新ミダス王奇譚

樹 覚

第1話 ネクロポリスの恐竜

 正午前。太陽が昇り冷えていた街を温める。柔らかい日光を浴びせて歩道脇の花壇に活力を与えていた。春だぞ、目を覚ませ、というように。

 腰の曲がった老婆が青年を連れて歩道を歩いている。老婆の弱った足腰の筋肉も優しく温められて痛みが引き、活動的になる。

 二人は腹を減らしていた。今日は何を食べようか、そんなことを考えていると前から六匹の犬が現れた。誰にも飼われていない、野犬。中型でぎらついた目で二人を捉えている。

 彼らも空腹だった。獲物のない冬を超えて飢えに飢えている。

「釣れた、釣れた」老婆は楽しそうに笑う。老婆を下がらせて青年が前に出た。

「これで鍋が食えるな、デスタッチや」

「だな、婆さん」

 デスタッチと呼ばれた青年はにじり寄る二匹を死んだ目で睨む。

 サンダル、筋肉のついた右腕、肉の落ちた、萎びた左腕。髪は手入れされていない、まだ春なのに全身が日焼けしている。

 警戒よりも空腹が勝り、二匹の犬がデスタッチに飛びかかった。かっと開かれた口中は真っ赤で涎が飛び散る。

 一歩退いて野犬の牙をかわしたデスタッチは空中の野犬、その首に回し蹴りを。

 骨の折れる乾いた男、その足を地につけた勢いに乗ってデスタッチは回転、またも回し蹴り、ソバット。

 その踵はもう一匹の野犬の頭蓋骨を砕いた。二匹は空中で絶命、地べたに死体を晒す。

 デスタッチはその死体に目もくれず野犬の群れに注意を向けた。

 しかし群れはデスタッチに恐れをなして逃げていく。

「いいぞいいぞ! デスタッチ、よく働く男じゃ」

 老婆は大きな麻袋を取り出して二匹の犬を入れる。

「ひっひっひっ。大きいのう。重いのう。儂らには一匹でたくさんじゃ。デスタッチや、も一匹は誰かにくれちまおう。いいな?」

「構わねーよ、目取眞めとりまのばーさん」

「ひっひっ。太っ腹な男じゃ。死んだ夫を思い出すわい。帰って飯にしよう」

 麻袋を背負って目取眞という老婆はデスタッチの先を行く。

 十分ほど歩けば西国立駅に着く。行政の介入しないネクロポリスなので電車は走っていない。

 しかし住人は今も駅の近くに集まる。人のいる所ほど利便性が高いのでさらに人が集まるようになる。朝から賑やかだ。

 駅のそばに大きなデパートの廃墟があり、人々はそこで市場を開いている。目取眞はそこへ入っていく。

 後をついていくと老婆は犬を薪と交換するよう男と交渉している。

 話がつくと大量の薪を貰い、それを麻袋へ入れた。重そうに引きずってくる。

「ひっひっ。儲けたわい。余った薪は塩と味噌に代えよう」

 一階フロアの奥の男から塩と味噌を調達。

「目取眞の婆さん、今日は大漁のようだな」味噌を秤に乗せて男が言う。

「あたしの運とデスタッチのおかげさ。久しぶりに腹一杯食えるよ、ひひ」

「俺も薪が手に入って嬉しいぜ。女房が風邪ひいてな。また薪を持ってきてくれよ、婆さん、デスタッチ」

「じゃあな」

「あたしがポックリ逝ってなきゃまたくるよ」

 デパートを出ようとすると、正面から二人、人が入ってくる。一人は知った顔だ。

 水澄涼みすみりょう。超人。超が付くほどのお人好し。人懐っこい笑顔。

「ちいす。デスタッチ。目取眞のばあさんも」片手を挙げて気安い涼。

「また会ったな」

「何しにきた? お前は外に行ったんじゃないのか?」とデスタッチ。彼の言う外とはネクロポリスの外のことだ。

「外に引っ越したのは成り行きさ。俺の心はいつもネクロポリスにあるの」

「いいこと言うねえ。今時の若いコは愛郷心ってものを知らんけど」目取眞はちらりとデスタッチを見る。

「涼、あんたは別だね」

「それほどでも」アイキョウシンってなんだろう、そう思いながら涼は話を合わせる。

「こいつはカーター・スマックス。俺の友達。カーター、こいつらは目取眞のばあさんとデスタッチだ」

 カーターは折目正しく頭を下げた。

「カーターです、初めまして」

「おやまあ、礼儀正しい人だね。外国人のようだけど日本に来て長いのかい?」

「そろそろ十年になります。マダム」

「気に入ったよ。涼たちも鍋食うか? でっかい犬が手に入ってね」

 カーターがギョッとするのが涼にはわかった。

「悪いけど昼飯食ったばかりなんだよ。カーターが連れてってくれてな。ハンバーガーってのを食べさせてもらったんだ」

「そりゃ残念だよ、久しぶりに会えたってのにさ」

「次に来るときは俺が肉を獲ってくるよ。それとデスタッチ」

 涼は普段と変わらない、物腰柔らかさで声をかけた。

「男同士で話がしたい。ちょっと付き合ってくれよ」

 目取眞の婆さんを外すとなると、教会絡みの話だろう。気乗りはしないが、先日誘いを断ったばかりだ。涼との関係を悪くはしたくない。

「あたしゃ席を外そうね」

「いや。婆さんを家まで送って戻って来る。ここで待ってろ」


「あたしのことは気にしなさんな。たまには男だけで遊んでおいで。ひっひっひっ」

 目取眞に留守番を頼みデスタッチはデパートへ戻る。

 ファストフード店後の座席に涼とカーターは座っている。

「ここもハンバーガーを出してたとはな」涼は感慨深そうだ。

「デスタッチ、こっちだ」

 二人に距離を取ってデスタッチは座る。それは心理的な距離を表しているだけでなく、彼の力能、その危険性を配慮してのことだ。

「最近ここらででっかいトカゲが出たって聞いてさ」

 涼の言葉は意外だ。

「確かにトカゲだかワニだかが出たと聞いたな。目取眞のばーさんが言ってたよ」

 季節外れではあるが大きなトカゲは珍しくない。下水道にワニが住み着いている、そんな噂も聞いたことがある。そのトカゲに彼らは何の用があるのだろう?

「俺ら『教会』はそのトカゲがドラゴンじゃないかと思ってんの」と涼。

『虚寂竜』ディオゲネス・クラブか」デスタッチは得心。たしかに目取眞には聞かせられない話だ。

 カーターと涼は頷く。

「ワニに変身するエレメンツが出たとしたらほっとくわけにいかないんでね」

 ディオゲネス・クラブとエレメンツ。異世界から侵入したドラゴンとその仲間たち。

 ディオゲネス・クラブというドラゴンは孤独を感じている人間を見つけては自身の鱗を仮面に変えて与える。仮面を与えられた変身能力者をエレメンツと呼ぶ。

 何故なのかはわからないが人間に対して明確な敵意を持つこのドラゴンに対抗するのが涼の所属する武装組織『教会』である。

 涼たちはトカゲのエレメンツを探しているらしい。

「知らないなら知らないでいいんだ。見つけても絶対関わるなよ」と涼。

「無茶苦茶強いんだから」

「なんだ。デブリのときは俺をあてにしてたじゃないか」

 デスタッチの力能は触れたものを砂に変える。鉄だろうが水だろうが人間だろうが。デブリであろうと砂にできる必殺の力能。

 涼は渋い顔になる。

「……カバのエレメンツと戦ったんだが、ちっとも歯が立たなくてさ。危なくて頼れねーよ」

「お前が? 超人がか?」

 デスタッチは驚いた。涼が負けるところなど想像できない。デスタッチなら超人だろうが関係なく殺せる。しかし身体能力の絶対的な差異のために超人に触ることなどできはしない。

 その涼に勝つ?

「引き分けだったろう」黙っていたカーターが口を挟む。

「無我夢中だったんだよ。あのときの俺はどうかしてた。うみが起こしてくれなけりゃ、最悪寝たまま殺されてたかもしれないんだ」

 自身の弱さをあっけらかんと話してしまう涼。

「目取眞のばあさんにも気を付けるよう言っとけな?」

 涼が立ち上がり、カーターもそれに倣う。

「これからどこに行くんだ?」

「もう少し西へ。今日は日野ひのまで行こうと思う」とカーター。

「というわけ。じゃあな、デスタッチ」

 二人は帰っていった。いや、日野まで行くのだったか。


 目取眞と昼飯を済ませてデスタッチは散歩に出かけた。散歩といっても遊びではない。いわば明日の狩りの下見だ。

 大きな雲が出てきて暗くなってきた。また寒くなりそうだ。目取眞が文句を言うだろう。それで暖かくなるわけでもないのに。

 涼も今頃空を見上げて目取眞の心配をしているだろうか。多分そうだろう。あいつは他人の心配ばかりしている。

 デスタッチは両腕が役に立たないため他人の助けを必要としている。麻痺した左腕、触れるものを砂に変える右腕。その代わり、世話をしてくれる者の安全を守るボディガードをして生きている。

 デスタッチに目取眞を紹介したのも涼だ。それ以前はいつも涼が世話を焼いていた。

 超人の涼がデスタッチを頼ることはない、ただ彼が好きで親切をしているだけだったが、デスタッチはその恩を忘れたわけではない。

 小さな森に着く。この季節なら獲物の山だ。何人かが採集をしている。虫か鼠か、鹿が取れれば最高だろう。

 森の右側の道路を行けば学校がある。もちろん廃墟だが。アパートのように多くの人が住んでいる。

 そこから人の悲鳴と、何かの鳴き声。

「…………?」

 鳴き声にしては大きい。野犬ではない。熊でもない。まるで雷のような。

 涼の言葉を思い出す。ディオゲネス・クラブ。デスタッチは走り出した。

 鳴き声の主はすぐにわかった。遠目にもそれとわかるほど大きく、鳴き声と同じくらい珍しい生き物だ。

「ナニモンだ、こりゃ……!」

 一軒家ほどもある巨体から逃げ惑う人々。自分の方へ向かって来る者をデスタッチは器用に避ける。特に右腕に触れないように。

 ネクロポリスでは見ない生物、いや、現代では見ることのない生物。

 メガロサウルス。大きさは八メートル。二本の太い足で地面を踏みつけ天に向かって吠える。

 緑がかった肌。前足は小さい。尻尾はそれ自体がアナコンダのよう。流線型の体格、鋭角の口は大きく裂けそこから見えるナイフのような牙は血で真っ赤だ。体毛のない鱗の下で冷たい筋肉が力強く脈打つ。数メートル離れても悪臭が鼻を刺す。

 そして、目。野犬どころか熊とさえ比較にならない殺戮者の目。ジュラ紀をのし歩いた捕食者の飢えた目にデスタッチはすくみ上がった。

 メガロサウルスが唸り声を出す。ゆっくりとこちらを向く。逃げろ、殺せ。デスタッチの生存本能が二種類の悲鳴をあげる。

「水澄涼!」

 大声で涼の名を呼んでデスタッチは逃げ出した。

 デスタッチの健脚は主人の命令を待たずに動いていた。 

 愚かにも立ち向かっていたら今頃胃袋の真っ只中だったろう。的確な判断をした自分を褒めてやりたい、生き延びられれば。

 突然駆け出したデスタッチを認めたメガロサウルスは迷いなく彼を追いかけた。

「…………!」

 地響きと悲鳴。少ししてからその悲鳴を出しているのが自分とわかった。

「グオオオオッ!」

 原始的な脅威と原始的な畏怖。最凶の力能者であるデスタッチは全力で走る。

 そこにメガロサウルスの咆哮をかき消すようなエンジン音。あまりに大きいので雷が近くで落ちたのかと思ったほどだ。軍用トラックが全速力で向かって来る、トラックの上に涼。

「おお、あれがドラゴンか!」と涼。

 運転しているカーターもあまりの光景に声も出ない。

「停めろ、カーター。コロン、レシーブオール、コンバットモード! とうっ!」

 全てを受け入れろ、戦闘態勢を宣言して涼は飛び降りる。仮面ライダーのように飛び上がり、アメコミ映画のヒーローのように膝を立てて着地。トラックの前方に。顔を上げてメガロサウルスを睨む。

「うわ涼!?」とカーター。

「うわらば!?」と涼。

「うわなんだ!?」とデスタッチ。

 着地した涼をホイールオブフォーチュンが撥ね飛ばしてしまった。

 重量なら恐竜をゆうに超える軍用トラック、ホイールオブフォーチュンなのだから停まれと言われて急停止できるわけがなかった。

 カーターはまさか前方に涼が飛び出すと思ってなかったし、涼は慣性の法則を理解していなかった。

 ホイールオブフォーチュンに突き飛ばされてメガロサウルスの足元へと吹っ飛ばされる涼、メガロサウルスは米を啄む雀のように涼を頬張った。

「涼!」

「くさいー!」

 メガロサウルスの口中で飲み込まれまいと涼は踏ん張る。咄嗟に舌を思い切りつねってやる。

「ゴアアアア!」

 吐き出された涼。涎まみれ。

 その涼にメガロサウルスが突進してくる。その横からホイールオブフォーチュンが突っ込む。

 轟音。アスファルトがひび割れる。ホイールオブフォーチュンの重量とパワーの前には人間も恐竜も変わらない。涼と同じくメガロサウルスも突き飛ばされた。

 運転席のカーターは衝撃で失神、エアバッグに体を預けた。

「カーター!」

 恐竜を追撃するかカーターを救出するか、涼は逡巡。

 カーターを安全な場所まで避難させたい。しかしあのメガロサウルスがそれまで待ってくれるとは思えない。

 地響き、メガロサウルスが立ち上がる。ゴジラのような咆哮。

 涼とデスタッチはメガロサウルスの前へ。

 デスタッチにカーターを保護してもらうか、一瞬そんな考えが浮かんだが却下。両手を使えないデスタッチにそんな器用な真似はできない。

 恐竜は一歩進む。その歩調に違和感。

「なんだ?」とデスタッチ。

 メガロサウルスは膝をつき、横向きに倒れた。

 白目を剥いて沈黙。

「軍用トラックにぶっ飛ばされたら、そりゃこうなるよな」

「こいつがディオゲネス・クラブか」

「その手で触るなよ、デスタッチ。これでも人間なんだからな」

「わかってるって。お?」

 巨体がみるみる縮んでいく。

 姿を現したのは少女。中高生くらいか。気を失っているが痛みを感じているようにも見える。

 少し線が細く顔色も悪い。健康的な生活はしてなさそうだ。

 品のいい白のワンピース、清潔でネクロポリスに馴染まない。

「これがエレメンツってやつなのか、涼?」

 足で少女をつっつくデスタッチ。

「起きないな」

「……マスクがないぞ?」

 そう言って涼は横たわる少女の周りを探す。

「エレメンツはマスクを着けて変身するんだとか。だとしたらマスクがここらに転がってるはずだろ」

 石の下のダンゴムシを探すように、女の子を持ち上げて地面を探す。無い。

 ボディチェック。彼女の顔を覆い隠すような大きさのものなど持っていない。

「なあ、涼、もしかして」

 デスタッチの方を振り返る涼。 

「そいつ単に『力能者』じゃねえの? 変身能力の」

 敵でもない女の子を、俺たちはトラックで轢いたのか?

 血の気が引いた。


「カーターたちが戻ってくるぜ」

 キューピッドの言葉でドロップレーとうみは正門へ。

 宗教画に出てきそうな姿のキューピッドは出会いを見つける能力を持つ妖精だ。

 この小人の言葉はしばしば予言のように働くのでドロップレーは便利に思っている。

 生まれる前に知り合った恋人を探そうとしていたドロップレーにかつてキューピッドは声をかけた。

「お前の恋人探しを手伝ってやるよ」

 契約だ。そう言ったキューピッドにお前の見返りはと聞いてみたら。

「お前が恋人を探す、それ自体が俺の見返りだ」

 そう返された。

 私ははぐらかされたのだろうか、今でもドロップレーはそう思う。

「ドロップレー、涼たちはディオゲネス・クラブの情報を見つけたと思う?」

「かもね。そしたら教会総出でドラゴン狩りになるのかしら」

 教会総出で。あのヒポポタムスでさえこちらの主力を注ぎ込んで引き分けに持ち込むのがやっとだった。

 このまま決戦ではたぶん勝ち目がない。それは会長である観音かんのんやだるまもわかっているだろう。

「お二人とも、どうしました?」

 振り返ると鉄仮面を被った女医が。ドクター・ブリキ。

「お茶にしませんか、海さん、ドロップレーさん」

「ドクター、そろそろ涼が帰ってくるんです」

「そうなの。もしディオゲネス・クラブの情報を持ち帰ったのならお茶してる場合じゃないわね」

 ブリキはそう言って茶器を載せたトレイを講壇に置いた。

 ホイールオブフォーチュンの走行音が聞こえる。

 三人は出迎えるべく外へ。

 停止したホイールオブフォーチュンから飛び出した三人は様子がおかしい。三人?

「あ、デスタッチ……」と海。

 涼は女の子を背負っている。

「ドクター! 急患だ、この子を助けてくれ」ほとんど悲鳴の涼。

「ドロップレー、ストレッチャーを出して! 海は手術室の用意!」

 ドクターの指示で走り出す二人。

「ストレッチャーが来るまで長椅子に寝かせる。どうしたの?」

「エレメンツと間違えてホイールオブフォーチュンでぶっ飛ばしちゃった!」と涼。

「無我夢中だったんだ。彼女が死んだら、俺はどう償ったら!?」カーターは完全にパニックだ。

「君も見てたの?」デスタッチにそう聞きながらブリキは触診する。

「そうだ。たまたま居合わせた」

「あの軍用トラックにはねられたにしては軽傷だわ。打ちどころが良かったみたい」

 言いながら瞳孔を覗く。

「本当か!?」カーターが食いついた。仕事で民間人を殺したとあっては申し開きもできない。かつての仇敵、スーパーヒーロー、『ガスペダル』に合わせる顔がない。

「まあデカいワニに変身してたからな」とデスタッチ。

「ワニ?」

「脚と顔がバカデカいワニだ。二本足のワニ」

「デカいこと山の如しだ」涼が余計な補足をする。

「お前らな、あれは恐竜ってんだ。知らないのかよ」とカーター。

「恐竜に……変身したの? ま、いいわ。問題無し。擦り傷と栄養失調といったところか。救急箱をとってくるから三人とも、この子を見ててね」

 そう言ってブリキは姿を消す。

「恐竜ってなにさ?」涼の素朴な問い。

 ネクロポリスの住人、インサイダーの教育水準の低さを見せつけられるカーター。

 自分も褒められた人生を送ってきたわけではないがしかし、そのさらに下を生きてきた涼の教養の粗末さに絶句しそうになる。

「恐竜ってのは、人間が生まれるよりずっと前、数億年前に隕石衝突で絶滅したオオトカゲだ。この子が変身してたのはたぶんティラノサウルスだな」

 不確かな記憶を必死に掘り出すカーター。

「隕石ってたしか、流れ星みたいなやつか」とデスタッチ。

「そうそう。それの巨大版だよ。世界中の恐竜がそれで絶滅したの」

「数億年も前の生き物に変身する力能者か。なんでもありだな」

「デスタッチ? お前が言うの?」涼がツッコミをいれる。

「静かにできないの、君たちは」ブリキが救急箱を用意して戻ってきた。

「気が付いたのね、お嬢さん」

 見ると、当の少女は目を覚ましていた。状況をつかみかねて不安そうにこちらを見ている。

「私はドクター・ブリキ。怪しいのはわかるけど医者よ。足の治療をさせてね」

「え、ええ、ありがとう……」少女の声を初めて聞いた。喉が乾いているのか、掠れている。

 傷口を洗浄、消毒して絆創膏を貼る。

「これでよし。なにか欲しいものはあるかな、お嬢さん?」

「あの、水と、精神安定剤をくださいますか?」

 そう聞いて涼たちは納得した。精神安定剤を欠いた超人や力能者は我を失い暴走する。

「予備の薬があるから取ってくる」涼は本堂奥の扉から自分の部屋へ。

「どうした? ディオゲネス・クラブのことはわかったか? 誰だ」

 涼と入れ替わりでだるまが出てきた。スーツ、白衣、竹の杖、ポニーテール。

「お、もしかして、エレメンツの捕虜か、その子は?」

 エレメンツだろうと恐れるに足らず、そんな調子で顔を覗き込む。

「違うんだよ、ドクター」とカーター。

「なにが?」

「その子は無関係なんだよ。エレメンツと間違って傷つけてしまったんだ」

 カーターは詳細をだるまに説明する。己の過失の報告なので気が重い。しかし黙ってはいられない。

「エレメンツに酷似した力能で、ためにホイールオブフォーチュンに突撃されたか、災難だな、お嬢さん。俺からも謝罪させてくれ」

 深く頭を下げてだるまは近くの長椅子に腰掛ける。涼が戻ってきて紅茶と安定剤を渡した。薬を飲んで、少女は深く頭を下げた。

「お陰で助かりました。ワタクシ、安定剤の配給をもらったところを追い剥ぎに襲われて、力能を暴発させてしまったのです」

 ネクロポリスの住人、インサイダーは基本的に日本政府の支配と保護を受けないが、食事の配給、超人や力能者への安定剤配布は特例で行われている。

「朝晩の配給をもらったばかりの力能者から薬を取り上げるとは相当考え足らずのアホだな」と正直な感想のデスタッチ。

 超人、力能者は朝晩の安定剤を欠くと暴走し手当たり次第に破壊を撒き散らす、そのために食事前の力能者たちはダイナマイトのように避けられがちだ。

 ネクロポリスでは基礎的な常識だが、いつでも馬鹿はいる。どこにでも。

「皆さんがワタクシを止めて下さったのですね?」

「止めたというか、アクセル全開というか……」

 罪の意識に耐えられないカーター。

「ワタクシ、扇塚微風せんづかそよかぜと申します。皆さんにお礼をしたいのですが、追い剥ぎに何もかも盗られてしまって……」

「扇塚!?」

 だるまが立ち上がる。

 エレメンツと戦った時でもここまで動揺はしなかった。

 涼たちは驚く。

「まさか、扇塚元老院せんづかげんろういんの一族!?」

 だるまの剣幕に、微風は面映そうにうつむく。

「元老院をご存知でしたか。ワタクシは扇塚元老院の直系です。勘当されましたので元がつきますが」

 品よく頭を下げる微風。

「だるま、扇塚元老院ってなんだよ? 偉いのか?」

 涼が聞く。

「偉いよ。獅子氏ししのうじ財閥という巨大財閥の分家だ。扇塚は政界を支配している、優秀な政治家も多数輩出しているんだ」

「へえ、知らなかったな」とデスタッチ。彼は政界という言葉も初めて聞いた。

「インサイダーでなくとも知っている者は限られている。獅子氏財閥は巨大過ぎて露出を必要としないくらいだからな。扇塚元老院も。この教会だって政府の直轄だからある意味では元老院の支配下だ。それと軍事関係の刃渡はわたりコネクションと被っているし」

「随分事情に詳しいのですね。失礼……」

「おっと。すみません、俺は帯刀だるま、ここは防衛庁特殊実戦部隊『教会』です。ネクロポリスのすぐ外ですよ。お前らは名乗ったのか?」

 デスタッチを認めながらだるまは仲間に尋ねた。

 三人はだるまにならって自己紹介。カーターは己の過失を正直に話し、謝罪した。横で聞いていただるまは思った。これでよくヴィランをやってこれたもんだ、いや、だからリタイアしたのか。

 微風はむしろ、よく止めてくれたとカーターに頭を下げた。

「微風、帰る場所はあるのか? 今日は泊まってく?」

 馬鹿野郎涼、だるまは涼を睨む。ここはホテルじゃねえんだぞ。

「いいえ、帰ります。ネクロポリスへ。ここにいても皆さんの邪魔になるだけですから」

 そう言って微風は立ち上がる。名前の通りの涼しい顔だが、足元をふらつかせていた。

「ドクター・ブシドー、俺には彼女を傷つけた責任がある。ネクロポリスまで送って行くよ。いいだろう?」

「ま、いいだろ。それと」だるまはデスタッチを見る。

「そいつもついでに送ってってやれ」

「俺か?」デスタッチは自分を指差す。

「教会に加わる気はないんだろう、デスタッチ」

「俺を引き入れようとしたのは涼じゃなく、あんたか、帯刀?」

 だるまは簡潔に頷く。

「やる気がないなら戦力にならん。来る者は拒まないが来ない者を追うほど暇ではないんでな、それでは扇塚さん」 

 だるまがドロップレー以外にこんな折目正しい態度をとるのは初めてだ。

「元老院を追放されているとはいえ、我々教会は最低限の礼儀として説明しなくてはならないということをご理解いただきたい。つまりあなたを無条件に受け入れられない理由をです」

「私、お世話になるつもりはないんですけど」

「はい、それでも、最低限の礼儀なのです。扇塚の関係者を理由も示さず追い出した、などと政府が知れば、あなたから出ていったと俺が釈明してもただではすまない。我々『教会』、政府、扇塚元老院、刃渡コネクション、その連携に亀裂が入るのです」

「大変な立場なのですね。ご苦労様です」

「恐縮です。また二つ目の理由として、この教会は任務の性質上極めて危険であることが挙げられます。民間人、非戦闘員がいていい所ではない」

「俺はネクロポリスの方が危ないと思う。涼は?」

 カーターが尋ねる。

「デブリもディオゲネス・クラブもネクロポリスでした見つかってないだろ? 野盗追い剥ぎもめっちゃいるし。ここの方が少しは安全だと思うね俺は」

 それを聞いて微風は納得した。なるほど、と。

「つまり危険であるところのネクロポリスにワタクシが承知の上で帰った、帯刀さんはそれを止めたがワタクシは聞かなかったと、そう仰りたいのね?」

「流石に政界の中心たる扇塚の直系ですな。こちらの意を見事に汲んでくれる」

 だるまは顔色一つ変えない。

 微風は立ち上がり微笑んだ。

「お茶にお薬、助かりました。それではこれでお暇いとまさせていただきます。スマックスさん、案内してください」

 言われた通りにカーターが先導しようとしたとき。

「待て待て! 俺は納得しないぞ! 小さな女の子をネクロポリスにやるなんて!」

 涼がごねたが、だるまは予測していた。

「では涼、お前に任務を与える。しばらくの間ネクロポリスを拠点にして扇塚さんの生活をサポートしろ」

「いいけども、ここで預かれないのかよ、だるま」

「今この瞬間にも『ヒポポタムス』が殴り込んでくるかもしれないんだぞ」

 ムゥ、と唸る涼。

「ま、いいか。微風ちゃん、しばらくよろしくな」

 ラフな敬礼。

「車を出せよ、カーター」

 カーターはポケットからキーを取り出す。

「この任務はネクロポリスでの情報収集も兼ねている。デブリやエレメンツを見つけたら連絡しろ」

「いいけどよ、だるま、連絡手段は? あそこには電気なんか通ってないし、俺の右腕は電話じゃないぜ」敬礼していた金属の腕悪魔をひらひらさせる涼。

「実は悪魔デビルには通話機能がある」とだるま。

「マジか」

「ああ、中指から薬指まで握って、電話機のように耳に当てろ」

 だるまは手本を見せる。電話のジェスチャー。

 涼は素直に真似る。

「もしもし?」

「ま、嘘だが」さらりとだるまはぶっちゃけた。皆笑う。微風まで。

「表出ろだるまお前ェ!」

「悪かった悪かった」ニヤけながら謝罪。

「スレイヤーの誰かを定期的に向かわせるよ。緊急性を認めたときは全力でここまで走れ。超人なら一息だろう。一瞬か」

「わかったけど、お前のジョークは腹が立つんだよ」

「そうだな、ユーモアはいつまで経っても上達せん。ではカーター、扇塚さんと涼をお送りしろ。ついでにデスタッチも乗っていけ」

 デスタッチはだるまを見る。無感情な顔つき、瓶底びんぞこのよう。

「乗ってけよ、デスタッチ。そうだ、お前まだ、市役所に住んでんの?」

 もちろん市役所の機能を失った廃墟だ。四階建て。死んだ街の死んだ市役所。

「ああ、そうだ。西国立のな」

「まだまだ空き部屋あったよな。俺と微風はしばらくそこで世話になるぜ」

「決まりだな」そう言って背を向けたデスタッチにだるまは声をかける。

「なんだ、まだ用があるのか」

「デスタッチ、もし教会に加わるというなら、俺たちはお前の力能の回復を手伝う用意がある」

 だるまの言葉に、デスタッチは身を強張らせた。

 力能? デスタッチの力能は万全じゃないか、カーターはデスタッチを見やる。

「それが教会の条件だ。期待はしないが、俺は待ってるぜ」

「…………」

 だるまの出した条件に涼は気分を害する。

「取り引きかよ。気に入らないな。人を助けるのに見返りがいるのか」

 涼の非難に応えた風もなく、だるまは肩をすくめる。

「お前らしい意見だ。皮肉じゃないぜ。だが涼、これでも」

 だるまは教会内部を指差した。

「『教会』は軍事組織だ。ボランティア団体じゃない。限られたリソースを見返りなしに使いはしないよ」

 軍の規律ルールを涼はわかっていた。軍は慈悲でなく論理で動く。

 自衛隊時代はそこを受け入れられず上官とトラブルになったりもした。

 もう顔も思い出せない上官、彼の言葉を涼は忘れていない。

「慈悲では救えない命もあるのだ」

 彼は『水際の戦争』で戦死した。

 どうすれば彼を救えたのだ?

 決して手の届かない過去を想う、今頃は海の底の上官を。

「悪いが断るよ。それほど不便じゃない、俺はな」とデスタッチ。

「暗くならないうちに参りましょう。水澄さん、スマックスさん」

 立ち上がった微風を追ってインサイダーたちは教会を出た。


 ホイールオブフォーチュンの人員用コンテナでデスタッチと微風は向かい合っている、しかしデスタッチは目を合わせようともしない。

「デスタッチさんのお宅ってどんなところですか?」

「安全だ。人が多い」

「安全ですかぁ。ネクロポリスでは貴重なスポットですねぇ」

「だから人がより集まる。集まるから、また安全になる」

「インサイダーも安全が欲しいんだ。ワタクシと同じだな」

 ちらりと微風を見る。感情のない、人形のような瞳だ。しかし、どこか美しい。微風は一瞬その目に見入る。

「あの、なにか?」

「外も危険なのか?」

 外?

「ああ、もちろんです。ネクロポリスほどではないですが犯罪があります。海の外では戦争が起こったこともありますし」

「……だから軍や『教会』があるんだっけ」

「外といえば、異世界。驚きましたよワタクシは」教会と聞いて微風はデブリやディオゲネス・クラブのことを思い出した。デブリ、『虚寂竜』ディオゲネス・クラブ、どちらもネクロポリスのどこかに空いた異世界に通じる穴からやってきた。

 デブリらが出現するのはだから、ネクロポリスだという。ドラゴンスレイヤーである涼がついてきてくれるのは心強い。

「怖いか、扇塚」

「まあ、正直。さっき追い剥ぎにあったばかりですし」

「少なくとも涼がいるうちは安心していい。あいつは最強だ」

「寄らば大樹の陰ですね」

「なにそれ?」

「どうせ頼りにするなら頼り甲斐のある人、みたいな意味です」

「外のヤツらは変な言い回しを考えるな」

 壁の外を意識するインサイダーは少ない。日々の生活に追われて余計なことを考える暇はない。

「そういや、俺の世話をしてくれてる目取眞って婆さんがいるんだが、あいつも外の人間だったな。家族を失って、身を持ち崩してインサイダーになったんだと」

「ご家族を? お気の毒に」

「お前……、よく言えるな」

「お気遣いどうも」微風はぎこちなく笑う。愛する家族に捨てられてなお気丈に振る舞うタフさにデスタッチは驚いた。

「ワタクシ、この力能を暴走させて追放されましたが、いつまでもめそめそ泣いていたんでは死んでしまいますからね。それはもう十分思い知りましたとも。ですから前向きに生きることにしたのです」

「お前は長生きできるよ、扇塚」

「ええ、ええ。早く身の振り方を考えて安定した生活をゲットしたいですわ」

 ブレーキ。

「着いたな。ようこそ、扇塚。俺ん家へ」

 後部のドアを涼が開ける。タラップを出して微風に手を貸してやる、落ちないように。

「ありがとうございます、水澄さん」

「どーいたしまして。デスタッチ、お前に手は貸せないぜ」

「当たり前だろ」触ったら死んでしまう。デスタッチ。

 トラックのどんな部分にも触れないよう注意して降車。

 市役所だった建物は比較的綺麗だ。手入れされている。内部から賑やかな声。

「涼。それじゃ俺は帰るぜ」

「おう。サンキューな、カーター」

 走り去る巨大なトラックに涼は鋼鉄の腕を振る。

 デスタッチたち以外にも市役所に出入りする者がいる。中からは喧騒。

 目取眞が迎えに来た。

「おやまあ、初めましてのお客さんだね。それに涼も」

「や、目取眞のばあさん。元気そうだね。しばらくまた世話になるよ。よろしく」

「そりゃあいい。そっちの可愛いお嬢さんは?」

「扇塚微風です。最近ネクロポリスに越したばかりでして、水澄さんと同じくしばらくこちらでお世話になることになりました」

 よろしくお願いします。微風は頭を下げた。

「あれまあ、なんて礼儀正しい娘だろうねえ。姉さんを思い出すよ。たしかにこれじゃ長生きできまい」

 微風を気に入ったのか、声が高くなる。

「だけど安心していいよ。ここはネクロポリスで一番安全な所だからね。これから夕飯の支度なんだ。みんなついといでね」

 目取眞は手招き。

「上機嫌だな、目取眞のばあさん」とデスタッチ。

 入ると小さな商店がいくつも出店している。食料、衣服、燃料、薬物、書籍、驚いたことに、拳銃。

 外まで聞こえてきた喧騒は彼らの声だった。

「こういう開けた空間は市場になりやすいんだ」

 お金の制度はないけどね、と涼は微風に説明してやる。

 見ると客は塩や薪といった燃料を商品と交換している。

「ここでも物々交換なんですね」

「当然だろ。交換じゃなきゃなんなんだ?」

「ネクロポリスの外じゃお金で品物を買うんだよ、デスタッチ。俺もお金を貰ってるぜ」

「ひっひっ。ネクロポリス生まれのデスタッチに仕事を自慢しても仕方なかろ。この街に金で買えるものなんぞありゃせん。この街じゃ金まで死んどるのさ」

「金まで……」

「あたしももう長いこと金なんて見てないねえ。左団扇だったころを思い出すよ。昔は羽振が良かったもんさ」

「そういやここに来るまではなにしてたんだ、目取眞?」

 おやまあ、とわざとらしく驚く目取眞。

「あたしの過去に興味を持つなんて珍しいねぇ。だけどデスタッチ、女の過去を詮索するもんじゃないよ。それがあたしのようなマダムなら尚更ね」

「ばあさん、夕飯の支度は?」と涼。

「そうだったそうだった。後は台所を借りるだけ。微風ちゃんよ、あんた料理はできるかい?」

「い、いいえ、厨房に立ったことは……」

「ほんならこれが初体験だね。あたしが教えてやるよ。美味い飯の作り方、食べ方をね。こっち来な。デスタッチ、あんたと涼は留守番だよ、いいね」

 目取眞の指図に従い二人は最上階、デスタッチに割り振られている和室に向かった。

 デスタッチ個人が所有するには広過ぎる建物であり、彼の許可を得て住み着く者も多くいた。一階や二階のホールのような開けた空間はいつの間にか市場になっていた。

 住人が増えることによって比較的治安の優れた建物となったがそれでもトラブル、暴力沙汰が起こることもある。そうした緊急事態にデスタッチや涼のような腕自慢の存在は、だから重宝がられた。

 目取眞に留守番しろと命令された二人は単に食事を待っているだけではない。デスタッチらに割り振られた和室を点検する。不審者はいないか。危険物はないか。片付いているか。

 当然乱入者も警戒する。

 涼は力を抜いて座り込み、デスタッチは立ったまま周囲を監視。

「天下のデスタッチ家に殴り込む馬鹿はいないと思うけどね」涼は食卓を出して食器を並べる。

「俺はそうは思わん。この街は馬鹿でいっぱいだ」

 そう言ってデスタッチは座る。

「扇塚でなくとも暴走した力能者ってのは話が通じないからな。そうなるとこちらも手段を選べねえ。殺しは俺も避けたい」

 デスタッチの目に期待が込められているのに涼は気付いた。

「そういう時は頼りにさせてもらうぜ、涼」

「お待たせだね、男衆。ほら、晩飯ができたよ」

 目取眞と微風が煮立った鍋を持ってくる。刺激臭。

「お口に合えばいいんですけど」と言う微風の頰は引き攣っている。

 デスタッチは小さくため息。またこれか。贅沢など言えないが、目取眞のレパートリーにはときおり嫌になる。

「いい匂いだぜ。ばーさんの飯は久しぶりだな」涼だけが平気そうだ。

「座れよ」デスタッチは微風に言う。

「いずれ慣れる。座れば、じゃない、食えば、じゃない、住めば都っていうだろ」

 言われた通りに座る。心を決めて、微風は鍋をすくった。


「扇塚元老院ねえ。あたしゃそんなの聞いたことなかったよ」

「お金持ちだけが知っている、秘密結社みたいな集団ですから。でも財団の影響力は全国に及んでるんですよ。……ネクロポリスを除いて」

 夕食を終えて四人は雑談。

「やっぱネクロポリスには関わりたくないんか?」

 涼が寂しそうに言う。

「獅子氏財団の目的は、端的に言ってお金儲けです。お金が流通していない土地に投資しよう、干渉しようとは思いません。まあ政府を通じて最低限の福祉サービスはしているようですが、それはひょっとしたら財団法人は関係なくて政府の判断かもしれません」

 微風は卓上にある飲み薬のパッケージをつついた。

 扇塚元老院の生業は主に政治家の輩出。政権に求められればシンクタンクの役割を果たしもするが、直接的に政策に関わることはない。政府の独立性を尊重し、自身の暴走を防止している。

 その為にネクロポリスを支援する政府の狙いを彼女は知らない。まして元老院に加わる前に追放された身だ。政府の意向も元老院の意見も知ることなどできない。

「用のない連中なら、俺たちも用はない。それだけだ」デスタッチが呟く。

「模範的な意見だね」と涼。実にインサイダーらしい反応だ。

「君子危うきに近寄らずだね。ここは地獄じゃないが、でも住み心地のいいとことはお世辞にも言えん。娘を捨てるのによりによってどうしてここなんだろね?」と目取眞。

「さっきも言ったように財団の手が届きませんから。暴走する力能者の家族なんてスキャンダルでしょう? 勘当というよりほとんど封印ですよ」

 私に早く死んで欲しいから。

 そうは言えない。親切にしてくれた彼らにこれ以上気を遣わせたくなかった。

「スキャンダルって、なんだ?」

「スキャンダルも知らんのかいデスタッチ」呆れた、という顔の目取眞。

「涼、あんたは外に出たことあるんだから知っとるだろ?」

 もちろん、と胸を張る涼。

「昔のギリシャの王様だよな」

 ダメだこれは。目取眞は頭を振る。

「それはイスカンダルだろ。扇塚さんも学校を建ててくれりゃいいのにね」

「学校は学問研究を統括する、思兼おもいかねアカデミーの領分ですし、ネクロポリスには干渉できませんから」

「私の生きてるうちに文明開花はできそうにないね」嘆く目取眞。 

「ほれデスタッチ、口開けな」

 鳥の雛のようにデスタッチは口を開ける。そこに目取眞が精神安定剤を放り込んだ。

 デスタッチは足で器用にコップを持ち、薬を飲んだ。麻痺した左腕となんでも砂にする右腕を持つデスタッチの奇妙で不潔な生活風景だ。

「デスタッチさん、本当に手が使えないんですね」

 微風の言葉にデスタッチは顔を向ける。

「そうだ。ものの役には立たないが、いろんな奴がこの腕を恐れる。ま、時には使えるな」

「あたしゃこの腕を頼りにさせてもらってるんだ。大助かりだよ」

 大助かりはお互い様だ、心中でデスタッチは呟く。 

 デスタッチにとって、彼の生命線はその右腕デスタッチではない。この明るい老婆だ。

 目取眞がいなければこれほど穏やかな時間は手に入らないだろう。力能を頼りに人に恐怖を与え、代わりに食料や資源を頂戴して日々を生きる。人に恨まれ命を狙われながら。

 命を狙われる想像をするのは容易かった。そうしたチンピラと何度も戦ってきたから。

「よっしゃ、それじゃあ皿洗いしましょうね。涼、微風ちゃん、手伝ってくれな」

「はい、目取眞さん」

「お任せしてよ、婆さん」

 三人が食器を待って給湯室へ行くのをデスタッチは眺めていた。せめて左腕が活きていたら、片手だけでも動かせるなら俺も皿洗いができたかもしれない。嘆いてもしょうがないが、この力能がうざったくて仕方がない。

 デスタッチは立ち上がると、食卓の足を首にひっかけて片付けた。


 翌日。微風と散歩して来い。目取眞にそう言われた。不案内な彼女に土地勘を与えたいのだろう。

 身支度を整える微風を待ちながらデスタッチは聞いた。

「そっちは大丈夫か?」

「ひっひっ。心配してくれんのかい。お前も大分柔らかくなったねぇ。息子を思い出すよ。こっちは心配ないさ。涼がついててくれるからね」

 涼は無意味にVサイン。満面の笑み。

「お前、あのちょんまげにパトロールしろとか言われてなかったか?」

「タイミングは指定されてないもーん。だるまの奴も石頭じゃないし、友達の用心棒してたと言ったら納得するでしょ」

「軽いな……。それでいいのか」政府絡みと聞いていたからもっと面倒くさいものかと思っていたデスタッチ。

「デスタッチさーん。お待たせしました」

「よーし。しっかり守ってやるんだよ。デスタッチや」

「オーケー。扇塚、行こうぜ」

 二人は市役所を出て西に向かう。風がぬるい。雲はない。

 微風を自分の左側に誘導する。危なすぎて右腕には近づかせられない。

「そういやお前、ネクロポリスに来てどのくらいなんだ?」

「まだ三日です」

「そんだけ? ホントに新入りなんだな」

「そうですよ。頼りにさせてもらいますから」

 任せとけ。デスタッチはそう応じた。

「外ってどんなところだ?」

 そうですねえ。微風は言葉を探す。

「とっても人が多いですよ。安全で、うるさくて、清潔。便利で豊かです。ちょっと慌ただしいかな。のんびりできる時間が少ないかも」

「なんでのんびりできない? いいところそうじゃないか?」

「うーん。たぶん、たくさん仕事があるからですね。みんな頑張っていいところにしてるんです」働いたことのない微風だが、父とその周囲の人々を観察し彼女はそう考えていた。

「安全とか豊かさって、働いて守ってるんだと思います」

「働いて安全が手に入るのか」

 いいところだな、とデスタッチ。 

「ここでは安全なんてありえない。俺も目取眞のばあさんも、本当はそんなことわかってるんだ。口にはしないけれど」

「ご自分の仕事に自信がない?」

「口にはしない。ま、あのマジスターが殺されるような世の中だ。何が起きても不思議じゃない」

 マジスター・ハイエンド。日本最強のヒーロー。二ヶ月ほど前に彼は死んだ。彼の率いる『仮面舞踏会』マスカレードの仲間と共に。犯人はまだ見つかっていない。

「マジスターをご存知ですか」

「あいつをご存知ないインサイダーなんていないよ。マジスターは、この街の王だった。マジで。マジスターと話したことのない奴なんてここにはいない」

「……なんとまあ。本当に?」人口密度が低いとはいえ、西東京全ての人々と友人であるなどありえるのだろうか。

「さてな、本人がそう言っていただけだし。お前もマジスターに会ってりゃ、普通に信じたかもな」

 デスタッチが初めてマジスターと会ったとき。笑いかけてくるマジスターを彼はインサイダーだと思わなかった。どうしても自分の同類とは思えなかった。

「マジスター・ハイエンドってどんな人だったんですか?」

「ウザいほど明るい奴だったよ」

 デスタッチが家族を失って、左腕が動かなくなり、生きていくために追い剥ぎをやり始めた頃だった。マジスターに目をつけられた。

 風を切ってマジスターは飛んできた。飛んできた? 違う、跳んできたのだ、どこか遠くから。

 衝撃、砂煙を払ってデスタッチを認めると、死街の王はニッカリと笑った。

「萎びた左腕か。お前が最近暴れてる強盗ヤロウだな」

 その時のマジスターは赤が基調のコスチュームではなかった。ちょうどデスタッチと同じ、くたびれ、破けたボロ布をまとっただけだった。王らしからぬ、『ネクロポリス』の住人らしい姿。縦にも横にも前後にも分厚い偉丈夫だ。

「て、てめえ、誰だ!?」

 右手を振り上げて威嚇しながらデスタッチは叫んだ。何者かわからない。しかし『超人』であることことだけは疑いようがなかった。

「俺? 俺を知らねーのかよ。ギムキョーイクで習えよな。俺はお前の王様、この街の支配者、スーパーヒーロー、メイズ・ハイエンド。マジスター・ハイエンドだもんねー!」

 格好悪い決めポーズでマジスターは見得を切った。その名前だけは、聞いたことがあった。彼の噂話は畏怖と、畏敬と共に耳に入っていた。

 強く、優しく、時に面白く、そして飛躍していた、マジスター。王を名乗り、『ネクロポリス』に仇なす者を叩く超人。彼に勝てた者はいないという、最強のヒーロー。

「お前が?」デスタッチは王を指差す。死を示す指で。

 その無礼に気を悪くした様子もなくマジスターは爽やかに笑う。

「そうだ。すごいだろ? おっと、握手はしないぜ。悪く思うなよ」げらげら。

「さて、お前さん、名前は?」

「ただの、『デスタッチ』だ。名前なんかない」

 それを聞いて大袈裟に目を丸くするマジスター。

「ああ、力能の名がそのままお名前になっちゃったのね、お気の毒。おーし、デスタッチよ」

 そのとき、マジスターが一回り大きくなった気がした。一歩デスタッチは退いた。心臓が高鳴る。

「心を入れ替えて生きれ。人を傷つけて食いもん食うのは許さねーから」

「……んだと」デスタッチは拳を握り身構える。動かない左腕が揺れる。マジスターの言葉に血が上った。

「無責任言いやがって。おめーが食わせてくれるってか?」

「だーからそれは脅迫でしょうが。殺されたくなかったら飯よこせって。それをやめろって言ってんの。わかるかよ?」

「わかんねーよ、力能使ってなにが悪いんだ!?」

「むやみに人から物を盗るのが悪いって言ってんの。力能を活かすなら、そうね、ボディガードとかどう?」

 なにがボディガードだ。そうした仕事が信頼を土台にしているというのは、人付き合いの苦手なデスタッチでも理解できた。

 触れたものを砂に変える俺の右手に命を預ける馬鹿がいるかよ。

 地を蹴ってデスタッチは横っ面に蹴りを入れた。かつてないほどの怒り。相手が無敵の超人であることなど頭から吹っ飛んでいた。

「……く!」

 空中で反対の足を繰り出してマジスターの胸を蹴り牽制。硬い。マジスターの体は鋼鉄スティールのようでびくともしない。こちらの足のほうが痛むほどだ。

 蚊をはたき落とすようにマジスターの手が降ってくる、それをもろにくらいデスタッチは地に叩きつけられた。

「はは、蹴り? 噂と違って冷酷じゃないんだな」

 その噂は独り歩きしてんだよ、そう言いたいデスタッチだが肺から空気が逃げて喋ることもできない。なんとか立ち上がる。必死にマジスターを睨みつけて。

 デスタッチの力能はなにも創り出さない。彼自身自分の力能などハッタリにしか使わない。この凶腕きょうわんを人に向けるのは命を脅かされたときだけだ。

「おーし。ちょっと相手すっか」とマジスター。

 なにが。そう問おうとしたデスタッチの前でマジスターは片足を上げる。

「お前が手を使わないなら俺もあんよだけでやったるぜ!」

 言うが早いか上げた足を落とし、再度振り上げる。ニシキヘビに襲われたような危機感、デスタッチはなんとか横に回避。

「な、舐めやが……」

 絶句、マジスターの蹴りで粉塵が舞い視界が効かなくなる。マジスターの姿どころか一メートル先も見えない。これが超人の力なのか?

「俺を見つけられるかな?」

「!」

 視界が晴れた。マジスターがいない。右、左と見回す。後ろは? いない。上か。見上げても夜空だけ。

「ど、どこだ!?」心臓が高鳴る。この心音も聞かれているかと思うと、さらに恐ろしくなる。

 ネクロポリスがマジスターを匿っている? 周囲全てが敵に見えてきた。生きるために手を汚してきた、その報いを街が与えているのか?

 デスタッチはもう一度周囲を見回す。植え込み、もう走らない車、大型のジープ。何故かひっくり返っている車。倒壊した家屋、レストランだった建物。三人の野次馬。

「おい、マジスターはどこだ!?」

 デスタッチのそうした叫びで野次馬たちは逃げ出した。

 ちくしょう。デスタッチは己の五感、直感を周囲に配る。こんなに視界が開けているのに八方塞がり同然。どこからマジスターが飛び出してきても不思議ではない。

 先手は譲るしかない。超人のスピードに反応して対処するなど無理な話だが、まだ希望はある。唯一の、しかし決定的な希望。

 マジスターは殺しはしない。

 ヒーローであるというのもあるが『超人』というのは荒事を嫌う。人殺しなどもってのほか。

 マジスターや涼のように戦える例外もいるが彼らは例外なく人を殺さない。

 だから俺も殺されない。

「隠れんぼは苦手なようだな、デスタッチちゃん?」

「うお!」

 声のするほうを見る。自動車、大型のジープ。その中か。

 そのドアを叩く。ドアだけが砂になり形を失った。無人。後部のドアも同様に砂にする。いない。

 ささやかな流砂がデスタッチの足元に溜まる。

 冷や汗。息が苦しい。

 轟音を立ててジープのトランクが開く。楽しそうに笑うマジスターが飛び出して呆気に取られていたデスタッチを足蹴にする。デスタッチは後方に吹っ飛ばされる。一瞬意識を失う。

「びっくりした? ははは!」

 なんとかデスタッチは立ち上がる。手加減されてはいたが、今の衝撃を殺しきれず、首を痛めた。

「……殺す」

 首の痛みを隠してデスタッチは走る。間合いに入って即ハイキック。マジスターは足で受け止めた。

 反対の足で後ろ回し蹴り、これはマジスターの横腹に入る。いい手応え。

「やるじゃん!」

 マジスターはそう言うとデスタッチを真似るように回し蹴り、咄嗟にうつ伏せるデスタッチの上をキックが飛ぶ。本当に手加減している?

 蹴りの突風でデスタッチはまた吹き飛ばされる。即座に立つ。

「受け止めてみたまえ!」

 さらにマジスターは飛び蹴り、とことんデスタッチと同じ条件で戦いたいらしい。

「ひ……!」

 恐怖でつい右手を上げるデスタッチ。

 その手はマジスターの前にかざされている。マジスターは跳んでいるので蹴りを止められない。

 殺してしまう!

「よいしょ」

 しかしマジスターはデスタッチの予想に反してその凶腕をかわした。

「!」

 蹴り足を天に振り上げ、その反動で大地を両手でキャッチ、勢いを完全に殺して逆立ちを維持。

「すげえ」蹴りを止めて『デスタッチ』を避ける、その神業に思わず心底からの賞賛を漏らしてしまう。

「もっと褒めていいんだぜ。俺はなんたって王様なんだから」

 言いながら上下を戻そうとするマジスター、その胴体ど真ん中にデスタッチはドロップキック。

 バランスを崩してマジスターは倒れてしまう。

「はは! どうだ、デスタッチ? 面白いか?」

 その言葉でデスタッチは蹴ろうとした足を止める。

「面白い、だ? 面白くて戦ってるんじゃねーよ。必死だよ!」

「そう、必死さ。お前に食い物を盗られた人たちもな」

 手足を地面に叩きつけ、その反動でマジスターは宙に浮く。寝たままの姿勢で跳ぶように。

 そしてデスタッチの前に立つ。巨大な矮躯。マジスター・ハイエンド。

 待て待て、マジスターは手を広げて静止する。

「わかってるわかってる、説教なんて腹の足しにもならねーってことは。でもさ、ネクロポリスもお前が思ってるより話が通じるぜ、だからその力能を売りにして商売をやりな」

「商売?」

「外の世界のことわざに『殴る神あれば守る神あり』ってのがあってな。乱暴者がいるから用心棒も必要とされるってこと」

「お前みたいに、か?」

「俺は商売じゃないよ。ヒーローはボランティアなの。でも、このまま強盗繰り返すならお前はいつか用心棒を相手しなきゃならなくなるし、最悪俺が出向くことになる。それはお前も嫌だろ、デスタッチ?」ヒーローの王はにっかりと笑う。

「…………」

 一歩、マジスターは距離を空けてデスタッチに背を向けた。

「あ、おい、マジスター!」

「お腹減ったから帰る。心を入れ替えたんならよ、水澄みすみ涼って奴に会いな。身の振り方を教えてくれるぜ」

「何故、俺を助ける? 殺せば良かっただろ。今俺を見逃して、それでやり直すとは限らないだろうが。何故そんな愚かな真似を?」

 マジスターは振り返り不敵に笑う。

「愚かか。ヒーローこそ愚かなことを率先してやんねーとなんだよ。このシケた街をみろ、俺の街を」

 ばっと両手を広げる。暗く、静かな、死んだ街。

「俺がガキの頃からなにも変わってやがらねー。インサイダーがバカなことをやらないからだ。みんな揃ってオリコーさんやってるから死にっぱなしなんだ。だからいつまでも栄えないのさ。だが俺は違う。この街を神様が見捨てよーが、俺が見捨てないもんね。そういうバカ愚か者がこの街には必要なのさ。グッバイ」

 爆音と土煙、マジスターは消えていた。空を見上げればもう小さくなったマジスターの姿。

 それ以降マジスターに会うことはなかった。マジスターに人生を正してもらい、そして今デスタッチはこうしている。


「ハローワークみたいな方だったんですねぇ」

「……ハローワークってなに?」

「水澄さんとはその縁でお知り合いに?」

「そうだ。俺に用心棒のやり方を教えてくれた。超人ってのはお人好しばかりだからな。親切なもんだ」

「テレビか新聞でしかマジスターを知りませんから意外な一面を知れると思ったんですけど、メディアに出てるときと変わりませんね」

「そうなのか。ま、たしかにマジスターはヒーローなのに顔も名前も隠していなかったしな」

 隠し事をしてる風には見えなかった。

「マジスターが今も生きててバカやってたら、テレビや新聞ってのも手に入ったのかな?」

 ぼやくデスタッチ。彼はテレビを見たことがない。

「外の世界みたいに便利で安全には、もうならないのかな、ここは」

 そんなネクロポリス、彼には想像できない。そもそも安全でないからこそデスタッチは必要とされるのに。

「マジスターがいなくてもこの街は良くなりますよ」と微風。

「時間はかかるでしょうけど、少しずつ少しずつ良くなっていくと思うんです」

 なんの根拠が、そんな言葉をデスタッチは飲み込んだ。この沈黙を生み出すのが、マジスターの言う愚かさなのか。

「……そうだといいな」それはデスタッチの本心だった。安全で賑やかで、明日の心配をしなくていい世界。

 インサイダーなら誰もが欲する絵空事。

 微風の方はといえば、自分の言葉に驚いていた。

 政治を取り仕切る扇塚の一人として、幼少期から政治学を叩き込まれていた彼女、それがああも楽観的な意見を口にしてしまうとは。

 デスタッチが口にする安全、それを達成するためには全員でなくていい、安全が欲しいというコンセンサスがインサイダーに必要だ。第二にその安全を保全する組織、水澄涼やデスタッチ、マジスターのような人材が組織を作ること。

 殺人者や追い剥ぎが圧倒的な少数派にならない限り平和は訪れない。強固なインフラや豊かな商業は後からついてくるだろう。

 多分、インサイダーたちは平和な世界を想像したことがないのではないか。

 愚かか。マジスターにはそうしたヴィジョンがあったのだろう。

 今日よりもよい明日を夢見ることができたのか。そうした想像をインサイダーの多くができないのかと、微風はショックを受ける。もしかして彼らには情緒というものがないのか?

 ちらりとデスタッチを見る。絞られた体格、無表情、澄んだ瞳、危険な力能。彼は愚かさを備えているか?

「急いでもダメですよ、デスタッチさん」

 街を育てる前に、インサイダーを育てなければネクロポリスに将来はない。

 今日という日が永遠に続くということではない。外の世界によって滅ぼされるかもしれないということだ。

 物心ついたころの家庭教師の授業を微風は思い出す。

 日本政府はネクロポリスに対して不干渉の立場をとっているが永久にそれが続くとは限らない。更なる支援を行うようになる可能性がある一方で、逆にネクロポリスの壊滅を考えるかもしれない。

 精神安定剤や食料といった支援は最低限に留めているが、そうした支援は税金の無駄遣いだという国民の声が大きくなれば政府は方針を転換するしかないだろう。

 こうした支援はインサイダー、特に超人や力能者の暴走を防止するためなのだがそれを国民が納得するかと云えばそれは政府のプレゼンテーションにかかっていて、国民が力能者の脅威を忘れたとき、福祉の効果を軽んじたとき、日本とネクロポリスの衝突が起こるだろう。

 かつて日本と周辺諸国の間で戦争が起こった、今度はネクロポリスと日本で内戦が起こるかもしれない。

 これは決してナイーブな妄想ではない。このネクロポリスの運命がインサイダーたちの意識にかかっているのなら、ワタクシが彼らを導かなくてはならない。

「お、喧嘩だ」

 また暴力沙汰。デスタッチの指差す先に四人の男女。

 インサイダーらしい三人の男女が殺気立って男を脅している。

 三人は一目でインサイダーとわかる装い、口の悪さ、目は血走っている。

 女がナイフを振るうが男はひらりとこれを避ける。

 男の方は外から来たらしい。というのも服装が清潔だからだ。しかしだらしない着こなし。髪もあちこちに伸びている。

 三人に囲まれているのに男は取り乱したところがない。片手に写真。片手に携帯冷蔵庫。何故冷蔵庫?

「あいつら冷蔵庫の中身をよこせと言ってるな」

「止めましょう」

「なんで。俺らには関係ないだろ」

「関係ないことに足を突っ込む。それが愚かってことでは?」

「…………」

 微風の言葉でデスタッチは四人の下へ。微風もついていく。

「だからー。俺の酒は情報と交換だって」

「そんなヤツ知らねーっつってんだろ!」

「こらこら、乱暴はよせよ」似たような状況で涼と同じことを言ってるな、デスタッチはそう思う。三人のインサイダーがこちらを見た。

「すっこんでろ!」

「待て、こいつデスタッチだぞ!」

「やべえ逃げろ!」

 デスタッチの顔を見るなり逃げ出した。

「怖がられてますねえ、デスタッチさん」

「こういう時は便利だ。いい気はしないがな」

 怪我はありませんか、そう言って微風は男に近付く。

「ありがとう。なんともないよ」男はそう言って冷蔵庫から二つジュースを取り出した。

「これはお礼だ。助かったよ」

 微風は受け取ったがデスタッチはそうもいかない。

「どうした? インサイダーのお兄さん。オレンジジュースは嫌いか?」

「いらねえ」

 ジュース瓶を持てないのだ、と微風は思い至る。では私が。そう言って栓を抜きデスタッチの口へ。赤ん坊のようにジュースを飲んでデスタッチは一息つく。

「おっとと。腕が不自由とは、失礼したかな」男は微風にもう一本ジュースを渡してやる。

「別に。ありがとよ、微風」

「いえいえ。ところで外部の方とお見受けしますが、こんな危険なところにどういった用でしょう? よければ力になりますが」

 男は懐へ写真を入れ、代わりに名刺を出した。

「俺の名は蹄左京丸ひずめさきょうまる。探偵だ。今日は人探しに来たんだ。それで厄介なのに絡まれたってわけ」

「ご丁寧にどうも。ワタクシ、扇塚微風と申します」

「俺はデスタッチ」

「話が通じるようで嬉しいよ。ところで扇塚さんも外の人っぽいけど、観光じゃないよね?」

「ちょっと事情がありまして」

 ふうん。と探偵は思案する。

「この辺り物騒だよね。俺はこれから帰るとこなんだが、扇塚さんも一緒にどう?」

「ワタクシはここに住んでますので」

 探偵は意外そうな顔。

「ネクロポリスに? 大丈夫なの?」

「心強いボディガードがついていますから」

「帰るなら送ってやるよ。安くしておく」

 そう言うデスタッチの顔を左京丸はしげしげと見る。

「なんだよ……」

「いや別に。そうか。やっぱり強いんだ、デスタッチくんは」

「くんをつけるな」探偵? 何者だ、こいつ。

「一人で帰れるよ。それじゃ、縁があればまた会おうぜ」

 左京丸は携帯冷蔵庫を引っ張り、手を振る。

「助けてくれてサンキューなー」

 しかし左京丸は足を止めて振り返った。

「デスタッチくんたちさ、『帯刀だるま』って人、知ってる?」

「帯刀……?」

「帯刀だるまさん?」

 デスタッチと微風は顔を見合わす。

 微風は大きな道路を指差す。

「大学通りへ続くこの通りにとても大きな『教会』があります。帯刀さんはそこで働いていますよ」

「あれれれ? ネクロポリス在住じゃないのか?」

「壁の向こう、すぐそこだ。惜しかったな、探偵」

「マジでね。俺も人探しが上手くなっていい感じ。今年は稼げるかもな」

 帯刀だるまの知り合いに会えたのも幸運だぜ。そう言って探偵は再び冷蔵庫を開けた。

 中からワインを取り出す。

「お礼だぜ。ナポリの隠れた銘酒だ。美味いぜ」

「こんな朝からお酒を……?」そもそもこの男、何故冷蔵庫を持ち歩いているんだ。

「朝から? いつ飲むかは君らの自由。受け取ってくれよ」

 ボトルを受け取る。

「あれ、これ、お父様が飲んでたワインかも」

「いい趣味してるね、おじさんは。紹介してもらおうかな。酒の仕入れルートを開拓できるかも」

「生憎父とは絶縁してまして」

 そう言われて探偵は改めて、目の前の少女がネクロポリスに馴染んでいないのに気付いた。自分と同じくここでは異質。ネクロポリスには時折人が捨てられると聞いたことがある。

 これは踏み込まないほうがいい話題だろう。

「どうしてあの人を探してるんですか」

「それは依頼人の都合さ。教えてやりたいけれど守秘義務がある」

 口の前で人差し指を立てる探偵。

「微風さんだっけ。ネクロポリスの生活が難しくなったら」

 懐から名刺を出す。

「力になるよ。ここに連絡しな」

「ご親切にどうも。でもワタクシ、ネクロポリスを離れることはないと思います」

 左京丸もデスタッチも微風を凝視。

「なんでだい? きみみたいなコが生きていける街かな、ここは」 

「上手く言えないけれど、むしろこここそがワタクシの居場所に思えるんです。探偵さん」

「むむ。そこまで言うなら。デスタッチ」

「なんだ」

「ちゃんとこの娘を守れよ」

「大きなお世話だ。お前に言われる筋合いはない」

「それもそうだぜな。ほんじゃ、縁が合ったらまた会おうな」

 今度こそ探偵は微風の示した道を辿っていった。

「なんだ、あいつは」

「探偵する人って、変な人なんですねえ」

「探偵か。本当にいるんだな」

「私も初めて会いました。そろそろ帰りませんか」

 ボトルを重く感じるようになる前に。


 他にも案内する予定だったがそうもいかなくなった。左京丸がプレゼントしたワイン、当然デスタッチが持つわけにはいかないし、微風がいつまでも持ち歩ける道理もない。彼女は最近まで箱入り娘だったのだ。

「あの人、どうしてこんな物持ち歩いていたんでしょう? あの冷蔵庫、お酒にお茶にコーラまでありましたよ」

 ワインのラベルを読む微風。電気の通っていないネクロポリス、これから冷たい飲料は貴重になる。

「外の連中は冷蔵庫を持ち歩くもんじゃないのか?」

「へんな先入観を植え付けられている……。違いますよ。目取眞さんだって冷蔵庫なんか持ち歩いてないでしょう」

「そうだったな。じゃああいつはただの冷たいものすきか」

「そうとしか考えられませんね。デスタッチさんはお酒飲めますか?」

「好きじゃない。ワインは飲んだことない」

「それは残念。目取眞さんは飲むでしょうか」

「目取眞のばあさんは酒好きだぞ」

「おお。それはいいですね。いいお土産ができました。水澄さんも喜ぶでしょう」

「大喜びだろうな。あいつは人に親切にしてもらうのが好きだ」

「親切にしてもらうのが、ですか?」

「生きてくのに苦労しない身分超人だろうに、よくわからない奴だ。悪い奴じゃないんだが」

 もっとも、悪い超人など見たことがないが。

「人に親切にされて嬉しくない人なんていませんよ、デスタッチさん」

「……嬉しい、か」

 実感がわかないんだな、と微風は察した。デスタッチは多分、ただ必要だから助け合っているに過ぎないようだ。必要、それが彼の人間関係の土台。

 それが彼の神なのか? 必要が。

 微風はその神に嫌悪感を覚えた。人の価値観に口を出すなどあまりに烏滸おこがましい。それはわかっている。わかっているが、そのままではダメなのだ。そう言いたくてたまらない。

「なんだよ、微風」

「い、いえ、ワタクシの神様はなんなのかなと思いまして」

 慌てて首を振る。考え込んでいたようだ。つい適当に言い繕ってしまった。

「お前の神様か?」

 子供のようにきょとんとするデスタッチ。

「親切の話から飛んだな。……親切がお前の神か?」

「まさかでしょ」見当はずれの言葉に素で答える。行儀の悪い口調だ。

「俺の左腕を治してくれる奴は神様かもな」自分のジョークで笑うデスタッチ。

「帯刀さん、ですか」

「いや、神じゃねえなあいつは」

「神様というには冷たい感じの人でしたもんね、あの人も悪い人ではないんでしょうけど。ところで、すごく細いですよね、こちらの腕」

「長いこと動かさないと筋肉が落ちて細くなるらしい、目取眞の婆さんが言ってた」

「触ってみていいですか?」微風はデスタッチの目を覗く。

「別にいいよ。こっちの腕は触っても砂になったりしない」

「ではお言葉に甘えて」

 ミイラのような腕を持ち上げてみる。砂のように乾いていて軽い。デスタッチ本人が動かすことができないのでその重さは微風の両手にかかっているが気にならない。水分と筋肉と、そして機能を失った軽さだ。

「わあ、細いですねえ。ほら二の腕が両手の指に収まってしまいますよ」

 両方の親指と人差し指で作った縁の中にデスタッチの腕が収まる。骨と皮だけの腕。

 最初は遠慮がちだったが、すぐに好奇心が勝るようになった。

 微風は手に注目する。なんだか恥ずかしいな。

「カサカサなのに綺麗です。不思議だな。あ、爪も手入れしてるみたいに滑らか」

 居心地の悪い落ち着かなさをデスタッチは感じる。全身、触られていない右腕までむず痒く思える。麻痺しているからそんな筈はないのだが。

 家族に捨てられた微風がこの左腕を握っていると思うと言葉がついて出た。

「扇塚、家に帰る気はないのか」

 微風の手がびくりと震えた。二人の目が合う。

 言葉を探しているのがデスタッチにはわかった。言葉なしで気持ちがわかるというのは目取眞以外では初めてだ。

「うちの家族はですね、デスタッチさん、ちょっと複雑なんです。あまりにも莫大な力を持ってるせいで、一つの醜聞スキャンダルも許されないんですよ。ワタクシは、デスタッチさん」

 微風は遠く、豆粒のように小さい、粗末な木製の壁を指差した。ネクロポリスと外側を隔てる脆い万里の長城。彼女の黒い瞳は揺れている。

「あの向こうに家も居場所もないんです。扇塚家は日本の政治を支配しています。わかりますか? |政治のあるところは全てワタクシの家なんです《、、、、、、、、、、、、、、、、、、》」

 微風は息を整えた。感情をコントロールする術は物心ついた頃に叩き込まれた。

「ワタクシはある時自宅で力能を暴走させました。ぎりぎりでパワーバランスを保っている獅子氏財団にとって、それだけで日本中に衝撃を与えるスキャンダルなんです。だから、ワタクシは、ここにいなきゃ……」

「いつまでも家族が生きてると思ってんのかよ」

 デスタッチは怒鳴ってしまう。

「え……、どういうことですか?」

「つまり、お前がネクロポリスにいる間にお前の家族が死ぬかもしれない、俺が言いたいのは、家族との時間を大切にしろってことだ」

 明らかに平常心を失っているデスタッチ。正しく言葉を選べない。

「追放されようと、日本がどうなろうと、そんなことおまえが家族から離れなきゃいけない理由にならないだろう。扇塚、お前は家を出たかったのか? お前は家族を捨てたかったのか!?」

 その言葉を聞いてデスタッチの頬を叩いていた。感情をコントロールする術?

「なんでそんなこと言うんですか! 捨てたいわけないでしょ! か、帰れるなら帰りたいですよ!」

 微風を睨み、死を招く手でネクロポリスの壁をデスタッチは指差した。

「なら帰れ。親が生きているうちに! 死んだ奴は二度と生き返らないんだぞ、だから生きているうちに帰って話し合え!」

 普段のダウナーなデスタッチからは想像もつかない剣幕。

「ここを出てもまた戻されるだけです。あなたは扇塚元老院の権力を知らないからそんなこと言えるんですよ。いや、デスタッチさんは権力自体知らないでしょうね!」

「ああ、知らないね、食えんのか?」

「食えねーよっ!」

「何が権力だ。お前の邪魔をするならその権力だって砂に変えてやる」

 それが俺の仕事だ。デスタッチは拳を握る。

 だめだこれは。微風は頭を振る。私では納得させられない。しかし彼女は目取眞を思い出した。

 外から来てネクロポリスに長い目取眞なら、外の権力をインサイダーにも教えられるだろう。それにしても、何故彼はこうも私を追い出そうとしているのだろう。

「もしかして私のことが迷惑だからそんなことを言うんですか?」

 アホ言え、とデスタッチはそっけない。

「それじゃあ?」

 問いかけられてデスタッチはうめく。答えにくそうに。

「……家族は、いいもんだからだ」震える声。デスタッチは微風の顔を直視できない。俺は何故こんな大きなお世話を?

 ネクロポリスという慈悲の死んだ街、デスタッチがその住人ということを汲んで、微風は彼の言葉からその両親がどうしているのか見当をつけた。

「ここで話し合っても埒が開かないというものです。もう帰りましょう」

 デスタッチは冷たい目を向ける。既に感情の波は静まっている。

 肩を落としてため息をつくデスタッチ。

「いいだろう」


「じゃ、俺仕事あるから」

 涼は二人の帰りを認めると入れ替わりに役所を出た。笑顔で手を振る。鋼鉄の腕。

「さようなら、水澄さん」

 微風も手を振る。

「飯くらい食っていけばいいのにね。遠慮しいなんだから」と目取眞。

「外の仕事でしょう、自宅に帰るとは言っていません」と微風。

 三人で食卓を囲む。目取眞がお茶を淹れてくれた。

 茶を飲むとデスタッチは自分の部屋に戻った。

「どうだったね、この辺りは。悪いところじゃなかろ」

「それがですね、目取眞さん」

 そうして微風はデスタッチとの話や探偵との遭遇について話した。

 デスタッチとの口論について聞かされた目取眞、押し黙って茶を飲み干した。にこやかな表情が消えている。

「あのデスタッチがねえ」老婆は呟く。

「もしかして、ワタクシ何かネクロポリスのタブーを破ったのでしょうか?」

「とんでもないよ!」

 デスタッチの静かな激昂は彼の家庭の事情だろうと思っていたが、案外タブーの可能性も、そう微風は心配した。

 しかし返ってきたのは予想もしない目取眞の強い否定。老婆はこう切り出した。

「まずあんたが何をしたいか聞きたいね、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんはネクロポリスに住みたいかい?」

「もちろん」自分でも驚くほど自然な即答だった。

 それでいい、と満足げな目取眞。

「何をしたいのか、それがわからなきゃ話にならん、この街ではね。そしてデスタッチはそのあんたに帰って欲しいと思ってる。ふむ……」

 あの若僧は力尽くで微風を追い出す真似はしないだろう。だからといってそのままにしておいていい問題でもないが。すると当面の対策は抽象的になりそうだ。

「扇塚の嬢ちゃんよ、あんたは間違っていない。でもネクロポリスはね、正しいヤツの理屈が必ず通る、そんな楽園じゃないのさ。したたかに生き延びなくちゃ」

「な、なるほど……」

「だがデスタッチは無理にあんたを追い出そうとは、しないだろう。その間にあんたは居場所を作るんだ。昔デスタッチがそうしたように」

「それでデスタッチさんは、納得するでしょうか?」

「あいつはものを知らないし馬鹿だが、ここの掟はわかってる。お前が自力で居場所を作れば、それほどの熱意があると認めるさ。そうでないならあたしが認めさせたるよ」

「目取眞さんがですか?」

「あいつは気付いとらんがね」目取眞は楽しそうに笑う。

「口喧嘩であたしに勝てた試しがないのさ。デスタッチは理屈には従う、素直な子なんだ」

「なんというか、インサイダーのイメージの逆ですね」

 ネクロポリスといえば力がものを言う無秩序社会と信じていた微風だけに目取眞のデスタッチ像は意外だ。

「その通りさ。そんな素直さはここでは弱点だから、あたしが上手く隠してるしあんたも口外無用。本人も知らない弱点なんだよ。でもね」

 愉快そうな笑いを引っ込めて老婆は続ける。

「あんたの為ならあたしがあいつを説得する。今こそデスタッチの弱点を利用するときだとこのばあさんは思うね」

「何故、そうまでしてくれるのですか?」昨日会ったばかりの自分に。

「いやなに、あんたを見てると昔死んだ娘を思い出してね、他人事とは思えない、そんだけさ。ひひひ」

 楽しそうな笑いが咳に変わる。

 微風は老婆の背中をさすってやった。

「あんがとよ、歳はとりたくないったら。笑うだけで咳き込むなんてね」

「確か喉の筋肉が衰えるからだとか。無理はなさらず」

「あたしの気がかりは、あの小僧デスタッチだけさ。もしあたしがくたばって、あんたがネクロポリスにケツ落ち着けるようになったら、たまにデスタッチを気にかけてちょうだいよ」

「そんな、弱気な」

「あたしだってすぐ死ぬわけじゃないけど、物騒な街だからね……。たまにでいいさ。たぶんあのアホはもう、昔の乱暴な生活には戻れない」

「マジスター・ハイエンドに会う前のですか」

「そう、人と交わって助け合う暮らしを知ったあいつは自分のために人を傷つけることはもうできんだろうな。理屈を弁える奴に限って知ったことを見て見ぬふりができないからね」

 死んだあたしの夫のように、と目取眞。

 その老婆を見つめ、微風は息をついた。

「わかりました。もとより、デスタッチさんにはこれからもお世話になるでしょうし」

「おお、おお、そうかい。最近の娘は聞き分けがいいねえ」

 ありがとよ、と目取眞は笑う。喉はもういいらしい。微風もつられて笑う。

 友人の祖母を思い出した。目取眞のようによく笑い、不思議なほど周囲の人間に慕われた女性だ。息子にもその娘にも、扇塚家の者にも愛されている。

 彼女が作ったお菓子や軽食をよく彼女の孫娘と食べたものだ。宝物も同然の素晴らしい思い出。

 彼女にもう会えないのは、寂しいことだ。家族に秘密で別れの手紙を老婆に出した。

 元老院薫子げんろういんかおるこ

 もう一度だけ、彼女に会いたい。この死んだ街でどう立ち回ればいいのか、教えを乞いたい。

 そしてその孫娘、幼馴染の団扇うちわにも。今年高校に上がった団扇。父の跡を継いで政治家になりたいと言っていた。

 ワタクシに力能が備わっていなかったら団扇を支持できただろう。

「どうしたね、扇塚ちゃん?」

「い、いえ。なんでも」

「外の家族のことをが気にかかるんだね?」

「……当たらずとも遠からずです。勘がいいんですね」

「へっへへ。あんたは賢いから家族のことはもう割り切ってると思ってたよ」

「ご覧の通り、まだまだ未熟者ということです」

「嫌味だね。あたしの勘働きもあんたの若さも武器さ。ああやだやだ、ここに住んでて嫌なのは生き延びることしか考えられなくなることだよ」

 微風は少し考える。

「目取眞さん。そうしたことを考えなくてもいいような街にワタクシが変えると言ったら、あなたは支持していただけますか?」

 そう言われた目取眞は笑う。

「もちろんさ。期待していいのかね、市長さん?」

「最善を尽くす、としか言えませんね」

「こりゃまた政治家らしい口ぶりだよ、頼もしいね」

 生きているうちにネクロポリスの文明化を拝めるだろうか。不思議にもそんな想像が夢物語と思わない目取眞だった。


 運転席の探偵は携帯冷蔵庫から冷たいソーダを取り出して飲み干した。

 目の前には教会。左京丸の視界いっぱいに敷地を仕切る鉄柵が広がっている。正面に見える建物は遠くてが小さく見えるが、それも並大抵の大きさではない。東京ドームが二つ三つ収まりそうな敷地面積だ。

「目標は研究者だか剣術家だと聞いたけど、どうして教会なんかにいるんだろ?」

 その疑問は依頼人の事情に関わるかもしれない。理由もなく依頼人の懐を探ってはならないというのは探偵の基本だ。しかしこんな巨大な建造物に突き当たったとなると好奇心を抑えるのは難しい。というか帯刀だるまを探せという依頼なのだから彼女はこの教会を知らないはず。

 もう一本ソーダを取り出す。ビールが飲みたい気分だがまだ、ギリギリ、仕事中だ。車だし。

 周囲を見回して教会の住所を頭に入れる。ランドマークになるようなものはなかった。教会自体が目立つランドマーク。

 車に乗って正門を観察する。教会の雰囲気の変化を左京丸は見逃さなかった。

 すぐに車を出して離れる。帯刀だるま当人を確認できなかったがそれはいい。急がなければならない仕事ではないのだから。

 ただだるまはおそらくこの距離から左京丸の視線を察したということでそれは不安材料と言えた。剣術家の勘か。それにしても鋭い。

 バックミラーを見ると二人の女性が教会を出てきたところだった。肩肘張ったスーツの女性、ドレスの白人女性。二人は左京丸を見つけた様子はない。

「余裕ー」

 左京丸の視線を見つけられない二人を完璧にいて車を走らせる。彼は上機嫌だった。宝千寺雅美ほうせんじまさみの依頼はこれで半分達成だ。ポケットから紙片を取り出す。それはだるまの似顔絵、雅美にもらったものだ。目標とこの似顔絵を比べて一致していたら雅美に報告できる。もう少しあの教会を張っていれば目標を確認できるだろう。

 そしてもう一つの依頼の方は達成できた。

 

 扇塚微風の生存確認、そして居場所を特定するとこと。


 左京丸のかつての上司。いや、自衛官時代の上官の依頼だった。

 ベアー小隊からは距離を取りたい左京丸ではあったが、このくらいならいいだろう、報酬もバカ高いし、そんな軽いノリで受けた仕事だがこうも軽くこなせるとは思っていなかった。左京丸には珍しい幸運。

「それにしても妹さんがいたとはね、扇塚軍曹殿はさ」

 報告を済ませればネクロポリスで兄妹の感動の再会が見れるだろう。

 ただし左京丸はそれを見届けるつもりはなかった。ベアー小隊には関わりたくないし。

 感動の再会?

 左京丸は己の勘の悪さを失念していた。

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新ミダス王奇譚 樹 覚 @tatuaki

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