それでも

仲の良い兄妹

「あれ……?」


「ん?」



 直ぐ隣から聞えた声に、僕は目を醒ました。



「涙、出てる」


「え」


「……悲しい夢でも見たの?」


「いや……そんなことはないんだけど……」



 言いながら、頬の辺りにそっと指を這わせくる。


 僕は慌てて仰け反り、目元をゴシゴシと擦った。



「何だろう……怖い夢を見たような気がする」


「怖い夢?」


「うん……あれは怖い夢だったと思う」



 本当は怖いというのとは違うのかも知れない。


 けれども、それ以外に上手く説明できる語彙が僕には思いつかなかった。



「……大丈夫だよ」


「え」


「どれだけ怖い夢でも、夢は夢だもの。きっと大丈夫だよ」



 根拠のない、大丈夫という言葉。


 けれど、微笑みを浮かべて勇気づけられると、そんな気になってくるから不思議なモノだ。



「……そうだね」



 だから、僕は同じように笑みを浮かべて返した。


 何を恐れているのかも分からなかったけれど、彼女の言葉に救われたのは間違いないのだから。




-壱-


 僕は弟が欲しかった。


 妹よりは自分と同姓、一緒に遊んで共感の得られる存在、身近な男友達である存在が欲しかった。



「おめでとうございます。女のお子さんですよ!」



 だから、父さんに連れられてきた病院の看護士さん二人が喜ばしげにそう伝えてきた時、子供心に厭そうな顔をしてしまったのを覚えている。



「あら? お兄さんになったのに、嬉しくないの?」


「え」


「妹さんだよ? 君はお兄さんになるんだよ?」


「いもうと……?」



 恐らく僕の思っていたことが表情に出てしまったのだろう……看護士さんの一人が冗談半分でそんなこと言ってきた。



「あ、妹じゃなくて弟が良いと思ってたんでしょ?」


「そ、そんなことないよっ」


「それじゃ、妹さんは看護士さんがもらって行っちゃおうかな~?」



 冷静になって考えれば有り得ない展開だが、僕を刺激するには充分な一言だった。



「だ、ダメだよっ」



 母さんが産んだ妹だというのに、僕の迂闊な態度が原因で看護士さんに連れ去られてしまうというのだから、どうにかしなければと思った。



「え~? だって君は妹なんていらないんでしょ? だったら良いんじゃない?」


「ちがうよ! ぼくの……ぼくのいもうとなんだから、だれにもあげないっ……」



 ……これが僕の兄らしい発言の最初だったと思う。


 それまでの過程があるので、声を張り上げた割にはカッコ悪い展開になったわけだけれども。




 妹の名前は「鈴」とつけられた。

 その音のように美しく、ヒトを和ませる娘になりますようにとの願いを込められて。




-弐-


「んで、僕は何をしたら良いんだ?」


「えっと……メレンゲを作ってもらえるかな?」


「メレンゲ?」


「うん。卵の白身をかき混ぜて泡立てて欲しいの」



 ある日、家に居たら妙なことを頼まれた。


 力仕事とか、高いところにモノがあって手が届かないとかいうなら分り易いのだけれども。



「え? もしかして黄身と白身とを別々にしなくちゃいけないの?」


「あ、それは先にやってあるから、かき混ぜるだけなんだけど……」


「ん? どうして其処で言い淀むの?」



 鈴は嘘が吐けない……というか、根が素直なので、後ろめいたことがあると言い淀むし、意味のないことで遠慮してしまうところがある。



「あう……やっぱり――」


「こら。言いたいことはちゃんと言わないと相手に伝わらないだろ」


「だ、だって~」


「僕に遠慮していたら、他の誰にも頼めないだろ」


「で、でも、メレンゲを作るのって大変――……あ」



 其処で鈴がしまったというように唇に手をやった。



(そういうことか。優しいというか何というか……)



 全く以って鈴らしいのだが、此処は今後の為に指導しておく必要があると思った。


 ちょっと意地悪に、けれども決して悪意に取られないように。



「ほほぉ。なるほどねぇ」


「うっ」


「鈴ちゃんはその大変なのをいきなり引っ張ってきた僕にやらせると、そういうわけですか」


「あう……あの、そのっ」



 慌ててオタオタしだす鈴。



(これが地なのだから、先が思い遣られるな……)



 今回のように相手が僕の場合はそんなに気にすることはないのだけれども、必ずしも僕が近くに居るとは限らないわけで。



「……で、どうすれば良いんだ?」


「え」



 シュンとしているところを、ぽんっと軽く頭を叩いて落ち着かせてみる。



「大変ってことは普通にかき混ぜるだけじゃ駄目なんだろ? どういう風にやれば良いんだ?」


「あ……ええっと、手伝ってくれるの?」


「手伝って欲しいって僕に言ってきたのは鈴の方だろ? それに誰も手伝わないなんて言ってないよ」



 パッと明るくなる。



「さっきも言ったけど、こういうことはちゃんと相手に伝えないと意味がないんだからね? 喋らないと何も変わらない」



 軽く小突いて、お兄さん風を吹かせてみせる。


 まぁ、今日は余裕があったし、時には妹の作業を手伝っても罰は当たらないだろう。




「……ホントはね」


「ん?」


「一緒に作りたかっただけなんだよ」


「どういうこと?」



 汚れるからと用意されたエプロンを着けて、少し大きめのボールを抱えて白身をかき混ぜる。



(なるほど。確かにこれは大変だ)



 他の作業の合間に出来るモノではないと思った。


 白身が泡立ってくるまで繰り返すので、実際にはかなりの重労働だった。



「前にね、友達が弟と一緒にご飯を作ったんだって」


「ふむふむ」


「その時の話を聞いてて、楽しそうだなぁって」



(楽しそう、か……鈴もこういうことを想像していたんだろうな)



 二人で作業をしていて思った。


 こんな穏やかに微笑んでいる妹の姿を、僕はこれまでに見たことがなかったと思う。



(まぁ、手伝った価値はあったな)



 鈴があんなにも嬉しそうにしているのを見て、改めてそう思った。



「……ところで、これって何を作っているんだ?」


「あ、一応はケーキが出来る予定だけど……」



(なるほど。それで大がかりな作業になったわけね)



 その出来る「予定」というのがちょっと引っかかったわけだけれども。



「じゃあ、これの手伝い賃はそのケーキの味見第一号ということで」


「うん。場合によっては毒味になっちゃうかも知れないけどね」


「こ、怖いことを笑って言わないでよ……」


「えへへ。そうならないように頑張るね」


「……期待してる」



(たまにはこんなのことがあっても良いな)



 何だかとても楽しい気持ちになって、僕は自然と笑っていた。




-参-


「なんか美味しそうなのを食べてる」


「あ、お兄ちゃん」


「一口、もらっても良い?」


「うん。良いよ」



 鈴がアイスクリームを食べていた。


 興味を刺激され、自然に提案すると、それは難なく受理された。



「はい」


「ん」



 ひと匙、カップから攫って差し出してくる。


 僕は匙を受け取るのが面倒で、横から山になったアイスの方だけを口の中に入れた。



「あっ、匙ごと受け取ってよ~」


「れふひりりしゃらひは」


「……モノを口にしたまま喋らないの」



 僕にツッコミを入れつつ、鈴は匙でアイスを掬ってもう一口。



「――……!?」



 直後、鈴が瞳を大きくして固まってしまった。



「ど、どうした?」


「んんんん……っ」



 首を横に振っている……恐らくは何でもないという意思表示なのだろうが、顔が徐々に赤くなっていくものだから、こちらとしては何か起こったのではと思ってしまう。



「鈴?」


「ご、ごめんなさい……本当に何でもないから」



 どうにかアイスを咀嚼して匙を取り出した鈴はそんなことを言っているけれど、僕から見ても様子がおかしいのは変わらなかった。



「あ、顔が赤いよ? 熱があるんじゃないの?」



 咄嗟に鈴の額と自分の額の温度を手で比べてみる。


 曖昧な感覚だからハッキリとは分からないけれども、鈴の方が熱っぽくなっているような気がした。



「熱、計ってみた方が良いかも。この時期の風邪って治り難いから、ひき初めの内に叩いておかないと」


「あ……その、そういうのじゃ、なくって……」


「え?」


「……な、なんでもないっ」


「鈴?」


「ごめんね。本当に大丈夫だから……」



 鈴は不思議だ。


 取り敢えず、体調が悪いわけではなさそうだから、この件には触れないようにする。


 まぁ、女の子には男には分からない謎が一つ二つあった方が可愛いわけだけれども。




-肆-


 僕は反省すると共に、自己嫌悪に陥っていた。


 一緒に暮らしていると無頓着になりがちだが、実際にそれが起こってしまってからでは遅いのだ。



(ホント、こういう時に限ってって感じだよな……)



 全ては後の祭で、気持ちは後悔の渦の底である。



 コンコン。



「……はい?」



 小さなノックの音がした。



「お兄ちゃん? 入るよ」


「っ!? ちょっと待って!」



 座っていた椅子から転げ落ちそうになるぐらいに吃驚してしまう。


 よもや、自己嫌悪の原因となった本人が僕の部屋を訪れてくるとは思いもしなかった。



 ガチャ……。



「ごめん。お邪魔してもいいかな?」


「あー……う、うん」



 扉を少しだけ開け、隙間から顔を覗かせる。


 そのまま入って来なかったのは、恐らく僕が妙な顔をしていたからだろうと思うが、流石に十数分前のことを考えると平然としてはいられなかった。



「えっと……その、さっきはごめんなさい」


「待った。それは鈴が謝るところじゃないよ?」


「え」


「……あれはどう考えたって僕の方が悪い。何も考えないでああいうことをしてしまったんだから」



 漫画みたいな話だけれども、鈴に用事があった僕はいつもの調子で部屋を訪ね、ノックもせずに扉を開けると、其の先に着替えをしている鈴の姿があったわけで……。



「ごめん……」



 この件に関しては平謝りするしかない。


 気付いた時点で扉を閉じたけれども、立場に困って逃げ出してしまったのは失策だった。



(鈴が大声を出さなかったのが幸いだった……いや、それよりも鈴は平気なのか?)



 両親がこの事態を知ったら大目玉になっていただろうが、それ以前に気にするべきは鈴の方だ。



(年頃の女の子はこういうことに敏感だって聞くし、ショックを受けているかも知れない)



 そのぐらいは男の僕でも簡単に想像できる。



(それなのに逃げ出して自己嫌悪とか……情けない)



 あの時にノックしていればこういう悲劇は起こらなかったし、逃げ出す前に一言でも謝っておけば済んだのかも知れないわけで……。



「まぁ、私も鍵かけてなかったし――」


「それは関係ないよ。僕の不注意で鈴を男性不信にさせてしまったかも知れないんだから。本当に、反省している」



 ただ、どれだけ反省しても、その時に見えてしまった光景が記憶に焼きついて離れないのは仕方がないわけで……。


 鈴の身体の曲線、白い下着。


 ほんの一瞬だったというのに、僕の脳裏にその光景がシッカリと記憶されていた。



「……それじゃ、責任」


「え」



 少しの間を置いて、鈴がポツリと呟いた。



「お兄ちゃんがそう言ってくれるなら、責任を取ってもらおうかな」


「は?」


「だから、せ・き・に・ん☆」


「せ、責任って?」


「だって、下着姿を見られちゃったわけだし、私、もうお嫁に行けないよ……」


「な……」



 お嫁に行けないって……新手の脅迫かなのか!?



(ええっと、僕らは歴とした兄妹なんですけど……)



 どういう状況を指しての「責任」なのだろうか?



「お兄ちゃん、前に男に二言はないモノだって言っていたよね?」


「どうしてそういうことばかり覚えているかな……でも、下着姿を見られたら、お嫁に行けなくなるものなの?」


「それは単なる意識の差だよ。お兄ちゃんが女性の守っているモノを奪ったのは変わりないんだから」


「あ……」



(しまった……これじゃ、反省してないのと同じだ)



 迂闊な発言だったのは認めざるを得なかった。


 声にこそしなかったけれども、鈴に意識が薄いと怒られたような気がした。



(しかし、鈴の言う責任ってどんなモノだ?)



 要求するモノが全く分からなかった。


 一般的に「責任を取って」と言われて思いつくのは辞任とか結婚なわけだけど……。



「それで、責任は取ってくれるんでしょ?」


「う、うーん……その責任ってのが僕には想像できないんだけど、どうしたらいいの?」



 本当にどうした良いのか分からなくなって、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。



(兄妹間で責任を取って結婚……は法的にも無理があるしなぁ)



「あはは。そんなの気にしすぎだよ」


「え」



 七面相しながら悩んでいると、鈴が不意に楽しそうな笑顔を浮かべた。



「お兄ちゃんは真面目だね……大丈夫。私はちゃんとお嫁さんになれるもん」


「そりゃ、鈴に相手が居れば其奴と結婚するし、自動的にお嫁さんになれるだろうけど、今回に関しては僕の方に非があるわけだし、その責任ってどうしたら良いの?」



 そう。それが全く分からないから困っているのだ。


 冗談なら冗談で、パッと言ってくれればそれで済むことなのに、鈴はまだ何も言ってくれていない。



「うーん、そうだね……それじゃ、私がおばあちゃんになっても結婚してなかったら、お兄ちゃんがその責任を取る……これでどうかな?」


「む……」



 思わず返答に詰まった。


 この条件、状況によっては意外とハードルが高いのではないだろうか?



(……まぁ、お互いにそれ相応の歳になったら相手を見つけているだろうけど)



 少なくとも、僕は鈴より先に結婚できないというのが確定されてしまったわけで……。



「それに一つ屋根の下で何年も暮らしているんだもん。些細なことなら、私は気にしないよ?」


「……そうか」



 確かに、色々と考えすぎていたところはあったかも知れない。



(僕は女性との交流の幅が狭い上に、得た知識は学校で教えてもらったモノだからなぁ……)



「でも、私はお兄ちゃんのそういう優しいところ、好きだよ」


「え」



 唐突に出て来た単語にドキッとしてしまう。



「お兄ちゃんみたいに優しいヒトが居るって思えるから、私は男性不信にはならないよ」



(要約すると、余程のことがない限りは深く考えなくても良いってことか)



「ふふ、ありがとうね。お兄ちゃん」


「あ、ああ……」



 嬉しそうに、鈴。


 そのまま微笑みを向けられた僕としては、どんな表情をしたら良いのか分からなくなってしまう。



(ああもう! 何だってあんなに嬉しそうにするんだっ、そういうのは卑怯だぞ!)



 そう……ほんの一瞬だったけれど、僕は確かに鈴に見惚れていた。


 実の妹だというのに……もしかしたら僕にはシスコンの節があるのかも知れない……。

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