第3話
「…………おい、なんだこれは。」
是非見て欲しいものがあるとお連れした先で、世界のヴァイオリニスト様は呆然と固まった。
小さな映画館の座席にいるのは子供、子供、子供。
上映前できゃっきゃとはしゃぐ子供達に、まぁわかってはいたけれど彼の機嫌は急転直下に落ちていく。
「おい、シー!なぜ俺がこんな所に、むぐっ」
「ちょ、声が大きいです。注目浴びちゃうじゃないですか。」
慌てて背伸びして彼の口元を押さえたが、先程からチラチラと親子連れの痛々しい視線が向けられていて、僕は目の前の彼にも、周りのヒソヒソ声と視線にも、苦笑いでこたえるしかなかった。
スタジオからほど近い都内にある小さな映画館。平日の昼間であるにも関わらず、客席は小さな子供を連れた親子でわりと賑わっていた。
僕達はそんなお子様達に邪魔にならないようにと後ろの隅の方の席をとり、コーラとチュロスで多少のご機嫌を取りつつとりあえずグリーンフィールドさんに着席してもらうことに成功した。
「あ、隣の席もとってますからヴァイオリン置いてもらって大丈夫ですよ。」
「いや、これは、」
「念の為その隣の席も押さえてありますから、手の届く範囲には誰も来ないはずです。」
「……、」
じと、と向けられた視線。そこまで気を使えるならそもそもなぜこんな所に連れてきたのかと、その視線は明らかに説明を求めていた。
調べてみたら次の上映時間まで余裕がなかったので、説明のないままここまでグリーンフィールドさんを引っ張ってきてしまったけど、彼が不機嫌になるのは十分すぎるほど理解出来る。
子供向けのアニメ映画。平日昼間に大の大人を、しかも日本語を理解できないアメリカ人を連れてくるようなところではない。
でもどうしてもここに連れて来たかったんだ。だって彼は、オリヴァー・グリーンフィールドだから。
上映を知らせるブザーがなり、室内の照明が落とされる。説明をしている時間はやはりないみたいだ。
「と、とにかくこの映画を観て……いえ、聴いて欲しいんです。」
手短にそれだけ告げれば、訝しげに細められていたオーシャンブルーがほんの少しだけ見開かれる。
「……いいだろう。」
ふん、と不機嫌に鼻を鳴らして座席に先程までよりも深く腰かける。
手渡したコーラ片手に口元をへの字に曲げながらも真っ直ぐ前を向いたグリーンフィールドさんに一安心して、僕もスクリーンに視線を向ける。
『トモダチ とくべつ
もう何度となくスクリーンで、自宅のDVDで観てきたけれど、僕は何度だってこの冒頭シーンから胸が熱くなる。
緑溢れる里山の美しいアニメーションがスクリーンに広がる。遠くから鳥の鳴き声が聞こえて、川のせせらぎが聞こえて。
そこに、緩やかに流れてくるピアノの音。
それ自体が景色の一部のように映像に溶け込む音は、一瞬にして人々の心に行ったこともない田舎の集落への懐かしさを感じさせる。
無意識のうちにきゅっと拳を握りしめていた。
ああ、やっぱり何度聴いてもこの音は僕の胸を揺さぶる。
「……sikiか。」
独り言のようにぽつりと漏らされたそれに、僕は頷いた。
「五年前、初めてにして全曲を監督した音楽家sikiのデビュー作です。今年の夏に続編が出ることが決まって、リバイバル上映されているんですよ。」
どこか懐かしい音楽が人々をスクリーンの向こうの世界へ引き込む。
「いつかの夏」と題されたニ長調の旋律。目を閉じていても夏の太陽が降り注ぐ田舎の風景が見えてくる。 揺れる雑木林に風を感じ、川のせせらぎにひとときの涼を感じる。あぜ道を元気に走る子供の息遣いすら聞こえてきそうだった。 音を聞いているはずなのに、脳裏には風景画のように景色が浮かぶ。
優しい音が身体に吸い込まれるように入ってきて、内から心臓を優しく震わせる。
「……この曲、sikiとしてデビューする直前、六年前に作られたものなんです。当時
「ふん、……やっぱりあいつは化け物だな。」
衝撃だった。こんな曲を、こんな演奏をする人がこの世に存在するのかと。
だから、僕はこの曲を売り込んだ。事務員として入社したばかりの新入社員だったくせに、この曲を世に知って欲しくて各所に勝手に送り付けた。
その結果アニメーション映画の制作会社の目にとまり、sikiのデビュー作と僕がマネージャーとして色さんにつくことが決まった。そんな、僕にとっては人生を変えた曲だ。
「凄い人なんですよ。自分の作った曲を、自分で演奏して最高の音を作っちゃうんです。自分の書いた楽譜は自分が一番よく分かってるからって。」
スクリーンでは里山の美しい景色から、川ではしゃぐ姉妹たちに視点が移っていた。
楽しそうに水をかけ合う幼い少女達に誰もが集中している中、僕は隣に座る存在に真っ直ぐ向き直る。
「初めて、なんですよ。演奏を他人に譲るの。あいつなら俺よりいい音出すだろって。」
「……、」
オリヴァー・グリーンフィールド。あの色さんが認めたヴァイオリニスト。
彼にはどうしてもこの音を聴いて欲しかった。
どんな仕事でも決して手は抜かない。sikiの音楽にかける想いとその作品は聴いてもらえば伝わるはずだから。
「……ふん。」
彼はかけていたサングラスを外し、不機嫌に口元をへの字に曲げたまま真っ直ぐスクリーンを見つめつづけた。
「……相手がsikiでなかったら、オファーを受けたりしなかったさ。」
ぽつりと漏れ聞こえた言葉は、プライドの高い彼のことだ、聞こえなかった振りをした方がいいんだろう。
だから僕は何も言わず、何も聞かず、スクリーンに視線を戻して何度も見たストーリーに向き直る。
そうしてセリフとストーリーを大まかに英訳しながら、大の大人二人は一時間と少しの間、子供達に混ざって映画館に響き渡る音に耳を傾けていた。
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