Bubblehead syndrome(泡頭症)
20世紀初頭に、初めて患者が確認された病気である。その患者はいつもと変わらず過ごしていたが、ある日突然手足が
そして、その患者は悶え苦しんだ後、死亡した。その患者の司法解剖において脳を開いてみてみると、脳をまるごと洗剤で洗ったかのように、泡だらけだった。
この奇怪な脳の状態から泡頭症と名付けられた。泡頭症はこれまでに数百件の患者が報告されている。そして、泡頭症の研究の結果から次のようなことが分かった。
泡頭症とは、脳に溜まった脳脊髄液が何らかの原因で泡立ち、脳全体に気泡ができる先天性の病気である。脳全体に広がった気泡が破裂しない限り、日常生活に影響はない。しかし、一度でも気泡が破裂すると、その破裂は連鎖し、脳全体の気泡が一斉に破裂する。
この破裂の連鎖によって、脳の神経が破壊され、脳の大部分が機能しなくなる。そして、患者の多くの場合は、死に至る。例え運が良かったとしても、脳死や植物状態になることは免れない。さらに、植物状態になったとしても、脳脊髄液は再び気泡を作る。その気泡は1回目の気泡の破裂よりも破裂にかかる時間は短くなる。
なので、泡頭症を発症し、運よく植物状態になった患者が、1度目の気泡の破裂から1か月以上生きた例は存在しない。また、1度目の破裂は期間の幅が大きく、生後1か月で破裂する場合もあれば、死ぬまで破裂しなかった場合もある。
現在、有効な治療法は存在せず、1度この病気にかかっていることが分かると、脳の気泡といういつ起爆するか分からない時限爆弾を抱えながら、生きる恐怖を常に持って、怯えながら、生きなければならない。
これがラムネが運び込まれた病院で、医者から知らされたラムネの病気の詳細だった。ラムネは何とか一命をとりとめたが、意識は戻らず、おそらく植物状態であろうと診断された。
これはそのまま死んでしまったり、脳死と診断されるよりはましなのかは分からない。ただ、ほんの少し、死の宣告が引き延ばされただけだ。限りなく低い希望を持ってしまうだけ、こちらの方が残酷な結末かもしれない。
僕はもちろんその病気について何も知らなかったし、ラムネがその病気になっていることも知らなかった。僕にそのラムネの病気について教えてくれた医者は、ラムネの主治医で、2年前からラムネが泡頭症になっていることを教えてくれた。
僕はラムネが倒れてからこの病院に来るまでの一連の出来事により、様々な強烈な感情を呼び起こし、自分の心の中をぐちゃぐちゃにかき乱していた。
いつまでも死とは無縁に思えたラムネが今、ベッドの上で死を待つだけの存在になっていること。
ラムネは2年間、僕だけにその目の前にあるかもしれない死を教えてくれなかったこと。
そして、僕はこれらのどうしようもない感情をぶつける肝心の相手がいないことが心の中でぐるぐると逡巡していた。
いきなり与えられたそれらの事実は、自分の心の中では消化できずにいた。心の中からはみ出した感情を発散する行き場もないまま、喉元から出そうで、引っ掛かっているもどかしさに苛立ちを覚えるしかなかった。
そんな複雑な心情を抱えている僕を心配してか、ラムネの主治医がラムネの応急処置は終わったからと、ラムネの眠る病室に来ないかと提案してくれた。僕は顔を曇らせながら、病院の長いすからゆっくりと立ち上がった。すると、医者は何も言わず歩き出し、僕はそれについていった。
医者はある部屋の前で止まり、その部屋の扉を手のひらを開いて指し示した。僕はそこがラムネの病室であることが分かり、今朝のコインランドリーの扉を開けるような緊張が押し寄せてきた。
僕は息を1つ吐き捨て、覚悟を決めると、扉を開けた。
扉を開けた先には、1つのベットがあって、そのベットに人が1人寝転んでいた。その寝転んでいる横顔はラムネであることは分かったが、目は何かを見つめているようではなく、ただ文字通りに、目が開いているといった様子だ。
いつも人として理性的に閉じられている口は、だらりと開き、首はこちら側に力なく曲がっている。僕は頭で理解することと目の前にその状況を見ることは大きく違うことを理解した。目の前に移る残酷な現状に、とてつもない絶望とやりきれない悲痛を感じた。
僕は崩れ落ちる体を踏ん張るようにして、1歩1歩ゆっくりとラムネの眠るベットの近くまで近づいていった。僕が近づいていく内に、ラムネの変わり果てた姿が鮮明に網膜に写っていく。明確になっていく現実に、体の力が抜けていき、ベットの近くにある椅子に力なく腰を落とした。
僕は魂の抜けたラムネの姿を見つめて、しばらく沈黙した。刻々と時を数える時計の音だけが病室に響いていた。僕の心はもう消化しきれない感情ではち切れそうだった。それを頭で理解する前に、心から溢れた感情が吐き出すように口から出てきた。
「ラムネ、なんで病気のことを黙っていたんだよ!
……冷子には話していたんだろう。冷子がアメリカに旅立つ前の日、ラムネの病気のことを伝えていたんだろう。でも、僕には話さなかった。何でラムネが話さなかったのかは、今となっては聞けやしない。
でも、きっと、ラムネは怖かったんだろう、僕に別れを告げることが。冷子に伝えるだけでもこれだけ辛いのに、僕に伝えることがどれだけ辛いか計り知れなかった。
……でもさ、その別れを怖がり続けた結果が、どれだけ辛くて、残酷な現実を僕に突き付けているか想像できていたの?
2年前のあの日、ラムネが自分の病気のことを伝えられていれば、僕に降りかかるいつか来る残酷な未来も少しはましになったと思うのに……
やっぱり、ラムネは卑怯だよ。ラムネは残された仲間のことなんて考えられていないんだよ。
ラムネの病気のことを僕が分かっていれば、僕は昨日みたいな後悔の残るようなことはしなかったのに……
……それは嘘か……。
病気のことを分かっていても、僕はラムネと仲直りするのに、今日の朝まで、腰は上がらなかったとかもしれない。
……結局、僕も怖かったのかもしれない、ラムネと真剣に向き合うことが。ラムネが病気の現実と向き合うことが怖かったみたいに、僕も怖がっていたんだ。
……でも、もう、何も取り返しがつかないんだ。どれだけ後悔しても、何もできないんだ。
……ラムネ、僕はこの気持ちをどこにぶつければいいんだ?ラムネは眠っているし、冷子は連絡を取れないし……どうすればいいんだ?」
僕はぶつけようのない気持ちを吐き出した。気持ちを口に出して整理していくほどに、心は楽になるどころか、余計に辛くなってしまった。
僕が吐き出した言葉に、何も反応しないラムネの姿と全てを吐き出した後の静かな病室からとてつもない孤独感が僕の体を押し潰すように覆いかぶさってきた。
ラムネとの突然の別れしたのにも関わらず、ラムネと喧嘩別れしたような形になってしまったことはこの先、一生付きまとう後悔となるだろう。その後悔と孤独感が僕の心をすり潰し、僕の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
偶然重なった出来事の連続から僕がラムネを殺してしまったかのような罪悪感と何もできない無力感も重なって、溢れ出る涙を止めることができなかった。
そんな時だった。僕の泣く声が反響する病室に、電話の着信音が響き渡った。その着信音はラムネの携帯電話のものだった。ラムネの携帯電話は、病室のベットの横の机に置かれていた。
僕は一旦涙を拭いて、携帯電話に出てみることにした。僕は机の上に置かれた携帯電話を手に取り、電話を取った。
「ハロー、元気してる? こっちは元気よ。
……盗聴されているかもしれないから手短に、いつもの場所に2人とも集まってちょうだいね。それじゃ、また。」
僕が何か話しかける前に、冷子は電話を切ってしまった。2人だけの病室には通話の切れる音が響き渡った。
僕は立ち上がった。冷子の電話が一縷の望みであることを信じて。
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