第41話津吉健と糸井照三の親心⑥

 店内に戻ると、真知子は暖人が厨房からデシャップに顔を乗り出しているのが見えた。

「ママ、アタシ、ああいうジェンダー差別が一番許せないんです。選んで得たものでないのに、自力じゃどうしようもないことなのに……それにケチつけるなんて、躾のなっていない子どもより悪質よ」

「同感。星礼朱のことも心配してくれてありがとね、暖人」

「あの子のことは別に心配なんてしてないわ! ただアタシは」

 星礼朱が声に気づいて振り返ると、暖人は乗り出した顔を引っ込めた。暖人が十本の指を押しつけていたデシャップは金属製だったため、真知子が左ひじを乗せると生暖かかった。

「いいんだ、それだけでも十分。彼女にも、一人でも多くの味方がいると救われる。対等な立場である若者キミたちだと特にね。私だと彼女の長期にわたる成長を見据えて、どうしても厳しく接しなくてはならないときもあるから」

 真知子は寂しそうに言い、星礼朱のもとに駆けよる芽依を目で追った。

「星礼朱ちゃん、大丈夫ですか?」

 学に叱られてばかりの芽依だが、五人兄弟の長女として傷心の星礼朱が放っておけなかった。また、同じく長女である星礼朱が簡単に人に甘えられない辛さも理解していた。そういうときこそ、自ら寄り添うべきだと知っていたのだ。

 星礼朱は無理に目を細めたが、両目尻が痙攣していた。客や芽依のためではなく、本人のためにこの表情を晒させるわけにはいかなかった。真知子はデシャップから離れ、星礼朱が担当するカウンター席の前に立った。

「皆さん、どうもお騒がせしました。これはすべて、私の采配ミスによるものです。本当に申し訳ない! 申し訳ないところ、さらに恐縮ですが! ここはひとつ、この場のにご協力いただきたいことがあります」

 この日の閉店後は直勝から、翌日は経理担当者から、真知子は幾度にわたる叱責を受けることになる。

「実は今、来たる極めて重要なお祝いごとのために、我が刺し場のスター、星礼朱にはスペシャルメニューの開発を任せています。数はかなり限られますが、お店からのプレゼントってことでこの場にいるお客さんとホールスタッフ、刺し場の二人用に、星礼朱に開発中の寿司を握らせてください。ただ、試食である以上、材料費は経費にするもんで、アレルギーなどについては該当材料を省く対応のみとさせてもらいます。うちには大御所がいるんですよ、二人も」

 よその店では絶対と言えるほどあり得ない発言に、照三と星礼朱、すべてのホールスタッフはあごが外れる音がした。聞き耳を立てていた暖人は揚げ場に駆け戻り、健に報告した。

「糸井の親父おやっさんには、星礼朱のサポートを頼む。遥貴、貸し切りの看板を表に出したら、ドリンク作りのヘルプを頼む。ドリンクの注文は寿司を握っている間にお願いします。ちなみに今日はラストオーダー終了ってことでいいですか?」

 客の同意を得たところで、真知子は照三に目配せをした。照三は頷き、デシャップにメモ用紙として代用している、カレンダーの裏紙を渡した。それにはシャリ用のご飯をホール係に持たせてくること、今のうちに厨房スタッフが休憩を取ること、直勝には早めにまかない食を作り厨房スタッフを退勤させることを記していた。これが、照三が真知子から読み取った意図だった。

 厨房スタッフが応じている間、真知子とホールスタッフはドリンク注文の応対に追われた。原価率の低いドリンクの売上にて、寿司の振る舞いによる経費、店の利益の補填を図っていた。

「星礼朱ちゃーん、ジンジャーエール飲める?」

はるちゃんはオレンジジュースって感じかな?」

 常連客である佐斗美と羅々が挙手すると、他の客も接客を担当するホールスタッフ分のドリンクも注文した。

 学と芽依はノンアルコールの梅サワーを、担当の客からご馳走になった。真知子は全員分のドリンクを作り終えた後、一人呑みに来ていた半井からパインジュースをいただいた。半井にはすでに、この件の黙秘を強制的に承認させていた。ドリンク場前のカウンター席に座らせていたからこその技術テクニックだった。

「いや、男性も女性も、ビタミン大事だよね」

 ジュースでも十分原価率を補えるという自信の表れだった。真知子の意図を汲み取り、半井はおかわりのジュースをどれにするか聞いてきた。

「いやいや、うちの可愛いスタッフが先だ。私は最後に、確実に補えられれば十分さ。それより半井さんもそろそろ禁煙始めて、この機に始めなよ」

 居酒屋らしくない口運びで、ソフトドリンクの在庫を一掃しようと目論んでいたのだ。真知子は星礼朱たちによるメニュー開発を機に、ドリンクメニューの改善をも図っていた。寿司との相性を考えさせるためにも、ホールスタッフ全員にも寿司を食してもらう。すべてが真知子の思惑通りだった。

 数字の先に人情があり、人情の先に数字がある。この日ほど、真知子はこの店で孤独を感じたことはなかった。

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