黒百合からヘリオトロープへひとつの嘘を

第8話

　◇レイフ視点◇

　炎は遠く、徐々に木々の翳りが蓋をする。樫や櫟、常緑が鬱蒼と生い茂る森の斜面を、鈍痛を引き摺りながら宝剣を杖代わりにして登っていく。

　真っ直ぐ東へ。霊堂の場所や目印の当ても無いまま、透き通るような惣闇へ、意識はどろどろ蕩けてゆく。

　もうどのくらい歩いたのだろうか。父は死ぬ間際、行き先は剣が……と遺言を残したが、この銀の宝剣は道筋を示す事は無い。本当にこの道で合っているのだろうか。間に合わなければ、父の託した意思が無駄に。それでも迷う時間は無い。

「……負けてたまるか」

　鼓舞すれば一瞬の無重力。

　夜と溶け合う足元が崩れ、全身を強く打ちながら滑落した。視界の回転は数メートル滑り落ちてようやく止まる。

　頭部からのじんわりとした出血が止まらず、意識は朦朧とし、鈍い鉄の味が口内に広まって行く。

　仰向けに倒れ込んだまま、ただ悔しさに支配され、静かに啜り泣く。息衝くだけで全身を激痛が駆け巡る。もう起き上がる気すら起きない。

　凍えるような冥府の腑。

　自棄のまま、ただ空を見上げる。

　しかし、暗闇の中で在るからこそ、だからこそ、そこには一際輝く光がある。

　深く犇く樹々の隙間、そこには宝石を鏤めたように煌めく星空が。そして星屑の海の中、殊燦然と耀くその星は、秋空唯一の一等星、フォーマルハウト。

　ふと、あの日の夕焼けを呑み込む黄金の記憶が呼び起こされる。

　そして、ユリアのあの笑顔も。

　それは最後にもう一度だけ、立ち上がる力を与えてくれる。

「……ごめん。ユリア。こんな格好悪いお兄ちゃんで。……ちゃんと責任は果たすから」

　その希望が脳へ活力を蘇らせる。

　星空が見える、ならばここら辺一帯は樹々が切り開かれている、人の開拓した過去があるという事だ。

　付近に何か有る。

　ユリアとの、家族との幸せな日々を不屈へ。俺は負けない。声にならない声のまま、呻きながら立ち上がる。

　その瞬間、銀の宝剣は白く光り輝き、闇を切り裂き辺りを照らす。

「……何だ、あれ」

　視界の端に白い建物の柱が反射する。

　もしやあれが、と走り出したい心と、走れない身体。擬かしさに身悶えながら、重い身体を引き摺り進んでいく。

「ここが入口か？」

　霊堂は存外小さく風化が厳しい。おどろおどろしい恐怖を振り払いながら、宝剣の灯りを頼りに中へ進む。

　歩く音がコツンコツンと反響する。中には鼠や蝙蝠が我が物顔で鎮座し、蜘蛛が至る所に巣を張っている。気味の悪い狭い通路を奥へ進むと、ようやく開けた部屋へ出る。

「着いたのか？」

　灯りを足元から目先へ向ける。すると宝剣はその輝きを増していく。どうやら到着した、という事らしい。

　そして同時に目に入るのは生成色の糸の束。触れればサラサラと流れ落ちる。初めて触れる絹の糸。それがこの部屋にはそこら中に張り巡らせられている。

　あとは宝剣を差し戻す場所を探すだけ。絹の束を斬りながら前へ進めば、中央には大きな繭。得も言われぬ不気味さと静けさがそこに。

「きっとこれだ」

　直感が呼ぶ。この繭に刺せばきっと終わる。ようやく終わる。剣を振り翳したその時。

「どうして泣いているの？」

　突然の声。それはどこか儚く、今にも消え失せてしまいそう。

「酷い怪我。火傷まで……。可哀想に」

　どこからだ？　朦朧とする意識の中、耳を澄ませる。

「誰かに虐められたの？」

　……この繭の中だ。

「そこにいるのか？」

　もしかして、これが、そ（・）う（・）なのか？

「……お前が……赫焉の魔女か？」

「確かにそう呼ばれているわ。でもね。厄災は私じゃないの」

「どういう事だ」

「私はね、私達はね。身代わりにされたの。あの日の炎は私じゃないわ」

　炎？

　何の話だ？

　……赫炎、か？

「お願い。ここから出して。そうすれば貴方の願いを、一つ叶えてあげるわ」

「……願いを叶える？　そんな事が出来るのか？」

「私はね、これでも最上の魔女なのよ。現存する魔法の全てを扱う事が出来るわ」

「ほ、本当か？」

「ええ」

「なら、皆を……。家族を生き返らせて！」

「……ごめんなさい。それは出来ないわ。死者は決して蘇らない。その魔法は歴史上、一度たりとも存在はしないの」

　現実は、侭ならない。

　どうもこうも、世界とは窮屈に設計されているらしい。

　無償の愛を注いでくれた家族には、優しさの意味を教えてくれた家族には、二度と会えない。

「貴方の家族は亡くなったってしまったの？」

「村が略奪を受けたんだ。そして、家族も、皆死んだ」

　溢れた悲しみが頬を伝う。もう、拭う事すら、億劫。

「殺されてしまったのね。……可哀想に」

　その繭は、銷魂に沈む俺を、包み込むような甘い声で言葉を紡ぐ。

「それなら、私がその犯人を殺してあげるわ」

「でも――」

　嗚咽が言葉を引き千切る。

「そんな悍ましい虐殺を行える人間を、決して許してはならないわ。貴方には正当な復讐の権利があるのよ」

「……そう――だ、……よな」

「そうよ。そんな残忍な人間、殺しても誰も文句を言わないわ」

　役に立たない言葉の代わりに。血に染まった手で繭の包みを剝がしていく。

「良いの？　私は、貴方の父が封印していたものよ？」

「関係――無」

　指先が虚空に触れる。

　繭の中には、一輪の白百合。

　狂花に驚き血濡れの左手で瞼を擦る。

　……違う。

　真っ直ぐな長髪も、その睫毛も白く、血液の赤を透かしたような褪紅色の瞳。

　アルビノだ。

　端正な顔立ちには、しかし無垢な幼さが宿る。雪のような白く華奢な手足に貧相な白いワンピース。齢は十五から十六程だろうか。その儚い容貌は、とても嘗て厄災を振りまいた絶望の正体とは思えない。そしてその白い魔女は柔らかな表情で話し出す。

「それじゃあ、私がその犯人を殺してあげるわ。その人の名前は？」

「……そうじゃない」

　覚悟が嗚咽を息の根を止めた。

「なら貴方の望みは一体何？」

「俺は、その屑を自分の手で殺したい。そいつにこの世へ生まれた事を後悔するような苦痛を、与えて与えて与えた末に清算する必要がある。そうでなければ、割に合わない」

　春のような家族から分け与えられた暖かな血潮は、澱んだ憎悪に醜く濁る。

「でも、俺ではその屑を殺す事は叶わない。だから力が欲しい。その屑を、禮命の聖騎士を殺す為の力が」

「……良い憎悪ね。私、貴方の顔が好きよ」

　そして白き魔女は純一無雑な表情のまま、願いに応える。

「良いわ。その復讐の道に待つ、凡ゆる障害を斬り刻む為の力を、貴方に捧げるわ」

　そして遂に、赫焉の魔女は繭から降り立ち、俺の涙をそっと拭う。

「契約は、そんな光る玩具では成し得ないわ。こちらへ渡して」

　魔女は握る銀の宝剣を指差す。父が託してくれた形見の剣。

「……これじゃ駄目なのか？　これは父の形――」

「駄目よ。それは贋作。貴方の復讐は、その程度の覚悟なの？」

　魔女は言葉を遮る。しかしその純真の裏に、決して苛立ちを見せる事は無い。

「この宝剣を二人目の勇者へ――」

「駄目よ」

　再び遮る。純真な微笑みのまま。

　復讐と天命を天秤に掛ける。ここで赫焉の魔女と決裂すれば、聖騎士を殺す事など、復讐などは叶わない。決して。

　生唾を飲み込み、父への罪悪感に震える手を押さえながら、銀の宝剣を白き魔女へ。

「私はもう触れないの。貴方が繭へ」

　言われるがまま宝剣を繭へ。繭はゆっくりと、俺の抉じ開けた罅割を瞑る。

「ふふ。貴方の覚悟、伝わったわ」

　すると赫焉の魔女は自身の胸に手を掛け、その肉を開く。

　魔女の鮮血が華やかに噴き出す。脈打つ心臓を目の当たりにし、慄く俺に構わず魔女は続ける。

「受け取りなさい」

　醜怪な光景と匂いに蒼白となり目を覆いながら後退る。

　駄目だ。……俺が、あいつを殺すんだ。

　意を決して一歩前へ。瞳を向ければ、白き少女の体内には銀の宝剣が。

「……これは。さっき繭に」

「形姿は全く同一だけど異なる剣よ。でもこちらが本物。これが貴方に力を与えるわ」

　魔女はその出血にも苦悶の表情は見せず、ただ只管に微笑んだまま。

「さあ、受け取りなさい」

　前へ。

　もう、恐怖は無い。

　そして少女の体内の剣の柄に手を掛ける。触れる血と内腑はひどく熱い。

「いくぞ」

　そして引き抜く。やはり軽く、その美しい剣身も、その形容は細部まで瓜二つ。

　すると魔女はその身体を閉じる。出血は止まり、傷は跡形も無く存在を忘却。

「最後の仕上げよ。その剣で、私の胸を貫いて」

「……必要なのか？」

　余りに悪趣味な願いに辟易ろぐ。

　それでも少女は無垢な表情のままこちらを見つめ、ただ、俺を待つ。

　長い逡巡の後、遂に覚悟を。

「……赫焉の魔女。君の名前を教えてくれないか？」

「ふふ。嬉しいわ。テレーズよ」

「レイフ・ロセインだ」

　少女の胸をその剣で突き刺す。刹那、二人の足元から碧白い光と緩やかな風、そして魔女文字（ルーン）が溢れ出す。

　御伽噺の通り。魔女が、魔法の奇跡を織り成す際に綴る切願。

「これで私達の契約は成立よ」

　その絢爛に見惚れる俺をそのままに、そしてテレーズはその幼い容貌を優美へ染め、清廉な声で詩を詠う。

「レイフ・ロセインよ。赫焉の魔女テレーズの名の下、貴方へ神速と膂力を与えます」

　するとテレーズは俺の手を握り、その微笑みのまま、祈るように詠い続ける。

「そして私は貴方の僕として、主様へ忠誠を誓います。丁度その復讐が果たされた時、私の封印は解かれるでしょう」