銀霞玲穹(ソアレ・アリアス)

伊島糸雨

銀霞玲穹《ソアレ・アリアス》


 すべて頭に入っている、と彼女は言った。

 窓辺に位置する卓の上を、木々から零れた薄日が照らしている。俯く顔は使い古された茶器の中で静かに歪み、光の内には埃が浮かぶ。すべて頭に入っているんだ、とヴァナシー・スヅェークは言う。「今の私なら、メラウの夢を実現できる」譫言うわごとじみた言葉は真実を巧みに隠している。あるいはそのように見せている。白昼の幻のように。

「私が何のためにここに来たか、わかる?」

 そう言って、私は彼女の指を見つめる。右手薬指の輝きは、青の玲穹ソアレを嵌め込んだ、螺薔紋ガスヘック欺金ユォアレ指輪タヴヅィム銀霞サノン・アリア信仰に拠る、負垓世リザクォン由来の契約遺物。二十年前、それが嵌められる様を私はこの目で捉えている。時は遠く、けれど記憶はいつまでもここにこびりつき、私たちの心臓を掴み続ける。

 形が円をなすのなら、中心には自ずと糸が引かれるだろう。魔呪コニォスの基本は構造と想像であり、関係という不可視の線もまた、そのようにして意味を得る。

 これは、そういう類の呪いだった。

「わかっている。わかっているよ」

 ヴァナシーは水面を見下ろしている。まるで、現在を説明し得るすべての事象が、鏡の奥にあるかのように。説明も了解も能わない神秘的な真理の皮膜が、瞳の中へと写るように。

 非存在を発見すること。現前しないあらゆる可能性を検討すること。可不可の境界を超えて、大地に神話を宿すこと。かつて標榜されたそんな言葉が、静寂の館に木霊している。訣別から再会に至るまで、運命が交わることは二度とないと思ってきた。死の淵に至ってもなお、名を耳にすることさえ、ないはずだった。

 しかし、私はここに来た。来てしまった。

 晳翳サナムガル多層森林の中央に建造された、巫脈ヨムォラの館。かつて理想を共にした、旧友の元へ。

 私にはそれが、かつてメラウに予見された運命なのか、判別がつかない。

 宵曙国キトェズ・ミトアは今も変わることがない。その大地に黄昏を秘め、悠久の時を緩慢に、一切の生死に痛むことなく歩みは進む。私は薄く目蓋を開く。風を覚え、空を嗅ぎ、大地の音に耳を澄ませる。

 そして気がつくと、どこかに残滓を探している。自ら建てた塔の合間に、忘れ去られた墓標の上に。

 ここではないどこかへ繋がる色を。

 メラウ・ロルシュが姿を消し、ヴァナシー・スヅェークを呪い続けた、遥かな神話へ至る道を。



 もしも語ることが許されるなら、私はあの輝かしい季節を想いたい。何もない私に形をくれた、穏やかな狂熱に満ちた日々のこと。自らの意志さえ曖昧な、恍惚で覆われた時間のことを。

 宵曙国キトェズ・ミトアに住まうすべての人は、十代になると同時に、以降の六年間を巫師学徒ケデト・ヨムランとして過ごすことが決まっている。「人民は良き巫師ヨムランであれ」昔々に円紋教会ヅィムヘックが唱えたそんな言葉が、人々を魔呪コニォスと結びつけていた。

 地方の街で薬屋の娘として生まれた私もまた、魔呪学校ロゥ・コニォスの分校で巫師ヨムランとしての基礎を学んだ。同年代の子の将来設計は様々だった。魔呪技術者ミエラ・コニォスを目指し進学する者、円紋教会ヅィムヘック術理執行官ニトラ・ニネルを志す者、国家機関で研究者となることを夢見る者……。未来が白紙であるが故の、自身の能力に対するわずかな驕り。そんなありふれた認識こそが、輝かしい未来を思い描かせるに違いなく──けれど一方で、願われたことのほとんどは、現実の前に敗北するだろうという予感があった。何でもない大人になり、何でもないまま死んでいく。やりたいことなど何もなく、だからこそ私は自分が〝何でもない〟側であると信じていた。

 五年生になって首都環燁アルガヅィムの本校で寮生活をするようになり、専門を選ぶようになっても、私は変わらなかった。選択した遺呪還元力学ミネア・クォノヅィムは、大地に埋蔵された負垓呪リザクォスを資源として再利用することを目的とした領域で、言ってしまえば当時流行りの研究だった。

 だから、六年生の時、卒業試験を兼ねた多領域共同研究の段になって、私はすっかり困ってしまった。学んだことは頭にある。言われたことはだいたいできる。けれどそこから先など想像もつかなかったし、ましてや協力者のあてなどあるはずもない。寮の中庭にある長椅子に腰掛けて、吹き抜けから覗く空を眺めていた。一面の青には時折薄い雲が混じり、緩く流れる様に自分を重ねた。「困ったな」と呟いた気がする。草を踏み分ける音がしたのは、ちょうどそのあたりだった。

「あとひとり、遺呪還元力学ミネア・クォノヅィムに詳しい人を探してるんだけど、どう?」

 まるで、瞳に空を飼うようだった。凍えるほどの青い眼差しに、私は心を奪われる。

 薄紅色をした淡息晶ノウォン・サナレの花弁が風に舞う、美しい愛節ヨマティンのことだった。


 メラウ・ロルシュ。詹歳学ネレオン教室の鬼才。星霊アレリ・エツィオスの一種である茲霊パデュ・エツィオスと交信し、現世における未来図を得る徨澪術エツォラの継承者。専門がかけ離れているだけに交流の機会は一度もなかったが、噂だけならいくでも耳に届いた。純粋な賞賛から、怪しげなものまで。ひとりで何かを呟いているのを見た、というのも度々聞いたが、自身には遠いものとして気に留めてもいなかった。そんな彼女が私に声をかけたのは、単に人材不足が原因であるようだった。「なんでか避けられちゃって」不可解という風に肩を竦めてみせたが、わかってやっているとしか思えなかった。

 あとひとり、の言葉通り、彼女には既に協力者がいた。その人物は、メラウと共に研究室へと入ってきた私を何とも味わい深い表情でじっと見てから、歯切れ悪く名前を言った。

「……ヴァナシー・スヅェーク。よろしく」

 ヴァナシーは当時からメラウの熱烈な信奉者だった。ゆえに、自分たちの関係が変化する可能性を前にして、色々と思うところがあったのだろう。メラウに対する距離感と対照的に、彼女は最後まで私との心的距離を一定以上に保ち続けた。

銀霞篇サノン・アリアを現実にしたいの。神々の楽園コヌル・アビムを、ね」

 メラウはまず手始めにそう言った。名前には聞き覚えがあった。宵曙国キトェズ・ミトアに生まれた人なら誰でも知っている、負垓世リザクォンの神話にまつわる叙事詩。輝ける星の海、そらの天蓋より滴り落ちた銀霞サノン・アリアと呼ばれる魔女神が、大地を育て神々の母となり、種々の神秘を振り撒きながら、魔呪コニォスの原型をかたちづくる。神々と人間は彼女の寵愛を得んがために、都市をつくり、闘争し、贄を捧げ、最中さなかに数多の遺物が生まれていく。しかしやがて、銀霞サノン・アリアは一切を語ることなく星の海へと還ってしまう。神と人は悲嘆に暮れながらも、争う理由を失って、調和の道を歩み始める。

 その大地を、現実の層に上書きする。彼女が掲げたのは、そんな馬鹿げた空想だった。

 荒唐無稽で、実現の可能性など見当もつかない。けれど、彼女はきっと、私たちとは違うのだろうと思わされた。彼女の空の瞳は〝ここではないどこか〟へと繋がっているようで、何でもない私を導いてくれる気がしていた。

 大地を平面と仮定して、とメラウは言った。大判の地図を卓に広げ、指で示して先を続ける。

「これが今現在の宵曙国キトェズ・ミトア。ここに神々の楽園コヌル・アビムの情報を重ねるには、必要なものが三つある」

 右手を広げ、順に指を折っていく。「術式ニネア宵曙国キトェズ・ミトアの詳細な地理情報、それから、莫大な巫力ヨモネア

術式ニネアの方は私にあてがある。地理情報に関しては、ヴァナシーがやってくれる。彼女は嵌匣論ファスク・ベスティン教室で究冥術キトゥミナエ終析術ユェゾニトアを修めていてね。負垓世考古学ウォヌル・リザクォンの新鋭、って言われてるくらい優秀なの」

 ヴァナシーに視線を向けると、 照れを隠すように前髪を弄るのが目に入った。嵌匣論ファスク・ベスティンといえば、構造の異なる複数の魔術を組み合わせて運用することを目的とした、基礎魔呪学アデル・コニォスの比較的新しい潮流だ。最初に声がかかった以上、彼女もまた、メラウと同じか、それに準ずる種の人間なのだろう。

「その上で、貴女にお願いしたいのは、巫力ヨモネアの供給方法。これを考えて欲しい」

「考えるって言ったって……」

 困惑を表情に込めると、彼女は「安心して」と笑って言った。「別に持続可能な資源として活用したいわけじゃないし、研究の上で可能性を提示できればいいだけだから」

「でたらめでもいいと?」

「極論は、ね」

 私はしばし思案してから、「まぁ、それなら」と彼女の要望を受諾した。幸い、知識は頭に入っている。どうあれ研究発表をしないことには卒業もできないのだから、ここで踏ん張ってみるのも悪くない気がした。

「決まりね。それじゃ、改めて」

 前に出された右手の意図が読めずに固まっていると、ヴァナシーが脇から飛んできて手を乗せた。私はそこで意味を悟って、もう一段右手を上に重ねる。

「我ら、白紙の未来のために」


 六年生になると、時間のほとんどを研究に費やせることもあって、私たちは毎日のように研究室へと集まった。自身の課題についてメラウは余裕綽々で、問題はヴァナシーと私にあった。

 メラウの計画を実現するには、術式ニネアの使用と地理情報の取得、巫力ヨモネア励起の起点を、最終的にひとりで担う必要がある。とはいえ、それでは人間の限界に敗北することは必至であったので、術式ニネアは外部化、巫力ヨモネアは時間をかけて大地に細工を施し負担を減らす方向で合意した。私が考えるべきは細工方法で、ヴァナシーの方は、人間の頭にいかに情報を詰め込むかを考えることになった。

 究冥術キトゥミナエは本来、自身の頭を中心に球状の探知圏を形成して、範囲内にある魔呪コニォス反応を受信することで周囲の状況を把握する。問題は要求される範囲の広さで、観測中は基準になる頭部を動かせないこともあり、仮に国中を歩き回るとしても、山岳地帯や高濃度魔呪沈積地帯などの危険な場所は記録できない可能性が高かった。

「加えて、これを終析術ユェゾニトアですべて記憶するとなると、従来の小容量回分処理じゃ間に合わない。探知で得た情報を圧縮した上で、究冥術キトゥミナエ終析術ユェゾニトアを逐次処理で繋ぎながら同時に実行する、新しい嵌匣式ベスティンデルを考案する必要がある」

「観測範囲の方は?」

「……考えがないわけじゃない。あまりにも時間がかかるし、そんなことやり遂げられる人、いないとは思うけど」

 ヴァナシーは顎に手を当て、地図を見下ろしたままそう言った。限りなく無理難題に近い内容だが、様子を見る限り、理屈の上ではどうにかなるようだ。

「そっちはどうなの。巫力ヨモネアを供給できないことには、始まらないんだけど」

 挑発的な言葉に私は同じく地図を見つめて「まだ、なんとも。ひとまずは、わかっていることを整理しないと」色付きの留針を手に取った。

 負垓世リザクォンの遺物は各地に散らばっているものの、ある程度は銀霞篇サノン・アリアに描かれた今はなき神々の都市に集中している。その内、最も身近な場所は、魔呪学校ロゥ・コニォス本校のある宵曙国キトェズ・ミトアの首都、環燁アルガヅィムだった。

「西部最大の巫力源ヨモネアーデとなり得るのが、ここ。銀霞篇サノン・アリアを元に他も示すと、同程度の間隔で都市とか遺構が配置されてる。だから、たぶん……私の考えの及ぶ限りでは、この辺りを活用するのがいいんじゃないかな」

「埋蔵量だけなら他にも候補はあるんじゃないの?」

 ヴァナシーの疑問は最もだった。私は頷き、「山岳地帯とか湖沼地帯とか、森林には。ただ、励起して使うための〝筋〟のことを考えると、道が整備されてる区間の方が効率はいいと思う……」

 どうかな、と傍らでやり取りを眺めるばかりだったメラウに訊ねると、彼女は満足げに首肯した。「うん。いいね、ふたりとも、すごくいい。それでいこう」

 当面の目標設定を済ませた後は、ひとりで試行錯誤する時間が続く。ヴァナシーが新規の嵌匣式ベスティンデルを構築し、私が地図上における巫力源ヨモネアーデの接続と還元貯蓄方法を模索する間に、メラウは何度か「しばらく出かけてくる」と私たちの前から姿を消した。戻ってくる時も特段変わったことはなく、「進捗はどう?」と手元を覗き込んでは悪戯っぽく笑みを浮かべた。

 メラウがそんな調子であるせいか、ヴァナシーは私に対抗意識を燃やしていて、卒業とメラウ以外に明確な目的意識のない私とは対照的だった。結局、ヴァナシーは私より早くに、ひとつ目の課題を達成した。なんでも、究冥術キトゥミナエで獲得した情報を終析術ユェゾニトアで逐次処理する際に、独自の圧縮言語を使用することで情報単位を縮小し、記憶可能量を増加させるのだという。メラウに向けた魔呪コニォスの機序解説を傍で聞いていたが、何を言っているのかはさっぱりだった。

 それから一週間後には、私も地図上へと答えを出すに至っていた。当初は環燁アルガヅィムを起点に線を引くことに囚われて、都市ごとの接続を何度も繋ぎ直していたが、それでは結局のところ、同時励起に伴う魔呪コニォス的な相互作用と巫力ヨモネアの増大を導く点で失敗してしまう。全体を暗記するほど地図と睨み合った挙句、契機となったのは奇しくもヴァナシーが最初に言ったことだった。

 ──埋蔵量だけなら他にも候補はあるんじゃないの?

 最終的に辻褄が合えば良いのなら、新たに候補地を出せば良い。私はふたりを前にして、改めて留針を落としていく。初めは環燁アルガヅィムに、そこからは宵曙国キトェズ・ミトアの外周に沿って、現存する都市や遺構へ印をつける。糸で結ぶと、ひとつの楕円ができあがる。

「──なるほどね。これはなかなか」

 私は最後に、歪んだ円の中心へと留針を打ち、各都市と放射状に糸で繋ぐ。記された名前を、ヴァナシーが口にする。

晳翳サナムガル、多層森林……」

 都市間に道があり、それが円をなすのなら、心臓に置かれた点には自然と線が引かれるだろう。

 私の案は、そんな単純な代物だった。

「これが過去に提案されてこなかったのは、あまりに馬鹿馬鹿しくて、価値がなかったから。持続可能性もすべて無視して、一瞬のために負垓呪リザクォスを絞り尽くすことにしか使えないし、そこに投資なんてできるはずもない。でも、これならどうにか、必要な巫力ヨモネアを確保できる」

 最後の最後、自信が揺らいで「……はず」と後付けた。当然ながら、準備には相応の時間と労力が要る。晳翳サナムガル多層森林に巫脈ヨムォラの拠点を作るだけでなく、負垓呪リザクォスの抽出還元機構開発と各都市への配備もしなければならない。それでも、可能性であれば示すことはできる。

「思ったとおり」

 メラウは柔く微笑んでいる。視線が絡む。その眩く冷たい色がどこを見つめているのか、私はどうしても理解ができない。「これなら発表もできそうだね。よかった、よかった──」

 ひと区切り、と思ったのも束の間、私たちは次の課題へと移っていく。ヴァナシーは既に用意があるようで、実験のため、と称して研究室を空ける日が続いた。メラウも相変わらずふらふらしており、私はしばしの間、ひとりで黙々と図面を引いたり模型をつくったりして過ごすことになった。

 メラウから外出の誘いを受けたのは、そんな時期のことだった。出会いの愛節ヨマティンから季節は巡り、猛る愾節へべネアを過ぎて穏やかな寧節ノワリィへと移ろっていた。

 どうせ研究の話だろうと、学衣ケデュレに外衣を羽織って指定の場所へと足を運ぶ。環燁アルガヅィムは中央に聳える城を軸に円を重ねた構造をとり、往来のそちこちで人と魔呪コニォスの利器が蠢いていた。石畳の広場には折り重なる噴水の白が覗く。飛沫の煌めく頂には、銀霞サノン・アリアの彫刻が空へと向けて手を伸ばし、ちょうど正面となる外縁部に、私服のメラウがぼんやりと腰掛けていた。

 近づくにつれて、口の微かな動きがわかる。前に立つと、今気づいたという風に顔を上げて「いらっしゃい」と目を細めた。

 右手の薬指には、初めて目にする捻れた指輪。

「今日は、未来の話をしておきたくて」

 メラウに促され、隣へと腰を下ろす。彼女は私を上から下へと眺めてから「それが貴女のいいところだね」と言った。確かに、ヴァナシーなら精一杯のおめかしをして出かけるところだ。メラウの淑やかな装いを見て場違いだったかと思ったが、彼女にとっては加点要素であったらしい。

「それで、未来の話って」

 思考を元の位置へ戻しながら私は訊ねた。メラウは頷いて、質問を返す。

「貴女は、徨澪術エツォラについてどのくらい知ってる?」

「まぁ、噂で耳にする程度なら」

 詹歳学ネレオン星霊アレリ・エツィオス茲霊パデュ・エツィオス、未来視。又聞き程度の説明に「概ね合ってはいるね」と彼女は言った。「詹歳学ネレオンは言葉の通り〝時間を視る〟ことに軸を置いていてね。中でも、徨澪術エツォラは時間が線形ではない霊を介して間接的に構図を知るの。特定の一点ではなく、一定の期間を有した、歴史としての階調を」

 つまりは設計図ね、とメラウが言う。未来へと至る過程を記した特別な図面。通常、この認知は不明瞭な点が多くを占めるが、彼女はより高い解像度で全体を捉えることが可能だという。

「なら、私たちのことも?」

 彼女は首を振って否定する。「貴女たちのことは、運命、と呼んでおきたいかな」

「答えになってないよ」

「そうかな?」

 くすくすと声を漏らす様を見ると、もう何も追及する気にはならなかった。今はただ、静観する他にない。

 代わりに、私はこれまで疑問だったいくつかのことについて質問をすることにした。こんな機会は滅多にない。彼女がどこを見つめているのか、少しでいいから知りたいと思った。

「ひとりで喋ってるのは、茲霊パデュ・エツィオスと話してる時?」

「そうだね。彼ら──彼女たちは、時とか場所を選ばないから。私から干渉する時もあるけど、向こうから語りかけてくることの方が多いかな」

「内容は?」

 前に伸ばされた足が石畳を打つ。彼女は快く答えてくれる。「色々だよ。時間の形に囚われないから、未来のことも過去のことも、その距離に関わらずね。たいていは私の周りの事象だけど、それ以外の時もある」

 それを聞いて、私は思わず、赤子のように繰り返す。

 未来のことも、過去のことも。

「うん、視える」こともなげにメラウは言う。「詹歳学ネレオンにおいて未来の把握だけが取り上げられるのは、今の人にとって重要なことがそこに集約されているからだよね。過去は変えられない。だから未来をこそ変えていきたい、って。それも理解はできるけれど、一方で私はこうも思うの。過去は未来よりもずっと、人の運命に干渉できる、って」

 そして、後背に佇む女神のように、右手を高く天に掲げる。遠い城の尖塔と空の青、陽光を透かして浮かび上がったその指輪は、銀霞サノン・アリアを讃える青の玲穹ソアレ螺薔紋ガスヘック

 私はそこに、ささやかな神話を幻視する。

 昔々、とメラウは語る。昔々、あるところに。

「ひとりの、なんてことない女の子がおりました。過去は短く未来は遠く、毎日が平凡で、けれど小さな幸福に満ちていました。物心がついてしばらくすると、女の子は自分だけ不思議なものが見えることに気づきます。女の子が〝それ〟と無邪気に戯れる日々を過ごすうちに、〝それ〟は語りかけてくるようになりました。女の子が知らないできごとを、見たことがない景色のことを。そんなある日、女の子は過去ゆめを見ました。それは、大いなる存在に焦がれ続け、終ぞ手を伸ばすことさえ能わなかった、人の生涯でした。その人は自らの持てるすべてを賭して、決して壊れることのない、永遠の色を宿した契約の指輪をつくりましたが、捧げる相手はもうどこにもいないのでした。目が覚めると、手には夢に見た指輪が握られていました。奇妙な術式ニネアの込められた、冴え渡る青の輝く、捻れた植物を模した指輪が」

 世界は途切れ、広場の喧騒が耳に戻る。かつて凡庸な女の子だったメラウ・ロルシュは言う。

「これが、私が抱いてしまった、切なる願いのろい

 メラウ。私はその名を口にしている。私は今こそ、訊ねずにはいられなかった。貴女は、いったいどこまで行くつもりなの。

「ここではない、どこかへ」

 それが、すべての答えだった。どこまでも朗らかに、凛として──私たちになど、目もくれずに。

 自分がどうしようもなく呪われてしまったことに、ようやく気づく。私は言う。どうして私なの、と。彼女は答える。

「貴女がここに、学衣ケデュレを着て来る人だから」

 思えば最初から、役割分担は済んでいたのだろう。誰が何を背負い、どこへ向かうのか。結末のために要求される一切は、運命を騙って私たちの内奥に種を蒔いた。頭のどこかでわかっていたのに、それでもいいと選んでしまった。

 ヴァナシーは部屋に篭って究冥術キトゥミナエ終析術ユェゾニトアの応用を実験し、結果によって可能性を実証した。私は広場から見上げた城の塔に着想を得て、負垓呪リザクォス抽出還元機構を設計した。メラウは術式ニネアの調整を終え、指輪の譲渡を決定した。

 指輪は、私の目の前でヴァナシーの右手薬指へと嵌められた。宵を待つ黄昏の色、滲む空と落日の光が研究室を淡く染めていた。メラウは戸惑いと歓喜に表情を歪めた彼女に「よろしくね」と笑いかけ──それから私の方を向いて、口だけを動かした。不可視の霊と話すように。

 あとはよろしく。

 それが、最後に目にした、メラウ・ロルシュの姿だった。

 彼女は忽然と姿を消した。街中へ散歩に出る程度の身軽さで、友人の部屋を訪ねるくらいの気軽さで。世界のあらゆる場所から、痕跡を拭い去って。

 必死に探せたのは、最初の数日だけだった。ヴァナシーも誰も行方を知らないと言った。大通りを走り回り、ふと見上げた先の空があまりにも青々としていて──私はそこで、メラウに関する何もかもを、諦めることにした。

 乖節ロヒォスの終わり頃。寒風が大地を流れ、あかぎれた手には、血が滲んでいた。


 ヴァナシーは動けなくなった。指輪を外せなくなり、疑念と妄執が辛うじて彼女を繋ぎ止めていた。まず私が疑われ、魔呪コニォスで殺し合う寸前になって、彼女が先にくずおれた。どうして、という声が背を向けても耳に届いた。彼女も呪われたのだと思った。メラウから聞いたことは、最後まで話すことができなかった。

 私は居心地の良かった研究室を抜け、負垓呪リザクォス抽出還元機構の構想を手土産に遺呪還元力学ミネア・クォノヅィムの研究室へと移籍した。ヴァナシーは学校を去り、その後のことは噂にもならなかった。愛節ヨマティンが来て、発表を終え、私は推薦を受けて国立研究所で遺呪還元力学ミネア・クォノヅィムの研究者となる道を選んだ。確かに、私の、自分の意志で。

 選んだはずだった。

 なのに、二十年後の世界では、あの日語り合った塔の群れが、主要なすべての都市に聳え立っていた。負垓世リザクォンの遺物から負垓呪リザクォスを抽出し、巫力ヨモネアへと還元する、あの装置が。環燁アルガヅィムの城と並び立ち、楕円の透鏡スォナエを側面に備えて淡い冷光を放ち続ける、あの尖塔が。

 それはまさしく、かつて私たちが共有していた、メラウの色彩そのものだった。現実のものとは思えない、どこまでも遠い青の瞳。私が考えたことだった。しかし今となっては、それすらも疑わしい。

 銀霞篇サノン・アリア神々の楽園コヌル・アビムそらより降りた魔呪コニォスの始祖は、ただ存在のみによって、遍く意志を運命の輪へと取り込んだ。メラウが銀霞サノン・アリアに焦がれたように、私たちにとっては彼女こそが女神だった。逃れ得ない呪いを刻み、ひとり〝ここではないどこか〟へ消えていく。

 最後には自律駆動する未完の円だけが残される。糸は自ずと引かれ得る。ヴァナシーは諦めることさえ許されなかった。晳翳サナムガル多層森林に巫脈ヨムォラとなる館を築き、それ自体を〝頭〟として、少しずつ少しずつ、球状の領域を拡大していく。気が狂うほどの情報を、人間を棄てて処理し続ける。そんなことを、二十年間重ねてきたのだ。

 だから、私が館を訪れた時、彼女はほとんど動くことができなかった。日常生活のおよそすべては、年月の中で習得、あるいは開発した魔呪コニォスで賄われていた。

「私が何のためにここに来たか、わかる?」

「わかっている。わかっているよ」

 至って穏やかな声音で彼女は応える。弱り、痩せ細り、瞳は現在いまを写していない。かつての強気は見る影もなく、それは最早抜け殻と称するのが相応しかった。背後の刃を鞘にしまって手を伸ばす。骨の浮いた右手に触れる。指輪の凹凸をなぞりながら、あるいは、と私は思う。あるいはあの時、私たちは互いの傷を舐め合いながら、愚かで醜くとも、ふたりで生きていくことができたのではないか、と。メラウの肖像を抱えたまま、泥濘へと沈むように依存を重ね、まま死にゆく道があったのかもしれなかった、と。

 けれど、どうしても──そんな未来図は、思い描くことができなかったのだ。

「ねぇ、ヴァナシー」私は語りかける。「神々の楽園コヌル・アビムはきっと、今ここにある何よりも、美しい世界になるのでしょうね。これまで夢に見たどんな幻想よりも神秘的で、恍惚に満ちた世界。でも、銀霞サノン・アリアは、私たちのことを愛しはしない。私たちは、嘘つきだから」

 本当に求め続けたのは、メラウの描いた世界ではない。本当に愛したのは、見ず知らずの神々ではない。

「私たちはただ、メラウに会いたいだけだったんだ」

 そして、今度こそはこう言いたい。一緒にいて欲しい。そのために、あなたを大地ここへ磔にしたい。

 重ねた手の甲に雫が落ちる。メラウの向かった先があるとするなら、それは神々の楽園コヌル・アビムに他ならない。そう考えたからこそ、唯一残された手段に縋って、地を這いずりながら手を伸ばした。メラウの望んだ色を掲げ、己の無力の言い訳にして。

 茶器の中で水面は静かに凪いでいる。私はヴァナシーを見つめてから、ひと息にそれを飲み干した。

「我ら、白紙の未来のために」

 私は笑う。ヴァナシーも、きっと。

 選択の糸は私たちの手の中にある。呪いの終わりは数刻後か、数日後か。支度はすべて済んでいる。だから私は待つことにした。もしも運命というものがあるのなら、その到来を見届けたい。

 顔を上げる。窓を透かした先の景色に、光の塵の漣を見る。

 指輪が輝き、玲穹ソアレの青が満ちる。図上に結ばれた円の軌跡が、最後の点を描き出す。

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