約束の話

「私……歯が抜けてるんです」


 凜霞はみづきの問いかけに何と答えたらいいかわからず、曖昧な表情を浮かべる。


「歯、ですか」

「本当です。ほら」


 みづきは背筋を伸ばして両腕を上げ、左右にまとめられた髪を背中にすくい落とし、片方の人差し指を口の中に入れて、『い』の形に口角を引っ張り上げる。

 凜霞は頭を深く下げて、仰ぐように覗き見る。

 すると、奥歯が1本抜けていて、その根元から新しい歯がちらりと顔を覗かせているのが見えた。


「虫歯じゃないですよ。15歳なのに、まだ歯が生えそろってないんです。病院でも、歯も骨もまだ大人になってないですねって言われました」

「成長途中なんですね」

「途中というか、全然進んでないみたいです。この歯もずっとこのままで」

「成長が止まっている、ということですか」

「うん。たぶん、そう」

「すみません。大変失礼なのですが、一つ、質問をさせてもらってもよろしいでしょうか」

「いいよ」

「成長していないということは……もしかして。まだ、来ていないのですか」


 凜霞がいつも以上に控えめで、慎重に、ためらわれるような口調でみづきに問いかける。

 みづきはピクリと体を震わせたあとでゆっくりとうつむき、沈黙する。

 その表情は髪に隠れてわからない。しかし呼吸は乱れていて、その言葉は必死に喉から絞り出されていた。


「う。あ、あの。その…………はい、そうです……まだなんです」

「病気なのですか」

「それが、病院でも、わからないって言われて。遅れてるのか、病気なのか」

「私は、自分が難しい病気であることを知っています。だから、受け入れて、諦めるしかないという割り切りもできるのです。でも、そもそも病気かどうかさえわからないというのは、どういう気持ちなのでしょうか」

「わからないんです。だって、先生は心配しなくて大丈夫だって。お父さんには……言えません。お母さんは、ちっちゃな私を見て、なんか嬉しそうで。友達には『面倒くさいから、そのままの方が気楽だよ』と言われて。……みづきは、どういう気持ちでいればいいの」


 みづきは俯いたまま独白を続けていて、その手ははっきりとわかるほどに震えている。

 凜霞が手を伸ばしていく。

 その指がみづきの手に触れた瞬間ピクリと震えたが拒絶することはなく、凜霞はそのまま一本ずつ指を添わせて手を被せていき、やがて全体を包み込んで覆い隠していった。


「でも……でも、私は大人になりたいんです。体が小さいままなのは仕方ないけれど、心だけでも大人になりたいんです。でも、みんなはそのままでいいって言うから、だから」


 亜紀がテーブルの向こう側で腕を組んだまま、ぼそりと意見を述べる。


「1人旅をすれば大人になれるかも、って思ったのか」

「……私、おかしいですか? お父さんとお母さんには初めは笑われて、次に怒られました」

「おかしくないぜ。あたいもしょっちゅう親を殴って、殴りかえされて家出をしたからな」

「それはおかしいと思いますけど……」

「は、なんで⁉」

「みづき先輩は、お父さん、お母さんのことをどう思われているのですか」

「大好きだし、みづきの大切な家族です。みづきのことを可愛いって言ってくれるのはとっても嬉しいです。でも、みづきが大人になりたいっていう気持ちだけは、お母さんにはわかってもらえなくて、お父さんには言い出せなくて。それがちょっとだけ、悔しいです」

「なんで親父さんには言い出せないんだ?」

「あの、亜紀さんは『女の子の悩み』ってお父さんに相談するんですか?」

「ああ、そういうこと。あたいは別に何を知られても困りゃあしないし、親だろうが兄だろうが勝手に喋ってる。向こうが迷惑に思ってるかもしれんが、知らん」

「ぇえ……。亜紀さんらしいですけど」

「参考にならなくて悪いな」

「いえ。みづきが気にしすぎ、なのかな」


 亜紀は足を組み直し、丸く縮こまってしまっているみづきに向けて、ことさらに明るく話しかける。


「しかし、よく1人旅を思い切ったな。簡単ではなかろう?」

「2年前からお小遣いを貯めて、1年前から計画して、お話を何度もして、ちょっとだけ嘘をついて、なんとか乗り切りました」

「そこに、私が現れてしまったのですね」

「凜霞ちゃんのほうがもっと。もーーーっと大切だから! いいんです。それに」


 凜霞は覗き込むようにしてみづきに語りかける。するとみづきは再び顔を上げ、凜霞の方を向き直る。

 2人の視線は絡み合い、身動きを取らずに互いをじっと見つめている。


「わかったの。みづきは1人旅がしたかったわけじゃ、なかったんです」

「どういうことですか」

「話を聞いてもらいたかっただけ、なんです。みづきの本当の気持ちを知って欲しくて。でも、わかってもらえなくて。だから……これがみづきの言いたかったことで、旅の理由。なのでした」


 そしてみづきは涙を手ですくい上げ、紅に染まる頬で目を細め、はにかむように笑った。


「聞いてくれて、ありがと」

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