【完結】スタートアップ:Essence - シンプルな未来へ
湊 マチ
第1話 転機の日
夕暮れのオフィス街は、どこか虚ろだった。ビル群の隙間から見える西の空には薄いオレンジ色が漂い、やがて夜の闇が街を飲み込んでいく。人々は急ぎ足で駅に向かい、誰もがそれぞれの疲れを隠しながら、表情を硬くしていた。佐伯彩奈もその一人だった。ビジネスバッグを手に、ピンヒールの靴でアスファルトを歩きながら、心はどこか空っぽだった。
「今日も疲れたな……」
彩奈はため息をつきながら、ふと窓に映る自分の顔を見た。眉間にしわを寄せ、口元は少し歪んでいる。仕事に追われる毎日、朝から晩までパソコンと睨めっこし、会議では上司に指示され、クライアントの要望に答える。その繰り返しに、彩奈の心はすり減っていた。
満員電車が駅に到着する。ドアが開くと、波のように人が押し寄せ、彩奈は反射的に車内に飛び乗った。ぎゅうぎゅう詰めの中、スマートフォンを握りしめながら、彼女はつかの間の解放感を求めて音楽を再生した。ヘッドフォンから流れるメロディーが、少しだけ心を軽くしてくれる。
バッグの中には、最近購入したばかりの高価な財布と、香水が入っていた。洋服は今季のトレンドを意識したブランド物。どれも、仕事をこなすための武器であり、彩奈にとって「成功した自分」を見せるための象徴だった。しかし、心のどこかでそれが虚しいと感じていた。
「こんなもの、何のために持ってるんだろう?」
ふと、彩奈は思った。見栄や世間体のために持ち物を増やし、周囲に合わせるために買い物をしていた。だが、それが心を満たすことはない。むしろ、重荷になっている気がした。家に帰れば、クローゼットに収まりきらない洋服や靴が山のように詰まっている。どれも高価なものばかりだが、使い道のないものも多い。
「私は、何を求めているんだろう……」
窓の外に映る東京のビル群がぼやけていく中で、彩奈は自分の問いに答えられなかった。
翌日、彩奈は突然の体調不良で倒れた。激務が続いていたせいだろう。気づけば、白い病室のベッドに横たわっていた。
「……ここは?」
目を覚ました彩奈は、真っ白な天井を見上げた。窓の外からは、薄明かりが差し込み、部屋の中には必要最低限のものしかなかった。ベッド、テーブル、椅子。それだけだ。どこか無機質なこの空間が、なぜか彼女には心地よく感じられた。
物が何もない。いつもなら不安になるはずだが、この空っぽの空間が、彩奈の心に静かな解放感を与えていた。誰にも邪魔されず、ただ休むことに専念できる場所。自宅の物が溢れかえった部屋とはまるで正反対だった。
「何もないって、こんなに落ち着くんだ……」
彩奈はベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめながら思った。仕事で追われる毎日、物に囲まれた生活。そのどちらも、心に負担をかけていたのかもしれない。ここには何もない。だが、それが逆に心を軽くしてくれる。
退院後、彩奈はふと立ち寄った駅の書店で、「ミニマリズム」に関する本を見つけた。それはシンプルな表紙で、余計な装飾もなく、ただ一言「少ないもので豊かに生きる」と書かれていた。彩奈は自然とその本を手に取り、ページをめくり始めた。
「少ないもので豊かに生きる……」
そのフレーズが、彼女の胸に深く響いた。本の中では、物を減らし、必要なものだけを持つことで心の豊かさを手に入れるという考えが綴られていた。彩奈はページをめくるたびに、今まで感じていた心の空虚感が少しずつ埋められていくのを感じた。
「そうか……私は、こんなに物に縛られていたんだ」
本を閉じると、彼女は深い息をついた。仕事に追われ、物を買い漁ることで満たされない心を埋めようとしていた。それが逆に、自分を追い詰めていたのだと気づく。
「少ないものだけで生きる……私にもできるかもしれない」
その考えが頭をよぎった瞬間、彩奈は何かがはじけるような感覚に包まれた。物を手放し、シンプルな生活を送ることで、きっと自分の心も整っていくのだろう。彼女はその本を手に取り、レジに向かった。
家に帰ると、彩奈はクローゼットを開けた。中には使っていない洋服や靴がぎっしり詰まっている。それらを一つ一つ取り出し、じっくりと見つめた。自分が持つべきものと、手放すべきもの。その境界を見極める作業は、思っていたよりも難しかった。
だが、彼女は決意を新たにした。少ないもので豊かに生きる――そのためには、まず物を整理することが必要だとわかっていた。
「これからは、本当に大切なものだけを持って生きていく」
彩奈はそう心に誓い、少しずつ物を手放し始めた。最初は不安だったが、次第に心が軽くなるのを感じた。何かを手放すたびに、自分が本当に求めているものが見えてくるような気がした。
再び電車に乗る彩奈の手には、書店で買った本がしっかりと握られていた。いつもと同じ風景が、少しだけ違って見える。物に囲まれていた自分が、今では少しずつ解放されていく感覚があった。
「これからは、シンプルに生きるんだ」
彼女は静かに微笑んだ。新しい未来が待っている。物を減らし、心を整えて生きる。その一歩を踏み出した彩奈は、自分の人生を再び見つめ直すことができたのだ。
これから何を手に入れるのか、そして何を手放すのか――それが、彼女の未来を決めていくのだろう。
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シンプルな未来 - シーン2
「初めての片付け」
彩奈は家に帰ると、まずクローゼットの前に立った。そこには、何年も使っていない洋服や、履きつぶした靴がぎっしりと詰め込まれていた。これまで、忙しい日々に追われ、物が溢れるこの空間に目を向ける余裕がなかった。だが、書店で見つけた「ミニマリズム」の本に影響を受け、今日こそは本当に大切なものだけを残す決意を固めていた。
「よし、始めよう」
深呼吸をしてから、彩奈はクローゼットの扉をゆっくりと開いた。衣装ケースには、季節外れのコートやドレスが無造作に詰め込まれている。どれも、高価でおしゃれなアイテムだが、心のどこかで「もう使わないかもしれない」という思いが頭をよぎる。
まず、最初に手に取ったのは、数年前に買ったブランドのジャケット。オフィスでの重要な会議やクライアントとの打ち合わせでよく着ていたが、最近は出番が少なくなっていた。着心地が良かった思い出はあるが、今の自分にはもう必要ない気がする。
「本当にこれが必要なのかな?」
心の中で問いかける。ミニマリズムの本には「自分に問いかけて、本当に必要なものだけを残す」と書いてあった。だが、これまでずっと大切にしてきたものを手放すのは、思ったよりも難しい。
「とりあえず、これは残しておこうかな……」
迷いながらも、ジャケットを再びクローゼットの奥に戻そうとした瞬間、ふと「今こそ手放すべきだ」という直感が頭をよぎった。いつまでも同じものにしがみついていては、自分自身が前に進めない。
「そうだ、手放そう」
彩奈はジャケットをきっぱりと手放す決意を固め、古い段ボール箱に入れた。それは、小さな一歩にすぎないかもしれないが、彼女にとっては大きな変化だった。心の中に、小さな達成感が広がる。
その後も、彩奈は次々とクローゼットから洋服を取り出しては、「これが本当に必要か?」と自問し続けた。いくつかの洋服は、彼女にとって思い出深いものだった。例えば、友人と一緒に旅行に行った時に着たドレスや、初めての仕事帰りに購入した靴。それらを手に取るたびに、彼女の心には懐かしさと共に、物に対する執着が感じられた。
「思い出は捨てられないよね……」
そう呟きながらも、彩奈は再び手放すことを考える。洋服に宿る思い出は確かに大切だが、それを持ち続けることで前に進めない自分にも気づいていた。物が増えれば増えるほど、心の中にあるスペースも狭くなるように感じる。
「本当に大切なのは、物じゃなくて、その時の感情なんだ」
彼女は、そう結論付けた。思い出が詰まった洋服を一つずつ手放しながら、その瞬間ごとに感じた感情を心の中に留めていく。それは、まるで心の整理整頓をするような感覚だった。
クローゼットの整理を進める中で、彩奈はふと、足元に小さな箱を見つけた。それは、学生時代に使っていた古い文房具や日記帳が詰まった箱だった。箱を開けてみると、中から出てきたのは、昔の恋人との思い出の写真や手紙。
「これ……まだ残ってたんだ」
彼女は驚きながらも、その箱を手に取って座り込んだ。中には、彼との楽しかった日々が詰まっている。だが、それはもう過去のものだ。別れてから何年も経ち、彩奈は彼のことを思い出すことさえ少なくなっていた。それなのに、なぜかこの箱だけは手放せずにいた。
「これも、もう手放す時かもしれない」
彼との思い出に浸りながらも、彩奈はそう決心した。過去に囚われることなく、新しい未来に向かうためには、過去の重荷を背負うわけにはいかない。箱の中身を一つ一つ手に取っては、静かにそれらを封じ込め、再び箱に戻していく。
「ありがとう」
彼との思い出に心の中で感謝を述べながら、彩奈はその箱も手放すことにした。そうすることで、心にスペースができ、新しい感情や出来事を受け入れる余裕が生まれる気がした。
その日の夜、彩奈はベッドに横たわりながら、クローゼットを見つめた。朝に比べてずいぶんとすっきりしている。手放した物の数は多くないが、それでも心が軽くなったことを実感していた。
「物を減らすと、こんなにも心が自由になるんだ……」
彩奈は初めての片付けを終えた達成感に満たされながら、静かに目を閉じた。これからの人生は、今までのように物に縛られるのではなく、本当に必要なものだけを選んで生きていくのだろう。彼女の心は、新しい未来への期待と希望で満たされていた。
「これから、どう変わっていくのかな……」
彩奈はそう思いながら、眠りについた。
翌朝、彩奈は少し早く目を覚ました。いつもなら、ベッドから出るのが億劫に感じるが、今日は違う。部屋が片付いたことで、心もすっきりとしている。まだ完全に片付けが終わったわけではないが、少しずつ前に進んでいる感覚があった。
朝食を簡単に済ませると、彩奈は再びクローゼットの前に立った。昨日は、洋服や靴の整理がメインだったが、今日は小物やバッグ類を見直すことにした。特に、バッグは彼女にとって重要なアイテムであり、仕事のために何種類も持っていた。だが、本当に必要なバッグはどれくらいあるのだろう?
「これも、必要ないかもしれない……」
彩奈は手に取ったバッグを眺めながら、そう呟いた。高価であることは確かだが、最近では全く使っていない。むしろ、同じバッグばかりを使っている自分に気づく。物が多すぎると、選ぶ時間さえも無駄にしているのだ。
「少ない方が、選ぶのも楽だな」
彩奈はそう感じながら、不要なバッグを次々と手放していった。選択肢が少なくなると、日々の生活がシンプルになり、余計な悩みやストレスも減っていく。それが彼女の心をさらに軽くした。
クローゼットの整理が終わると、彩奈の部屋はまるで別人の住まいのように変わっていた。物が減ったことで、部屋全体が広々と感じられる。彩奈はその変化に驚きながらも、心の中に一つの確信を得た。
「これからは、物に支配されるのではなく、必要なものだけを選んで生きていこう」
彼女は静かにそう決意した。これからの人生は、今までとは違う。少ないもので豊かに生きる――そのために、彩奈は次の一歩を踏み出す準備ができていた。
彼女の心は、これからの未来に向けて、新たなページをめくろうとしていた。
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