二 : 立志
二 : 立志 - (1) 侮れない宗教の力
伝兵衛が奇妙丸に仕えるようになって半月が経とうとした頃、座学の為に沢彦が岐阜城へ訪ねて来た。
沢彦が見慣れぬ人物に目を留めると、奇妙丸が出会った経緯も含めてあらましを説明した。
「成る程……なかなか辛い思いをされてきたのですな。そのフロイスという南蛮坊主と会えて、本当に良かったです」
人買いによって海外に売り払われる寸前だった身の上を聞かされた沢彦は、心の底から共感する姿勢を見せる。
「沢彦和尚は、南蛮から伝わってきた耶蘇教についてどうお考えですか?」
先日沢彦へ帰国の挨拶をした際、奇妙丸は土産話の一つに畿内で急速に耶蘇教の信者が増えている事を伝えたところ、興味深げに頷いていたのが印象に残っていた。その後どのような教えか尋ねられたので奇妙丸は覚えている範囲で答えると、それきりその話題について触れる事は無かった。もしかすると快く思っていないのかも知れない、と奇妙丸は感じていた。
ただ、それはどうやら思い違いだったみたいだ。
「我々仏教とは成り立ちや考え方に違いはありますが、悩める民を救わんとする事は一緒ですから、拙僧は特に構わないかと」
「……驚きました。以前お会いした際には何も言及されませんでしたので、てっきり好ましくないとばかり思っていました」
「先日に奇妙丸様から耶蘇教の存在について初めて伺いましたが、よく知らない段階で
仏教勢力の中には、新たに入ってきた耶蘇教を敵対視する者が少なくなかった。耶蘇教への改宗者が増えればその分だけ仏教信者の減少に直結し、既得権益が損なわれると危惧した為だ。一部の僧侶は武家や商人と
「それに……拙僧は俗に
キッパリと言い切った沢彦和尚に、奇妙丸は得心した。
沢彦が私利私欲の為に動く人なら、何の見返りも望めない奇妙丸に教授するよりは実入りが見込める商人や武家の相手に
ポンと手を叩いた沢彦が、何かを思いついたような表情を浮かべた。
「……では、本日は宗教についてお話ししましょうか」
沢彦の座学は『孫子』や『論語』などの解説では書物を用いるが、基本的にはある題目に対して討議する事が多いので書物を用いない場合が多い。その題目も雑談から取り上げる事が大半で、書物を読むよりもずっとタメになる。
奇妙丸自身、深く信仰している宗派は無い。父・信長は日蓮宗と近しい関係にあるが、これは妙覚寺の住持である
武家でも出家する者は少なからず存在するが、理由は大きく分けて二つ挙げられる。一つは、跡目争いを未然に防ぐ目的。病を
「
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になったつもりで考えてみることにした。
堺や京で目の当たりにした耶蘇教の勢いもそうだが、庶民と宗教は密接な繋がりがあった。
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になった気で考えてみることにした。
「……平穏とは程遠い現世での辛苦を少しでも和らげたい、または来世へ希望を託す為、でしょうか」
奇妙丸の答えに、沢彦は「なかなか
「百姓は年貢を搾り取られるだけでなく、戦があれば足軽として徴兵され、普請があれば労役に駆り出され、しかも戦乱があれば田畑は荒らされ
織田弾正忠家の嫡男として生まれ育った奇妙丸はこれまで何不自由なく暮らしてきたが、伝兵衛のように小さな国人でも乱世の荒波に呑まれれば奴隷まで一気に転落してしまう。武家だからと言って安泰ではないのだ。そんな世の中で人々の不安の受け皿となったのが、宗教だった。
人々は宗教に帰依する事で、神仏の加護を得られる
「信仰は、確かにこの荒廃した世を生きる人々にとって心の
浄土真宗(一向宗とも)では、本願寺八世・
天文五年(一五三六年)二月、法華宗が比叡山延暦寺に対して『どちらの教えが優れているか』対決する宗教問答を行う旨を申し入れ、延暦寺もこれに応じた。異なる宗派間での討論は度々行われてきたので、この事に関しては何の問題も無かった。三月三日、天台宗延暦寺の代表・
だが、“由緒ある延暦寺が法華宗の一般宗徒に負かされた”という噂が広まると、面目を潰されたと解釈した延暦寺側は日蓮宗が名乗っている“法華宗”の使用差し止めを幕府に訴えたが、これも
七月、延暦寺側は京の法華宗寺院二十一
七月二十三日、延暦寺の僧兵と志願兵・六角家の手勢合わせて約六万の兵が京の市中に押し寄せ、法華宗の宗徒・僧兵総勢
また、延暦寺・六角勢が放った火は洛中に燃え広がり、京の
他にも、天文元年には京で勢力を伸ばしつつあった浄土真宗の本山・山科本願寺に、法華宗の宗徒・僧兵が襲来。本願寺側も門徒などの兵で応戦したが敗れ、焼き討ちに遭っている。京を追われた本願寺は摂津石山で再建されるのだが、今回の事を教訓として他宗派や武家勢力の侵攻を想定した要害堅固な
以上の事から、室町時代から戦国時代にかけて異なる宗派間で武家顔負けの抗争が行われていたのが分かるかと思う。
「加賀国では国人と百姓などの一向一揆が守護を倒し、武家の支配を受けない“百姓の持ちたる国”と呼ばれる状態が長らく続いております」
「何と……!?」
沢彦の口から明かされた言葉に、奇妙丸は率直に驚いた。奇妙丸の生まれ育った尾張に当て
文明三年(一四七一年)、蓮如は延暦寺や法華宗等の迫害から逃れ、加賀国境に近い越前吉崎の地に吉崎
この当時、加賀の守護・
蓮如を始めとする本願寺派の支援もあり勝利を収めた政親だったが、その影響力の大きさに『次は自分が倒されるのでは』と危惧を抱き、真宗門徒の弾圧に舵を切った。一方の本願寺方も政親の締め付けに警戒感を
「加賀の近隣に有力な武家勢力が少ないのもありますが、それでも八十年余りも独立しているのは弱肉強食の戦国乱世でも異例の事でしょう。隣国の朝倉家は版図を広げるべく加賀へ幾度も侵攻していますが、一揆勢は撃退するどころか越前へ攻め込む事もあるとか」
「それは……凄まじいな」
弱き者は強き者に喰われる群雄割拠の時代で、他国からの侵攻に屈するどころか
「……今の話が本当なら、まるで夢のような話だな」
「ただ、一概にそうとは言えません」
沢彦の思わせぶりな発言に、小首を傾げる奇妙丸。沢彦はさらに続ける。
「政親を倒して暫くは国人達と一揆衆が治めておりましたが、やがて石山本願寺から坊官が派遣されて本願寺が実効支配するようになりました。表向きは“百姓の持ちたる国”と呼ばれ武家の干渉を受けておりませんが、内輪では支配する本願寺方と支配される国人・民衆の間で度々争いも起きております」
「何だ、それでは上に立つ者が武家でなく坊主に変わっただけではないか」
結局は同じではないか、と幻滅する奇妙丸。その分かりやすい反応に沢彦はクスッと笑ったが、すぐに表情を引き締めて言った。
「大事なのは、坊主の呼び掛けに応じて国人だけでなく百姓達が武器を取り、武家を排除出来るだけの大きなうねりを生み出せる点にあります」
沢彦の指摘に、奇妙丸はハッとさせられた。そもそも、武家より百姓や町人の方が圧倒的に多い。もし両者が戦う事になった場合、一対一だと普段から鍛錬を積んでいる武家の方に分があるが、武家一人に対して武家でない者が二人なり三人なりで攻め
「西三河で数年前に起きた一向一揆では、坊主達の檄に応じた大勢の家臣が主君に反旗を翻し、家中を二分する大きな戦となりました。半年程で一揆は鎮圧出来ましたが、一つ間違えば加賀の二の舞になっていてもおかしくありませんでした」
元々、西三河は浄土真宗の信仰が
桶狭間の合戦以降、今川勢力を一掃して三河国を統一した松平(現・徳川)家康は、体制の強化を図るべく聖域とされてきた三河三ヶ寺にも税を納めるよう迫った。これに対し、既得権益を侵される事を恐れた三ヶ寺側は強く反発。永禄六年、本證寺住職の
「では和尚。一揆を起こさせないようにするには、どうすればよろしいのでしょうか?」
宗教が起因で争いに繋がる事が分かった奇妙丸。しかし、同じ宗教を信仰していても一揆が起きている地域と起きていない地域がある。例えば、尾張国にも浄土真宗の寺はあるが、一揆は起きていない。一方で、隣国の三河国では御家を揺るがす一向一揆が勃発している。この違いは何だろうか。
「手っ取り早いのは、有害な信仰を禁じる事でしょうな」
沢彦の回答に、奇妙丸も思わず“成る程”と頷く。しかし、時間が経つにつれて何か引っかかる感じがした。いつもは理路整然とした話し振りをしている沢彦にしては珍しく、言動が些か荒っぽいというか乱暴というか……。
当惑している奇妙丸に、沢彦は厳しい表情で言った。
「――ただ、安直に禁教を行うのは、愚の骨頂」
いつになく険しい声色で話す沢彦。さらに続ける。
「信仰は個々人の自由です。それを他人から『その教えは有害だから信仰するな、別の教えに改宗しろ』と強制されれば、反発は必至。自由を侵害されると分かれば、人々は『守らねば』と必ず立ち上がります。争いの種を自ら
奇妙丸は、自分の事に当て嵌めて考えてみる。仏教を信仰している自分が、誰かから『仏教は危険な思想だ、耶蘇教に改宗しろ』と強要されたら……正直、気分は良くない。自分はこの教えが素晴らしいと思っているから信じているのであって、
我が身に置き換えて考えれば考える程に、有り得ない選択だと奇妙丸は思った。
「大切なのは、自分の意に沿わない思想を無理矢理抑え込むのではなく、民に不平不満を抱かせない事です」
「……善政を
奇妙丸の言葉に沢彦は「然り」と頷く。
浄土真宗や法華宗、他の宗派もそうだが、宗徒同士の結び付きはとても強く、不平不満が
しかし、善政を布くと簡単に言うけれど、これがまた難しい。年貢の
民も武家も納得する負担の割合にして、賄賂や不公正な行いをする者を排除していく。一番遠回りな方法ではあるが、民との信頼を築いていく為には最短の道だ。
「但し……」
神妙な面持ちをしている奇妙丸へ、沢彦が声を掛ける。
「奇妙丸様はいずれ織田弾正忠家を継がれる御方。民を思いやる気持ちも大切ですが、民の人気が欲しいと
武家の当主となれば、民が見えない所の脅威にも気付く事がある。民が良いと思っているものでも、実は後々に厄災となって降り掛かって来る悪いものになるかも知れない。そういう時は、先々の危険を取り除く為に反発覚悟でやり通す必要がある――沢彦はそう説くのだ。
「……分かりました。覚えておきます」
国の舵取りを任される者の自覚と責任に、奇妙丸は無意識の内に背筋を伸ばした。その表情を確かめた沢彦は満足そうに一つ頷いた。
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