぎた頃。

 ずっと寝たふりをしていた氷室は再び静かに起き上がると、懐の中から薄紙を幾重にも重ねた包みと火打石を取り出した。

 遊び女特有のゆったりした小袖の着こなしは道具を持ち込むのに便利だ。加えて、病持ちの振りをすれば誰も触れてこない。


 何重にも重ねた包みを開き、親指程の大きさの細かい木片──、削った香木の欠片に火打石で点火する。

 木片に煙が出るより先に氷室は袖を口元に宛がい、速やかに廊下へと抜け出す。

 素早く、静かに、木片を各部屋へと投げ入れていく。この香木には即効性及び強力な催眠作用があり、お救い小屋程度の広さなら欠片が数個あれば効果は充分発揮される。

 そうして屋内を一巡したのち、闇に紛れて屋外にも香木を置いていく。


 襤褸の小袖に少し香りが移ってしまったが、この程度の香りなら耐性のある氷室には効かない。

 そんなことよりも皆を眠らせている内に、と、お救いの小屋内外の本格的な探索を始める。


 雑魚寝部屋一つ一つの室内、眠る人々を避け、あらゆる戸を開けては隈なく探す。床下や天井裏に隠していそうだが、案外室内のどこかに隠し持っている可能性もある。また、床下や天井裏はいざとなれば逃げやすいが、室内の場合逃げ遅れるかもしれない。眠らせた直後により危険な方から始めた方がいい。


 雑魚寝部屋の次は、お救い小屋の手伝いを行う男衆の居室。

 これまでに入った決して清潔とは言い難い、埃と黴、腐臭漂う雑魚寝部屋とは違い、男衆の部屋だけは清潔が保たれた書院造の八畳部屋だった。いる筈の男たちの気配は……、ない。氷室の警戒心が一気に跳ね上がった時、廊下から複数名の足音が、どたどた、近づいてくる。氷室は咄嗟に付け書院の引き戸を開け、中に身を隠した。








(2)


 そろそろ亥の刻から子の刻に変わる頃だろうか。

 郷長の屋敷に併設されている、四畳半の茶室。燈明で部屋を明るくし、伊織は自ら立てた茶を嗜んでいる。


 就寝前ゆえに袴は穿かず、小袖のみ。寒さを防ぐため、濃紫の胴服紐付きの長場織を羽織ってはいるが、深夜の冷え込みを凌ぐには少し、厳しい。

 温めた酒でも飲んでさっさと眠った方が賢明。賢明ではあるが──、どうにも胸騒ぎがして寝る気になれない。そもそも、実は伊織、言う程酒が好きではない。茶の方が余程好きだ。上手い茶を立てられた時など、戦で作戦が成功した時よりもホッとする。


 などと、どうでもいいことを考えつつ、茶をひと口飲み、正面の戸口へ視線を向ける。すると。


「珍しいのう。何を焦っておる」


 やはりと言うべきか。


 伊織の胸騒ぎ、というか、勘は見事的中。

 乱暴な割に音は立てず、息を乱した氷室が戸口に姿を現した。


「別に焦ってなどいない」

「そうか」


 それ以上は何も言わず、伊織はまたひと口、茶を口に含む。

 悠長とも取れる伊織の行動を見つめたまま、氷室は黙って立ち尽くしたままでいる。


「報告がある」

「儂の勘は当たったか」

「半分当たって半分外れだ」

「ほーお?」


 ことり、茶器を置き、氷室へ対面へ座るよう、促した。

 しかし、氷室は頭を振り、動こうとしない。


「氷室。化粧で身体中痒いであろう。あそこの桶の水を使うといい。湯でなくて悪いの」


 伊織は戸口の側に置いた手桶に目線を送ると、茶器をもう一度手に取り、くるり、背を向ける。

 ほんの一瞬、氷室は戸惑ったが、「……かたじけない。失礼する」と、組み紐の帯を解き、襤褸の小袖をその場で脱ぎ捨てた。


 ちゃぷり、ちゃぷちゃぷ、水音を立て。氷室は素裸で上がり框の縁に座り、手拭いで全身の化粧と汚れを落としながら、伊織と背中を向け合い、報告を続ける。


「お救いの小屋を手伝う男衆は、昨夜の廃神社の連中の仲間だ。連中が話しているのを確かにこの目で、耳で確かめた」

「そうか。他には?」


 氷室の言葉と動きが再び止まる。

 水音と身体を拭く音はすぐに聞こえ始めたが、話はなかなか始まらない。

 伊織は急かすことなく、話の続きを黙って待つ。


「……噂では南条と言われていたが、違った」


 やっと話が始まったところで、伊織は思わず氷室を振り返る。氷室も同じように伊織を振り返っていた。

 氷室は手拭いを手桶に雑に放り込むと、裸のままで伊織へ近づいていく。


那邦なほうの生き残りだ。十五年前、南条との戦で捕虜となったのち服従した者たちだろう」


 拳を握りしめ、氷室は伊織を睨み下ろした。凄惨なまでに冷たく、鋭く、哀しい目で。

 伊織は氷室を無言で見上げていたが、ふっと目を逸らし、自らの胴服を脱いで氷室に差し出した。


「冷えるであろう」

「平気だ」

「少しは恥じらわぬか。目のやり場に困る」

「何を今更?もう見慣れた癖に?」


 氷室の目から哀しみが消え、皮肉を込めた笑みらしき表情へと変わっていく。

 伊織は氷室の問いに無視を決め込み、面白がる顔から徐に背中を向ける。小さく鼻で鳴らす声に、氷室が大変珍しく笑っていることが伝わってくる。

 振り返りたくなったが、からかわれるのも癪なので背中を向けたままでいることにした。

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