第27話 同じ間違いをしたくなくて
俺の髪をたっぷり楽しんだ乃愛が、輝かんばかりの笑顔を浮かべて立ち上がる。
「満足しました。それじゃあ私もお風呂に入ってきますね」
「分かったよ。あ、ドライヤーは置いていってくれないか?」
「どうしてですか?」
「さっきの逆をしたいんだ。駄目か?」
「駄目じゃないですけど、私のアピールにならないですよ?」
「いいんだ。自分の一番近くに居る人を、今度は大切にしたいんだよ」
バイトに明け暮れたのは、生活や元恋人と付き合う上で仕方なかったと思っている。
けれど、あまり大切にしなかった事も否定できない。
乃愛が口にしてくれたように、ちやほやされて心が離れたのはあるだろうが、全て元恋人が悪いとは思わないのだ。
だからこそ、同じ間違いはしたくない。杠家の人達のお陰でお金の問題がかなり解消されているからというのもある。
蒼と黄金の瞳を真っ直ぐに見つめながら告げれば、乃愛が嬉しそうにはにかんだ。
「ふふ、ありがとうございます。そんな事言われたら、前と同じように甘えたくなっちゃいますよ」
「甘えていいんだぞ? 変わりたいと思ってくれるのは嬉しいけど、変わらないままの方が良い事もあるんだから」
「……でも」
「あと、その……。乃愛が甘えてくれると、頼られてるって実感があって嬉しいんだ」
今までの乃愛の行動は、俺の心を癒してくれた。
だからこそ、これから甘えてくれなくなるのは悲しい。
羞恥が沸き上がり頬が熱を持つが、それでも正直な気持ちを告げた。
すると白磁の頬が薔薇色に染まり、小さな唇が弧を描く。
「じゃあ、前と同じように甘えますよ? いいんですか?」
「どんとこい」
「なら、甘えたい時は思いきり甘えますね」
「そうしてくれ。ありがとう、乃愛」
「お礼を言うのは私の方ですよ。ぶっちゃけもう甘えられないのかなって思ってて、ちょっと悲しかったですし」
どうやら、心の底では甘えたいという欲があったらしい。
提案して良かったと胸を撫で下ろす。
そんな俺へと乃愛が顔を寄せた。
触れ合う程ではないが、蜂蜜を溶かしたような匂いが香る。
甘ったるい匂いに、心臓がどくりと跳ねた。
「でも、忘れないでくださいね。私だって、瀬凪さんが甘えてくれないと頼られてないって不安になるんですから」
透き通る蒼と黄金の瞳が、ジッと俺を見つめる。
心の底まで見透かしそうな二つの瞳に、視線が絡め取られて離せない。
「いい、のか?」
「勿論。中学生に甘える大学生が居てもいいと思います」
「そう言われると犯罪臭がするんだが……」
あまり年齢の話を出してはいけないと思って口にしなかったが、乃愛はあっさりとその話題に触れた。
とはいえ気にはしているようで、彼女は楽し気ではあるがどこか影のある笑みを浮かべる。
「お互いが納得しているのならいいと思いますけどね。瀬凪さんは私に甘えたくないですか?」
「さっき髪を乾かして貰った時が最高だったから、ぶっちゃけ甘えたい」
俺が乃愛に甘えると、状況によっては凄まじい光景になるだろう。
間違いなく他人には見せられないが、心は正直だった。
「ふふ。なら遠慮なく甘えてくださいね」
「……了解」
中学生とは思えない艶やかな笑みを浮かべ、乃愛が離れた。
彼女はそのまま機嫌良さそうに脱衣所へ向かっていく。
すぐに水音が聞こえてきたが、以前と違ってそれが妙に大きく聞こえた。
「いやいや、中学生の風呂を意識したらダメだから」
乃愛が年齢を気にしているのは十分に理解している。
けれど、越えてはいけない一線はあるはずだ。
「ちょっと風に当たってこよう」
ベランダの手すりに肘を乗せ、ほぼ夏と言っていい
体の熱を冷ましたり偶にスマホを見たりしていると、乃愛が風呂から上がってきた。
リビングに戻り、カーペットに腰を下ろして目の前を軽く叩く。
俺の髪を乾かして貰った時は乃愛がソファに居たが、体格が違い過ぎるので同じ事は出来ない。
「おいで、乃愛」
「はぁい」
風呂上がりで火照った頬を緩め、乃愛が俺の方を見ながらぺたりと腰を下ろした。
シャボンと乃愛の匂いが合わさり、凄まじく良い匂いが鼻腔をくすぐる。
それだけでなく、暑いからかパジャマの上のボタンを二つ開けているせいで、綺麗な鎖骨が見えてしまっていた。
残念ながら――いや残念に思っては駄目だが――胸元は見えていない。
それでも、水気を多く含んだ黒髪との合わせ技でかなりの色気がある。
その魅力的な姿に心臓の鼓動を早くさせられた。
「瀬凪さん? どうかしたんですか?」
「ああいや、その、可愛いな、と思って」
「ふむ? もしかしてアピール成功してますか?」
「……成功しちゃってるなぁ」
こてんと可愛らしく小首を傾げる姿からすると、無防備な姿は本当に無意識だったらしい。
これで無意識ならば、意識して行動した時はどうなるのだろうか。
あるいは、乃愛は中学生なので成長した時にどうなるのか。
末恐ろしさに背筋が寒くなる俺とは反対に、乃愛は喜びに満ちた甘い笑顔を浮かべた。
「なら嬉しいです。私、瀬凪さんに女性として見られてるんですね」
「そりゃあそうだって。見てなかったらさっき体を洗ってもらってたよ」
「確かにそうですけど、こうして目の前で反応してくれてると、強く実感出来ますから」
「……そっか。ほら、髪を乾かすから後ろを向いてくれ」
「はーい」
ぶっきらぼうな俺の言葉に笑みを深め、乃愛がくるりと後ろを向いた。
水が
「一応、軽く調べはしたけど、髪を乾かすコツとかあるか?」
「先に根本から乾かして欲しいです。ドライヤーは少し離してください」
「了解」
乃愛の指示に従いながら、黒髪を少しずつ乾かしていく。
長い髪が艶がかっていくのが分かるので、滅茶苦茶楽しい。
「……なんか、手慣れてる気がします。もしかして、元カノさんにした事あるんですか?」
「な、無いよ。さっき調べた程度の知識しかないし、その上で乃愛に聞いただろ?」
ドライヤーの音に紛れて聞こえてきた透明な声に、背中に悪寒が走った。
今の乃愛はどんな表情をしているのだろうか。完全な無表情だったら怖過ぎる。
慌てて弁明すると、乃愛がちらりとこちらを向いた。
いつもなら光が宿っているはずの蒼の瞳だが、今は何の輝きも宿っていない。
「確かにそうですけど……」
「というか、あいつとは外で会う事が多かったよ。勉強会で家に来た事もあるけど、俺がバイトで忙しくて全然時間が取れなかったんだ」
「家に来た事はあるんですね」
「……あの時は、あいつが恋人だったからな」
元恋人と交わした言葉も、交わった視線も既に過去のものだ。
しんみりした空気にしたくはないので「でも」と明るい声を部屋に響かせる。
「もう終わった事だし、女性の髪を乾かしたのは乃愛が本当に初めてだよ」
「ならいいんです。面倒臭い事言ってごめんなさい」
「気にしてくれて嬉しいから、謝る必要なんかないぞ」
嫉妬してくれるのは、それだけ俺を大切に想ってくれるからだ。
それを面倒臭いなどと思う訳がない。
乃愛を励ますと小さく「ありがとうございます」と聞こえた。
「完全に髪を乾かすの任せてますけど、嫌になったりしてませんか?」
「全然。むしろ楽しいし、こんなに綺麗な髪を乾かせるなんてご褒美だな」
「…………瀬凪さんから見て、綺麗なんですか?」
「ああ。すっごく綺麗だ。ずっと触っていたいくらいだよ」
羞恥と照れの混じった呟きに、迷いなく応えた。
すると、乃愛は頬に両手を当てて僅かに背を丸める。
髪を乾かすのに問題はないので、そのままにしておく。
「ありがとう、ございます。結構自慢なんです」
「確かにこれは自慢だよなぁ。もしかして、乃愛が自分で髪を乾かした方が手入れしやすいか?」
自慢と言える程に黒髪の手入れを頑張っているのなら、下手な事はしない方がいいかもしれない。
心配になって尋ねると、乃愛はゆっくりと首を横に振った。
「瀬凪さんは手際が良いので、乾かして欲しいです。あ、でも乾いた後の手入れは流石に自分でしますね」
「了解」
「それと、手入れが終わった後は好きに触っていいですよ。これもアピール、ですかね?」
「……アピールに、なるな」
頬の熱は収まったのか、再び俺の方を見た乃愛は悪戯っぽく笑んでいた。
どうやら俺の欲望が詰まった言葉を流すつもりはないらしい。
嬉しくはあるものの、手玉に取られた気がして羞恥が沸き上がるのだった。
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