縁 ―ENISHI―
病と家族と同窓会
それは、正に思いも寄らない展開だった。
(寝ると痛いのを除けば、自分は何ともなかったんだがなぁ)
今、哲哉――設楽哲哉――は救急車の中に居た。
これまでに大病を患ったりせず、極めて健康に生きていただけに、この状況には違和感があった。
「そのまま寝ていてください。確認するので、お名前と症状を教えてください」
救急隊員が数名で哲哉を抱えてベッドへと運んだところで、一人がそんな質問をしてきた。
こうなった経緯は概ねクリニックから伝わっているのだろうが、やはり当事者からの確認が必要なのだろう。
「自分の名前は設楽哲哉。症状はエコノミークラス症候群に似ているって聞いています」
「ありがとうございます。今、足に痛みはありませんか?」
「痛みって感じではないですが、右足が張っている感じがします」
「分かりました。目的の病院までお送りするので、楽にしていて下さい」
救急隊員の指示に従い、哲哉は身体の力を抜いて大きく息を吐き、そのまま瞳を伏せた。
(寝ると背中が痛かったから診てもらおうと来たのに、その痛みの原因が足に移っていたなんて誰が分かるんだよ……)
事の発端は、就寝時に横になった際、急に背中に痛みを感じて眠れなくなったことだった。
背中に湿布を貼って、どうにかその日の夜は凌いだのだが、これまでにないことだけに不安になり、翌朝に病院へと向かって診察をしてもらったわけだが、事態は哲哉が想像していたのとは全く違う方向に転がっていた。
(しかし、動くと命に関わる危険な状態って言われても、実感が湧かないんだよな)
数点の検査の後、医師に足に血栓が見えたと言われても全くピンと来なかったが、看護師が運んできた車椅子を前にして、ようやく自分が危険な状況にあるというのを理解したのだった。
「もうじき到着です。病室まで運びますからね」
「……ありがとうございます」
救急隊員の励ましの声。
(ああ、こんな形で色々な方向からお世話になるとは思わなかった)
此処に来て、これが現実だと自覚する。
状況からして、確実に入院することになるのだから一抹の不安は拭えない。
(自分、これからどうなるんだ……?)
周囲に響くサイレンの音を耳にしながら、哲哉はただただ、途方に暮れたのだった。
-壱-
それは懇意にしてくれているお隣夫妻からの夕飯の誘いを受け、お相伴に預かった日のことだった。
「えっ、お二人って義兄妹だったんですか!?」
本来ならば哲哉が知るような情報ではなかったが、酒のチカラが加わったこともあり、夫妻の方から哲哉に事情を話してくれていた。
「ああ。僕も鈴は血の繋がった妹だと思っていたのだけど、大学を卒業する頃に養父から言われてね」
実親の顔も記憶にないのに、実は養子だと知らされた時は流石に驚いたと、謙太郎――朝比奈謙太郎――は哲哉に向けて苦笑いを浮かべた。
「どうも僕が幼い頃に養子縁組していたらしい」
「そうだったんですか……色々と事情があったんでしょうけど、ショックだったでしょうね」
「自分の根源について考えさせられはしたけど、養父母は僕と鈴を分け隔てなく接してくれたから、それほど衝撃はなかったかな。逆に養子で良かったと思ったぐらいだよ」
謙太郎の穏やかな表情だけで、哲哉にも言葉の意味を理解できた。
(衝撃的な事実だけど、それとは関係なく、お二人は仲が良かったんだろうな)
哲哉の勝手な推測だが、二人は兄妹であると同時に、互いを深く想っていたのだろう。
「謙太郎さんが大学を卒業するまでとなると、お二人ともそれまでかなり葛藤していたのでは?」
「まぁ、悩みはしたね。妹を一人の女性として認識しているのは、世間一般では異常だろうから」
「私は茨の道を進む覚悟はあったから、絶対に最期まで一緒に居るって決めていたよ」
だから、逆にお兄ちゃんが実は養子だったって知った時は飛び上がるほど嬉しかったと、鈴――謙太郎の義妹であり、嫁である朝比奈鈴――の笑顔に、哲哉は胸の奥が温かくなっていくのを感じた。
(苦労されたから、今は尚更に幸せなんだろうな)
夫妻の仲睦まじい様子を見ていて、哲哉は何とも虚しい気持ちになってしまう。
二人は哲哉より二回りぐらい年上らしいのだが、今の自分が歳を重ねたとしても、同じことが出来るとは全く思えなかったから。
(実際にお姫は妹的存在だったし、自分とお姫が謙太郎さんと鈴さんみたいな関係になる可能性もゼロではなかったんだろうけど……)
朝比奈夫妻の雰囲気に感化され、数ヶ月前に結婚した兄――設楽利昭――と、義姉のみのり――哲哉は彼女をお姫と呼んでいる――を思い出し、自身と義姉の関係を想像してみる。
(うん、無理だな。妹的存在だったのは間違いないけど、同い年だしな……決してお姫に魅力がないってことじゃないんだけど)
そもさま、哲哉にはそれらしい相手が居ない。
女性に対して興味がなかったわけではないのだが、この歳になるまで縁に恵まれなかったのが事実だった。
「ところで、哲哉君には彼女は居ないの?」
自分達の事情だけを話してしまい、流石に恥ずかしくなったのか、鈴。
「結婚だけが人生じゃないけど、そういうのが気になる年頃でしょ?」
「あー……確かにそうなんですけどね。自分は女子に怖がられてしまう性分みたいです」
「え、そうなのかい? 哲哉君は礼儀正しいし、気遣いも出来るから、モテると思ったんだけどな」
「いやいや、これまで声を掛けてくれる女性なんて居ませんでしたし、自分は相手に声を掛けるのも躊躇してしまうぐらいの小心者なので……」
「あら、それは意外。でも、哲哉君は躊躇というより、敢えて声を掛けていないんじゃない?」
「え? いや、そんなことは――……」
予想外の指摘に、哲哉は不意にそうかも知れないと思ってしまう。
(なるほど。自分の方で相手を選んでいるのかも知れないな。でも、必要以上に誰にでも声を掛けたりするものなのだろうか?)
「あ、心当たりがないわけでもないんだね? でも、恐らくは相手が無意識の内に警戒しているんじゃないかな? 哲哉君は何も悪くないんだけど」
哲哉の気持ちを察したのか、稀にそういう霊気を漂わせているヒトが居るらしいと、鈴。
「ふむ。僕や鈴は最初から哲哉君に声を掛けることに抵抗はなかったけど、視覚的に第一印象から身構えてしまうってのはあるかも知れないね」
「……ってことは、自分は結構な確率で出会いの機会を逃しているんですかね?」
夫妻の意見に一抹の不安を覚えると同時に、哲哉自身もそういうものと納得するところはあった。
(昔から目が怖いって敬遠されていたしな……)
理不尽な話だが、その当人だけの感覚というのは絶対に誰も干渉し得ない領域なわけで。
「うーん……どうだろう? 私達みたいなのも居るから、そんなに悲観しなくても良いんじゃない?」
「僕と鈴の場合は例えにならないが、縁って本人が後になってから気がつくモノじゃないかな?」
「……そうかも知れませんね」
話題が誤魔化されていたが、朝比奈夫妻が哲哉を気遣ってくれていたのも事実だった。
(確かに悲観しても仕方がないな。今は変に意識しないようにするのが最良の選択だろう)
考えたって始まらない。
謙太郎が言うように、縁は後になってから真実であったと気がつくモノなのだろうから……。
-弐-
(息切れするの、運動不足じゃなかったんだな)
症状について説明を受け、此処に至るまでにそれらしい反応があったことを思い出す。
元々が在宅で仕事をしており、意識して運動していなかったからそういうモノだと思っていたのだが、医師から言い渡された症状は哲哉の想像していたような軽い病ではなかった。
(肺血栓塞栓症、か)
肺の血管に血の塊が詰まり、唐突に呼吸困難や胸痛が発生し、場合に因っては心肺停止を引き起こす危険な病気だった。
救急車で運ばれる前にエコノミークラス症候群だと言われたが、哲哉はそれがどんな症状なのかを全く理解していなかった。
(名称は聞いたことがあるけど、そんな恐ろしい症状だったとは。しかし――)
主に発症する条件は窮屈な空間に長時間、同じ姿勢で居続けることなのだが、哲哉はその条件に一致するようなことをした記憶がなかった。
(強いて言うなら、身体を動かす機会が少ないぐらいか。結果、運動不足が原因ってことなんだろう)
医師からは根本的な原因が不明だと告げられたが、哲哉は設楽家の血筋に関係があると思った。
(歳を重ねれば色々と悪い部分が出て来るのは自然の流れだけど、数年前に兄貴、今になって自分だからな。何らかの因果関係――……あ、厄とか?)
勿論、根拠は全くないのだが、哲哉が設楽家の人間には何かが憑いていると認識するには充分な現象だった。
「そう? 利昭さんと哲君が不運に見舞われたのは事実だけど、血縁に因果関係はないと思うな」
「なるほど。厄か……確かに俺も厄払いに行っていなかったな」
「な……ちょ、ちょっと! お姫も兄貴も、自分の心を勝手に読むの、止めて!」
どうやって哲哉の思考を読み取ったのか、入院先の病室の一角――無機質に四台、ベッドと机が設置されている――に付き添いで来たみのりと利昭は、それぞれの意見を何事もなかったように相手に伝えていた。
「でも、厄払いをしたとしても、俺や哲が病気にならなかったとは限らないな。逆に俺の場合は病気になったからこそ、今の状況になれたって感じだし」
「……まぁ、兄貴はそうかも知れないけど、そんな状況を普通のヒトは受け入れられないと思うぞ」
(兄貴は例外中の例外だな。体調を崩してからの人生のV字回復なんて、誰が信じられるんだ?)
実際、利昭は体調を崩して働けなくなったから故郷に戻ったという経緯がある。
その体調を崩した原因は潜伏していた先天性の病だったのだが、利昭は己の身体を理解した上で活動を開始し、数年で今の状況――起業して、社会に貢献している――にまで飛躍していた。
「ああ、誰だって己の不幸を嘆きたくなるだろうな。ただ――」
「不幸だとしても、嘆いていたって仕方がないってことだろ? 自分もそれは理解しているけど、今は沈んだ気持ちだよ」
利昭の言葉を制して、哲哉。
こんな大変な状況だったが、設楽家で育った二人には心構えがその身に染まっているようだった。
「それは歳を取ったってことだな。若い頃は無茶が効くが、年齢を重ねると何でもないことで不調が出てくる。だがまぁ、二週間の入院で回復するんだから、まだまだ元気で健康ってことだよ」
「私もそう思う。哲君が入院することになったって早紀さんに言われた時は吃驚したけど、会ってみたら顔色も悪いくなかったらホッとしたんだよ?」
「色々と心配をかけてゴメン。二人とも仕事中だったよね?」
クリニックで哲哉の病状が発覚し、救急車に乗って指定の病院に移ったのが昼下がりの午後。
軽い診察を受けた後、医師に入院するように告げられ、哲哉が実家に連絡したのが一般的なお店や企業が営業中の時間帯だった。
(お袋が電話に出てくれたのは良かったけど、お姫と兄貴を巻き込んじまったな……)
一昨年、利昭とみのりは清掃や整理収納を主とした代行サービスの会社を立ち上げている。
シッカリとした資格を取得している上、夫婦で依頼に併せて丁寧に対応するところが評判となり、まだ新しい会社ながらも繁盛しているようだった。
「いや、連絡を貰ったのが仕事の捌けた後だったから問題ない。哲がマンションの鍵を母さんにも渡してくれていたから、連携も速やかだった」
「哲君も早紀さんに必要な物を伝えてくれていたしね。そのお陰で面会時間中に荷物を運べたんだよ」
利昭さんが哲君の荷物の在処を何となく把握していたのは意外だったと、みのりも利昭に続いた。
(そうか。お袋は今回のような事態に備えて、自分にスペアを作らせたのか)
実家から離れて一人暮らしを始める際、早紀――設楽早紀。利昭と哲哉の母――に家のスペアキーを作って渡すように言われたのだが、それが何の為なのかを哲哉はこれまで理解していなかった。
(兄貴が自分の荷物の在処を理解していたのは、実家に居た頃の記憶をどうにかして辿ったんだろうけど……いや、お袋には本気で頭が上がらないな)
正に先々の可能性を考えて用意された、起こらなければそれに越したことはない保険だった。
もしも早紀に先天の明がなかったのなら、入院の連絡が届いたとしても、今のような肌理細やかで迅速な対応は出来なかったに違いない。
(例え入院することが伝わっていたとしても、自分一人では何も出来なかっただろうな……)
例え荷物が届かなかっただけでも、哲哉の心は不安で圧し潰されていただろう。
「……今更だけど、家族って本当にありがたいな」
利昭とみのりに改めて礼をしながら、哲哉は己の沈んでいた気持ちが徐々に軽くなっていくのを感じていた。
(こういう時、話をしてくれる相手が居るのと居ないのとでは違いが出るんだなぁ)
一人で不安を抱えていると、ヒトの思考は悪い方向に進んでしまう傾向がある。
現金なモノだが、哲哉の沈んでいた気持ちは二人と会話をすることで確実に回復へと向かっていた。
「そうだな。母さんの対応もだけれど、俺も実家に帰って来た時にしみじみ感じたよ」
家に入れなくなった時はどうしたものかと頭を抱えたけどと、その時のことを思い出して、利昭。
「ま、それは兎に角として、今はゆっくり身体を休めるのが先だな。いきなりのことで戸惑っているだろうが、不治の病ではないのだから」
「それが本当に不幸中の幸いだよね。入院中は一人で寂しいだろうけど、またお見舞いに来るから」
面会許可を取っているとはいえ、流石に病室で長居は出来ない。
頃合を見て必要な物を纏めた袋を床に置き、利昭は哲哉に来週に替えを持ってくる旨を告げる。
「うん……二人ともありがとう。助かったよ」
「気にするな。困った時はお互い様だ。あ、そうだ。話は変わるけど、哲のところに朝比奈さんってご夫婦が居るだろ?」
病室からの去り際、思い出したように、利昭。
「え? ああ、自分のところのお隣さんだけど……どうして兄貴が知っているの?」
「哲の荷物を用意して、玄関から出ようとした際に声を掛けられた」
家主が居ないのに、中に入ってガサガサしていたのが気になったらしいと、利昭は苦笑を浮かべた。
(そっか。本来は自分しか居ないのに、面識のない兄貴とお姫が鍵を開けて中に入って行ったら、朝比奈さん達からすれば不審者なんじゃないかって警戒もするか)
それで利昭が朝比奈夫婦を知っている理由は分かったが、逆に哲哉はどうして夫婦が利昭達に声を掛けたのかが疑問だった。
「……もしかして、朝比奈さんとトラブった?」
今のご時世、面識のない相手に意味もなく接触を試みるのは無謀以外の何物でもないだろう。
(お姫は兎も角、兄貴は初対面の相手からは怖がられていたからな……)
普段から良くしてくれている夫婦が利昭と会うことで恐怖を感じてしまっては申し訳が立たないと哲哉は思ったのだが――。
「いや、そんなことはない。荷物を纏めて玄関から出ようとしたら、ご夫婦で毅然とした態度で哲哉君のご親戚の方達ですよねって。哲が想像していたような、互いに気まずくなるような展開にはなっていないから安心してくれ」
「え?」
「親戚って言ったのは哲君と利昭さんが似ているからだろうけど、ご夫婦は哲君の方が怖いかも、くらいに思って声をかけたんじゃないかな?」
「ううっ……ゴメン。一瞬でも兄貴は見た目が怖いとか思った自分が一番悪かった……」
利昭とみのりによる謎の圧力を前に、哲哉は全身から変な汗が吹き出るのを感じながら謝罪する。
(くっ、同窓会の時にも似たようなことがあったけど、どうして自分の考えが筒抜けなんだ?)
一度ばかりか二度までも心を見透かされ、哲哉は激しく動揺していた。
恐らく二人は哲哉自身が自覚していない癖や法則を知っていて、絶妙なタイミングで話を繋いでいるのだろう。
「ま、哲君の外面が良いのは置いとくとして、ご夫婦はとても心配していたよ」
哲哉に軽く泣きが入ったところで、みのり。
「それにしても哲君は偉いよ。引っ越した先でも交流を大事にしているんだから」
話の流れで設楽家が竹元家の隣に引っ越して来てから今に至るまでを思い出したのか、みのりは嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「其処はまぁ、お隣にお邪魔して、真ちゃんやお姫と仲良くなったのと同じだよ。それで、朝比奈さん達にはどう伝えたの?」
「先ず、俺達は哲の家族だって名乗った。その上で哲が入院することになった流れを説明したら、見舞いに行くから入院先を教えてくれって言われた。だから、そのまま病院名と住所を伝えたよ」
みのりに褒められて照れ臭い気持ちを表に出さぬように誤魔化すと、利昭が助け舟を出して続けた。
「近い内に必ず行くと伝えて欲しいって。身内でもないのに心配してくれるなんて、確かにご近所付き合いは大事だな」
「ん、了解した。入院しているのを見られるのは少し恥ずかしいけど……」
「なに、俺達には既に見られているし、恐らくは竹元さんのところにも今回の件は伝わっているだろうから、気にしたって仕方ないな」
「うん。因みに竹元家は一家総出でお見舞いに行く予定だよ」
「病院に一家総出は病院側に迷惑でしょ……でも、気持ちはありがたいよ」
(そういう意味では、自分は恵まれているんだな)
不幸に見舞われはしたが、同時に何かに救われている……そんな気持ちになった哲哉だった。
-参-
「え? 哲君と榊さんって従兄妹だったの!?」
哲哉からこれまで知らなかった真実を伝えられ、みのりは声を大きくしてしまっていた。
「そんなに驚くことか? 桜冬さんが親父の妹だから、榊は自分や兄貴の従妹になるんだよ」
「だ、だって! これまで二人はそんな素振も見せなかったよね?」
哲哉の指摘を受けて声を少し抑えるも、みのりは驚きを隠せないようだった。
「まぁ、クラス内で榊と哲哉様が親戚だと知っているのは担任の先生ぐらいでしょうから……」
みのりの声に苦笑しつつ、優希――榊優希――は周囲の様子を窺うが、その声に反応した同級生は居ないようだった。
「敢えて知らせる必要もないからな。学生の頃なんて、同じクラスの男女で昔馴染みってだけで噂になるんだから」
「あ、だから隠していたってこと? 親友のボクとしては哲の方から教えてもらいたかったなぁ」
「誰が親友だよ……それに隠してもないぞ」
嘯く智秋――椎名智秋――を躱しながら、哲哉は大袈裟に肩を竦めてみせた。
(お姫と椎名のところに寄ったら、榊も付いてくるとは思わなかった)
同窓会での一幕。
席や場所が決まっていなかったので、身近な同級生に声を掛けたのだが、意外な面子が揃っていた。
(榊もお姫の結婚が気になったんだろうな)
会話の流れで結婚式の話になり、哲哉が優希に都合が付かなくて式に出られなかったんだよなと口走ってしまったのが事の発端だった。
「んで、サラッと流すところだったけど、優希は哲に様を付けてなかった?」
「……椎名ってこういう時は耳聡いな。普段はヒトの話を聞いてなさそうなのに」
「哲君、それは智秋に失礼だよ。それに私も気になったし……哲君と榊さんってどういう関係なの?」
「そうですね。言うなれば、主従の関係――」
「違うからな? お姫や椎名が余計な妄想を広げるから、そういう誤解を招く発言は止めろ」
何を言い出すのかが読めていたのか、真顔で凄い言葉を口にした優希を哲哉は一蹴する。
(親戚筋に素行の悪いのが居て、榊家を貶めようとするのを親父とお袋が阻止したのが切欠らしいけど、榊はそれに恩義を感じているからな……)
哲哉がその事情を理解したのは随分と後のことなのだが、早紀に連れられて榊家で優希と初めて会ったのは小等の頃だったと記憶していた。
「……どういうこと? ボクには優希が哲に従っている感じがするんだけど?」
「上下関係なんてないって。高校に通う頃から榊がそう呼ぶようになっただけだよ。自分達はそんなに畏まらないでくれとは言っているんだけど――」
「いえ、設楽家の方々が榊家を救って下さったことに違いはありません。敬意を表して当然です」
優希は哲哉に否定されて不満そうな表情を浮かべていたが、これだけは譲れないと強く言い返す。
「主従なのだから名を呼び捨てろと懇願しているのに、未だにそれも聞き入れてくれません」
「……とまぁ、ずっとこんな感じなんだよ。昔のことだからって親父もお袋も言っているんだけどさ」
哲哉としてはこの件についてみのりや智秋に同意を求めたかったが、優希の口調に何となくお茶を濁してしまっていた。
(榊の性格なんだろうけど、その頃から親父やお袋が榊家に支援をしていたんだろうな。兄貴と自分は事情も知らずに遊びに行っていただけなんだけど)
利昭も哲哉も従妹だとは聞かされたが、頻繁にお邪魔することになった経緯は知らされていなかったし、それを疑問に感じてもいなかった。
(今になって思うと、お袋が自分達を連れてきていたのは、彼女が他人との接触に慣れる為だったんだろうな)
事実、優希は哲哉達と会うまでは母である桜冬――榊桜冬。「桜冬」で「さと」――以外と会話したことがなかったらしい。
直に小等に上がって学校に通うというのに、優希は他人と真面に話が出来るだろうかと一抹の不安を抱えた桜冬が早紀に頼んで歳の近い利昭や哲哉を榊家に向かわせたのが始まりだった。
(でも、実際に会ってみたら喋れないなんてことはなかったし、物怖じしてなかったんだよな)
早紀から大人しい娘だと伝えられていたが、蓋を開けてみたら好奇心旺盛で人懐っこい娘で、寧ろ哲哉達の方が拍子抜けしてしまった感じだった。
(良い意味で裏切られたんだけど、そのお陰で急速に仲良くなれたんだ)
桜冬や早紀が意図的に仕掛けたわけではないだろうが、男女を意識しないで居られる年頃での出会いや、お互いの家を行き来するのに無理のない距離は、相手の存在を認識するのに良い環境だった。
(流石に小等を卒業する頃には自分の方が彼女を意識するようにはなっていたけど、引っ越しがなかったら、それはそれでまた関係が違っていたかも知れない)
それまで設楽家と榊家は家族ぐるみの交流が続いていたのだが、設楽家が引っ越すことになったのを切欠に、自然と互いに会おうとする機会も減っていった。
以降、哲哉はふとしたことで優希のことを懐かしく思い出したりしていたのだが、よもや高校になって同じ学校で再会することになるとは予想していなかった。
(昔の一緒に遊んでいた頃の印象が強かったからな。会って直ぐに彼女だとは気がつかなかった)
その時に哲哉は女性は変わるものだと実感した。
元から美人なのは知っていたが、数年で可憐かつお淑やかな女性に化けるとは思いもしなかった。
「ふーん。そんな経緯があったんだ。まぁ、優希は丁寧な言葉遣いをしていたから、哲を敬語で呼んでいるなんて気がつかなかったよ」
哲哉の回想を他所に、周囲に勘づかれないように意識していただろうしと、智秋。
「でも、逆に良い機会だったんじゃない? 遅かれ早かれ、みのりは事情を知ることになっただろうし、此処でボクにまで聞かせたってことは、知られても問題ないって判断したからでしょ?」
「ええ、椎名さんの言う通りです。でも、あの一瞬で榊の思惑を紐解かれるとは思いませんでした」
驚きの表情の後、榊の状況を理解してくれて良かったと、優希は智秋に一礼していた。
「秘密ではないのに、榊が勝手に意識して広めまいとしていたので、ようやく肩の荷が下りました」
「そっか。高校に上がってからずっとだものね。逆に誰にも気づかれなかったって事実が凄いよ」
私や智秋じゃ、絶対に途中で心が折れていたよと、みのりは優希を賞賛していた。
「……それに比べて哲君の態度は酷くない? 広げる必要はないのに、哲君が暴露しちゃうんだもん」
「うん。ボクもそう思った。しかも哲の方はその状況下でも平然としているし、お願いも叶えてないみたいだし……優希が可哀想」
「え? い、いや! 確かに自分が口を滑らせたのが原因だけど、二人して其処を責めるの!?」
予期せぬタイミングで矛先を向けられ、哲哉は俄に返答に詰まってしまう。
「それはそうでしょ。優希に対して、哲は敢えて気づいていない振りをしているんだから」
「気づいていない振りって……椎名、お前ね」
まるで優希の想いを哲哉が拒絶しているのを糾弾している状況に、哲哉は苦笑せざるを得なかった。
(お姫も椎名も、この手の話に興味があるんだろうな……確かに自分にも否がないわけじゃないけど)
今日の話を聞いて二人は優希に肩入れしたくなったのだろうが、それでも今に至るまで、哲哉は優希を恋愛の対象として見ていなかった――正しくは好意を抱いてはいたが、優希の信念に諦めざるを得なかった――し、恐らくは優希も同じだろう。
「……ああ、それだけを拾われると哲哉様が榊の気持ちを踏み躙っているように聞こえますね」
哲哉の反応から智秋が何を求めているのかを察し、優希も苦笑を浮かべた。
「椎名さん、確かに哲哉様は榊の願いを叶えてくれませんが、それは呼び捨てにする理由がないからなのです」
「理由がない? でも、哲のところと優希のところは主従関係なんでしょ?」
「だから違うからな? 例え親戚同士で親密な交流関係だとしても、設楽家と榊家は平等。お姫や椎名には榊が自分を慕っているように見えるのかも知れないけど、榊のは恋愛ではなく、忠義に近いぞ」
自分も従妹だからと気軽に接してしまっていたところはあるけれどと、哲哉。
「ああ、少し前に同じことを言っていたね。だから哲君は榊さんを名前で呼ばないってことか」
「榊自身としては主従関係であるつもりですから、哲哉様には優希と呼んで欲しいのですけどね」
榊が哲哉様の恋人になれれば話は別なのでしょうけどと、表情を変えずに淡々と、優希。
「……哲、何だかゴメン。ボク達が勝手に思い込んでいた。可哀想なのは寧ろ、哲の方だったよ」
小声で哲哉に呟き、智秋は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
(可哀想、ね……)
基本、初対面の相手には何故か怖がられ、これまで声を掛けられたことが極端に少ない哲哉である。
その哀れな状況を知っている智秋達からすれば、もしかしたらと話を振ったに違いなかった。
(自分も彼女のことは気になってはいたけど、どうにも脈がない感じだからな……)
親戚で従妹同士というのが逆に余計な枷を課してしまったのかも知れなかった。
(……自分、本当に縁に恵まれてないなぁ)
みのり、智秋と身近な同い年には伴侶とが居るというのに、哲哉は未だ出会いすら見出せていない。
同じような境遇に居るのは自分ばかりじゃないと気持ちを鼓舞するが、周囲との格差にどうしても焦りを禁じ得ない哲哉だった……。
-肆-
Techuさん
お疲れ様です。U-Yahです。
入院するとnatukiから聞いて驚きましたが、命に別状がないとのことでホッとしました。
教えてもらった症状をネットで調べ、とんでもない大病であると知って血の気が引きました……。
本当に大事にならなくて良かったです。
先ずはお身体を大切にしてください。
退院したらまた色々とお話しましょう。お大事にしてください。
夕刻になって、代表であるU-Yah――ネットワーク上で業務を進めることから、この職場ではハンドルネームでの人名認識が採用されている――からのメールを受け取り、哲哉はホッと大きな溜息を吐いていた。
(ああ、U-Yahさんがフットワークの軽いヒトで良かった……)
急に入院することになった旨を哲哉は最初に実家、次に勤務先へと連絡した。
本来はこうなった経緯をU-Yahに伝えるのが筋ではあるが、流石に勤務中の時間帯に電話しても即座に対応してくれるとは限らない。一先ずU-Yahにはメールで状況を説明し、その上で勤務先にも電話して反応を伺ったのだった。
(毎日出勤しているメンバーって居ないからな……natukiさんが出てくれてラッキーだった)
数時間前の電話を思い出し、安堵の息を漏らす。
本来であれば今日は出勤している時間帯――哲哉の務める会社は日によって出勤の時間帯が変わる――なだけに、あんなにも速やかな引継ぎが出来ていたのは正に奇跡だった。
『お電話ありがとうございます。原西Webデザイン、natukiが承ります』
電話して数コール後、聞き慣れた女性の声。
『natukiさん、お疲れ様です。Techuです』
電話の相手がnatuki――副代表で、U-Yahのパートナーでもある――だったことに感謝しながら、哲哉はいつもと変わらない挨拶をする。
『え、Techuくん? このタイミングで事務所に連絡ってことは、何か大変なことでもあった?』
『はい……その、申し訳ないのですが、入院することになってしまいまして……』
『入院!? それは流石に……何があったの?』
『実は――』
哲哉は朝から今に至るまでに起こったことを全て説明した。
『なるほど。それで入院になったわけか。いきなりのことでTechuくんも大変だったね』
報告――哲哉の病は生死に関わる症状――を受けても、natukiは狼狽えていなかった。
『いち早く連絡してくれてありがとう。ご家族への連絡は?』
『こちらに電話する前に実家の方に電話しました。自分、入院したことなかったので途方に暮れたんですが、兄貴が対応してくれました』
『それなら良かった。前触れもなく病気を背負った状況だから、Techuくんも凄く不安になっていたよね?』
『ええ。自分もこういう時、一人だったから余計なことを考えていただろうなって』
『本当に持つべきものは家族だね。あ、U-Yahに伝えておくから、仕事のことは全て忘れて、回復に専念するんだぞ?』
哲哉のことを案じてか、natukiの口調は普段よりも少し強めだった。
『あたし、君は仕事に対して責任感が強いって思っているから、此処は釘を刺しておかないと』
『ええー……自分のイメージってそんなですか?』
『別に責任感が強いのは悪いことじゃないでしょ。単に今はTechuくんじゃないと駄目な案件がないだけだから、考えように因っては神様の思し召しってことなんじゃない?』
『思し召しって……まぁ、一命を取り留めたのは事実ですけどね』
『うん。あたしも神頼みって好きじゃないけど、人間の知り得ない超越した何かって確実に存在しているから、こうしてTechuくんと話が出来ているのも小さな奇跡なんだろうって』
哲哉と話している内に何かを思い出したのか、natukiの声は少しトーンが落ちていた。
『natukiさん?』
『ああ、ゴメンゴメン。兎に角、退院するまでは会社に連絡しないこと。嘘を吐いたら本当に太い針を千本、飲ますからね!』
(しかし、針を千本って……natukiさんもそんなお茶目なことを言うんだな)
通話を思い返してnatukiを可愛らしいと思った直後、同時に太い針を千本も飲まされるのを想像してしまい、思わず身震いする。
(ううっ、何を変な想像をしているんだ自分は……でも、こんな風に気遣ってくれるのはありがたい)
病気に罹ってしまい、不安しかない状況。
例えnatukiなりの冗談だったとしても、前途多難な哲哉にとってはこれ以上にない救いの言葉となっていた。
(インターネットに掲載されていたスタッフ募集に応募してから数年になるけど、本当に自分のことを気遣ってくれているんだな……)
natukiから哲哉に掛けられた、実に温か味のある優しい言葉の数々。
普段はそれを意識していなかっただけに、今更ながら恵まれた職場に居るのだと感じていた。
(お陰様で後顧の憂いは断ってもらえた。しばらくは皆に負担を掛けてしまうことになったけど、復帰したら必ず恩返しするから……)
そんなことを思ったからか、安堵して気持ちがふっと緩んだのか、唐突に視界が歪んだ。
(……ああ、自分も意外と気を張り詰めていたんだな。足に力が入らない)
そのままベッドに倒れ込む。
体内からどっと疲れが押し寄せてくるのを抑えられず、哲哉は眠りに落ちていったのだった。
-伍-
「利ちゃんと哲君が揃ってウチに来るの、高校を卒業して以来じゃないか?」
「かもね。あのシステムトラブル以降、俺は何度かお邪魔しているけど、哲はどのぐらい来てない?」
「十年じゃ利かないぐらい、ずっとお邪魔してないんじゃないかな。真ちゃんとこうして会話したのもかなり久し振りだよ」
利昭とみのりが結婚してから数ヶ月後、哲哉は真悟――竹元真悟――の宴会に誘われ、竹元家のリビングで寛いでいた。
「そうなんだよ。利ちゃんとはこっちに来てから一緒に飲んだりしているけど、哲君とは本当に会っていなかったからな。オレも哲君と話がしたいって思ったんだよ」
利ちゃんの結婚式では会ったけど、バタバタしていて話せなかったしと、真悟。
(そっか。結婚式で会ってはいたんだ。でも、やっぱり自分としては懐かしいって感じてしまうな)
十数年ぶりにお邪魔した竹元家の雰囲気を前に、初めて真悟やみのりと会った頃を思い出す。
「意外と昔と変わってないだろ? 変わったのは二階ぐらいだから、哲君も何処に何があるかぐらいは憶えているんじゃないか?」
「や、流石に細かいところは忘れているよ。二階ってそれぞれの自室だったでしょ? 何が変わったの?」
「そうか。哲君は知らないよね。お父さんの部屋が智秋の部屋になったんだよ」
「……はい?」
みのりの予想外の説明に、哲哉の目が点になる。
(どういうことだ? 椎名の実家は自分が住んでいるところの近くのはずだけど……)
時折、駅周辺や普段利用している店等で智秋と会うことがあった。
確かに真悟と智秋が婚約したというのは少し前に聞いていたが、哲哉は智秋から今は実家に居ると教えられていた。
「まぁ、そういう反応をするよな普通。竹元の義父母は椎名さんのことが気に入ったらしくて、義父の部屋を空けて彼女の部屋にしたそうだ」
義父母の性格は哲も知っているだろと、利昭は哲哉の反応に苦笑を浮かべていた。
(んん? 竹元の義父母の性格? あー……なるほど。そういうことか)
利昭の意味深な単語に、哲哉のかつての記憶が鮮やかに甦っていく。
(兄貴か自分のどちらかがお姫と結婚してくれって本気か冗談か分からないあれね)
中等から高校の頃、真剣な顔をして言われたので戸惑った記憶があった。
結局、どちらもみのりを妹的存在と認識したので保留となったのだが、それから十数年も経った後で利昭とみのりが一緒になっている辺り、竹元の義父母には先天の明があるのかも知れない。
「ふむ。それで竹元家に椎名の自室があるってことか。でも、椎名は実家に居るんだから、此処で生活はしてないよな?」
「あー……そうか。哲の住んでいるところがボクの実家に近いからね。そう考えるのが普通だね」
意外と遭遇率も高いし、不思議に思って当然かと納得したように智秋は頷いた。
「ん? どういうこと?」
「実は真さんとの婚約が決まった頃に、ボクの父親が単身赴任することになってさ。実家に母親が一人だけって寂しいだろうし、ボクとしても心配だから実家に戻ったってわけ」
「なんと、そんな経緯があったのか……ってことは、それより前は此処で生活していた?」
「うん。婚約前に両親公認で同棲、みたいな?」
「……お前、冗談でもそういう際どいのは止めような? しかし、知らなかったこととは言え、不躾な質問をしてしまったな。悪い」
「や、気にしないでよ。ボクの方こそ伝えてなくてゴメン。近い内に親戚関係になるんだから、お互いに交流は深めておかないと」
「親戚関係って――……ああ、そうか」
(お姫の時は違和感がなかったんだけど、椎名が親戚って何だか変な感じだな……)
これまでと違う認識の誕生に違和感を覚えた。
確かにみのりも智秋も、哲哉にとっては義姉なのだが、智秋に関しては何処か違う位置付けのように思えてしまう。
「今まで意識していなかったけど、お姫が結婚した時点で、自分は真ちゃんのことは義兄さんって言わないと駄目だったんだな」
「いやいやいやいや! オレと智秋が結婚してからもこれまでと同じで良いって! 別に結婚したからって状況が変わるわけじゃないし、哲君にお義兄さんって言われたの、背中がむず痒くなったから!」
流石にこれまで定着していたお互いの呼称が急に変わってしまうのに抵抗があるのか、真悟は顔を歪めて大袈裟に身震いしていた。
「え、そんなに? お隣との付き合いが長いから愛着もあるだろうけど、私は自然と変えられたよ?」
「嘘を吐くな。自然じゃないだろ。お前と利ちゃんの場合、昔からお互いにちゃん付けで呼び合っていたから、流石に子供っぽいって、結婚式までにどうにかして矯正したの、早紀さんから聞いているぞ」
「うわ、其処で母さんの名前が出て来るのか……息子と嫁の恥を真ちゃんに伝えるとか、無慈悲にも程があるぞ……」
(流石はお袋。秘密って言っておかないと、何でも明け透けにしてしまうからな。他人に知らされたくない内容がバラされるの、地味に効くんだよ……)
これは一緒に生活してきて、何度となく痛感させられた事実である。
早紀に他人を貶めるつもりはないのだろうが、当人の知らないところで情報が流出しているのは変わらないし、意図があろうがなかろうが、当人は否応なしに害を被ることとなる。
「……そういや、どうして哲はみのりをお姫って呼ぶようになったの?」
予期せぬタイミングで秘密が暴かれ、利昭とみのりが抜け殻になったのを瞬時に察し、智秋。
(ナイス! 流石は椎名だ。逆に真ちゃんは昔から空気を読まないことがあるんだよなぁ)
真悟は哲哉から見ても頼れる年上なのだが、親しい間柄にはついついやらかしてしまうところがあった。
「そりゃ、単純に設楽家に嫁いでくれたお姫様だからだな。昔馴染みで同級生だから、名前では呼び辛かったし」
「ああ、なるほど。付き合いが長いと照れ臭くなるんだ? 簡単に義姉さんってのは駄目だったの?」
「それは逆に私が落ち着かなくなるかな。兄さんじゃないけど、哲君に義姉さんとか、みのりさんって言われても、ね?」
智秋がみのりに聞こえるように質問していたのか、会話の途中でみのりが智秋の意見を遮った。
「うわ、一瞬で復活した……ま、兄貴と相手の呼び方も被るし、椎名が言うように照れ臭いってのも本当だから、色々と考えたんだよ」
(竹元家にお邪魔していた頃は、自分もみのりちゃんと呼んでいたけど、学校内ではお互いに苗字で呼んでいたし……)
その辺りの認識はみのりも同じだったが、結婚を機にみのりは昔と同じように哲哉を哲君と呼ぶようになっていた。
「へぇ。其処からお姫って呼称が出て来たんだ? 確かに古風な呼び方だけど、姫って相手を敬う語だし、哲にしては気が利いているじゃん」
「自分にしてはって何だよ……確かにない知恵を絞り出したのは事実だけど」
「私は嬉しかったよ? 私達ってお互いにずっと同じ呼び方だったでしょ?」
冗談交じりで哲哉を揶揄う智秋を牽制するように、みのりは照れながらもはにかんでいた。
「だから、お姫だなんて呼ばれたことなかったし、とても新鮮だったんだ」
「そ、そうか? そんな風に思ってくれたなら、自分としても苦労した甲斐があったな」
(……って、何を照れているんだよ、自分は!)
お姫と呼ばれたことを喜んでいるみのりの笑顔に、哲哉自身も嬉しくなっていた。
これまでも色々な場面で会ったり、会話したりはしてきたが、こんな形で呼称を褒められたのは初めて、思わず顔を赤らめてしまっていた。
「おっ、哲君がみのりを見て照れるなんて珍しいな? 今になってシスコンに目覚めたとか?」
「ふむ……あの呼ばれ方はみのりさんの方が気に入ったのか。哲、俺はみのりさんをお前に渡すつもりはないからな?」
「……二人とも、そういうことをお姫と椎名の前で言うの、止めてくれる?」
唐突に湧いて出てきた二人に雰囲気を台無しにされ、哲哉は大きな溜息を吐いた。
恐らくは三人の会話に入り込む糸口を探っていたのだろうが、放たれた言葉は相手の印象を悪くし兼ねない、かなりの醜手だった。
「色々と言いたいだけだろうけど、自分は兄貴と張り合うつもりはないし、二人の元同級生が義姉になっただけだから、変に意識することもないよ」
「あ、哲はボクも義姉って認識してくれるんだ?」
構って欲しいだけであろう利昭と真悟に生真面目な解答を返すと、智秋が驚いた表情――恐らくは空気を読んだ――で続けた。
「確かに元同級生なのに義姉って、ある種の層には堪らないシチュエーションだもんね?」
「あのな……別に自分はその手の層とやらじゃないし、お前はまだ結婚してないから一応、な?」
「それもそうか。でも、これまでの方程式からすると、哲はボクにも決まった呼び方をするでしょ?」
「うっ……」
智秋の期待の眼差し――単なる興味本位だろう――に、一瞬にして言葉に詰まった。
(そういう切り返しで来るか……でも、椎名の場合は結婚してもお姫と条件が違うから――)
「あ、今みたいに旧姓で呼ぶのは駄目だからね?」
「む?」
「その表情からすると、そういう安直なことを考えていたね? ボクは結婚して姓が変わることに抵抗はないからさ」
次の一手を詰められた哲哉に、釘を刺していて正解だったと、智秋は意地悪そうな笑みを浮かべた。
(読まれたか。しかし、椎名ってなかなか頭が切れるんだよな。同じクラスに居た時は何かと頼りになったし、自分みたいな強面にも動じなかった)
みのりもクラスが同じだったというのも関連しているだろうが、哲哉が自分の容姿を意識しないで居られたのには、少なからず智秋の存在が影響していたに違いない。
(高校の時に自分と交流が深かったの、お姫と椎名、他には榊ぐらいだしな)
不思議な縁で女子三人との接点が主となり、結果として男子との交流が浅くなってしまったが、哲哉はそれを否とは思わなかった。
「違う呼び方かぁ。利昭さんだったら、智秋を何て呼ぶ?」
「普通に智秋さんになるだろうね。俺には哲のような他と被らないようにするって発想がないからな」
(……兄貴もお姫も、そういうところだぞ? 自分だって喜んでやっているわけじゃないぞ)
他人事とばかりにイチャイチャしている二人にイラッとするのをグッと抑える。
(お姫ってのも、単純に自分なりに考えた結果だし、椎名の場合も同じように考えて――……あ)
智秋の性格、立ち振る舞いから色々と想像していると、脳裏にそれらしい名称が思い浮かんだ。
この呼称は智秋には嫌がられるかも知れないが、高校から今に至るまでの関係を鑑みると、哲哉としてはこれ以上に適した名称はないように思えた。
「お、智秋の新しい呼び方を思いついたんだな?」
哲哉の表情から何かを察したのか、真悟。
普段は空気を読まない真悟だが、昔から勘が鋭かったことを哲哉は思い出した。
「相変わらず良い勘をしているなぁ。でも、旦那である真ちゃんはこの呼び方を嫌がるかも知れない」
「そんなことはないだろ。智秋の新しい呼び方もみのりの時と同じでオリジナルなんだろ?」
これからも相手をそれで呼ぶことになるんだから問題はないはずだと、真悟は嬉しそうに続ける。
「利ちゃんが言っていたように、哲君にはオレ達と違う、相手を想う感性があると思うんだ」
「……えっと、それは褒めている?」
「勿論。だから、智秋の呼び方に関してはオレのことは気にしないで良いよ」
思いも寄らない方向からの援護に驚きはしたものの、哲哉としては素直に嬉しかった。
(自分でも変に拘ってしまっているって自覚はあるけど、それを認めてくれるのは嬉しいな)
実際、呼称は誰かと同じでも支障を来すようなことはないだろう。
哲哉が敢えてそれに依存しているのは、正に真悟の言う相手への想いに他ならない。
「別にダメージを与えるつもりはなんだろ?」
「そうだけど、気に入らない場合もあるでしょ?」
「哲って意外と小心者だよね? その場合はNGが出るだけだから、サクッと言っちゃいなよ」
「小心者って……お前ね。自分は慎重派なんだよ。リテイクには時間が掛るからな?」
気風の良い向上に苦笑しつつ、自分で思い浮かべた智秋の新しい呼称に間違いはないと確信する。
「それならそれで良いってば。で、気になる新しいボクの呼び方は?」
「実運用は結婚後だぞ? 新しい呼び方は――」
哲哉は四人の前で新しい呼称を披露する。
その意外性に誰もが驚きの表情を浮かべはしたが、次の瞬間には全員が納得――智秋の性格を理解している――したように大きく頷いたのだった。
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