銀霞玲穹(ソアレ・アリアス)
伊島糸雨
銀霞玲穹《ソアレ・アリアス》
すべて頭に入っている、と彼女は言った。
窓辺に位置する卓の上を、木々から零れた薄日が照らしている。俯く顔は使い古された茶器の中で静かに歪み、光の内には埃が浮かぶ。すべて頭に入っているんだ、とヴァナシー・スヅェークは言う。「今の私なら、メラウの夢を実現できる」
「私が何のためにここに来たか、わかる?」
そう言って、私は彼女の指を見つめる。右手薬指の輝きは、青の
形が円をなすのなら、中心には自ずと糸が引かれるだろう。
これは、そういう類の呪いだった。
「わかっている。わかっているよ」
ヴァナシーは水面を見下ろしている。まるで、現在を説明し得るすべての事象が、鏡の奥にあるかのように。説明も了解も能わない神秘的な真理の皮膜が、瞳の中へと写るように。
非存在を発見すること。現前しないあらゆる可能性を検討すること。可不可の境界を超えて、大地に神話を宿すこと。かつて標榜されたそんな言葉が、静寂の館に木霊している。訣別から再会に至るまで、運命が交わることは二度とないと思ってきた。死の淵に至ってもなお、名を耳にすることさえ、ないはずだった。
しかし、私はここに来た。来てしまった。
私にはそれが、かつてメラウに予見された運命なのか、判別がつかない。
そして気がつくと、どこかに残滓を探している。自ら建てた塔の合間に、忘れ去られた墓標の上に。
ここではないどこかへ繋がる色を。
メラウ・ロルシュが姿を消し、ヴァナシー・スヅェークを呪い続けた、遥かな神話へ至る道を。
もしも語ることが許されるなら、私はあの輝かしい季節を想いたい。何もない私に形をくれた、穏やかな狂熱に満ちた日々のこと。自らの意志さえ曖昧な、恍惚で覆われた時間のことを。
地方の街で薬屋の娘として生まれた私もまた、
五年生になって首都
だから、六年生の時、卒業試験を兼ねた多領域共同研究の段になって、私はすっかり困ってしまった。学んだことは頭にある。言われたことはだいたいできる。けれどそこから先など想像もつかなかったし、ましてや協力者のあてなどあるはずもない。寮の中庭にある長椅子に腰掛けて、吹き抜けから覗く空を眺めていた。一面の青には時折薄い雲が混じり、緩く流れる様に自分を重ねた。「困ったな」と呟いた気がする。草を踏み分ける音がしたのは、ちょうどそのあたりだった。
「あとひとり、
まるで、瞳に空を飼うようだった。凍えるほどの青い眼差しに、私は心を奪われる。
薄紅色をした
メラウ・ロルシュ。
あとひとり、の言葉通り、彼女には既に協力者がいた。その人物は、メラウと共に研究室へと入ってきた私を何とも味わい深い表情でじっと見てから、歯切れ悪く名前を言った。
「……ヴァナシー・スヅェーク。よろしく」
ヴァナシーは当時からメラウの熱烈な信奉者だった。ゆえに、自分たちの関係が変化する可能性を前にして、色々と思うところがあったのだろう。メラウに対する距離感と対照的に、彼女は最後まで私との心的距離を一定以上に保ち続けた。
「
メラウはまず手始めにそう言った。名前には聞き覚えがあった。
その大地を、現実の層に上書きする。彼女が掲げたのは、そんな馬鹿げた空想だった。
荒唐無稽で、実現の可能性など見当もつかない。けれど、彼女はきっと、私たちとは違うのだろうと思わされた。彼女の空の瞳は〝ここではないどこか〟へと繋がっているようで、何でもない私を導いてくれる気がしていた。
大地を平面と仮定して、とメラウは言った。大判の地図を卓に広げ、指で示して先を続ける。
「これが今現在の
右手を広げ、順に指を折っていく。「
「
ヴァナシーに視線を向けると、 照れを隠すように前髪を弄るのが目に入った。
「その上で、貴女にお願いしたいのは、
「考えるって言ったって……」
困惑を表情に込めると、彼女は「安心して」と笑って言った。「別に持続可能な資源として活用したいわけじゃないし、研究の上で可能性を提示できればいいだけだから」
「でたらめでもいいと?」
「極論は、ね」
私はしばし思案してから、「まぁ、それなら」と彼女の要望を受諾した。幸い、知識は頭に入っている。どうあれ研究発表をしないことには卒業もできないのだから、ここで踏ん張ってみるのも悪くない気がした。
「決まりね。それじゃ、改めて」
前に出された右手の意図が読めずに固まっていると、ヴァナシーが脇から飛んできて手を乗せた。私はそこで意味を悟って、もう一段右手を上に重ねる。
「我ら、白紙の未来のために」
六年生になると、時間のほとんどを研究に費やせることもあって、私たちは毎日のように研究室へと集まった。自身の課題についてメラウは余裕綽々で、問題はヴァナシーと私にあった。
メラウの計画を実現するには、
「加えて、これを
「観測範囲の方は?」
「……考えがないわけじゃない。あまりにも時間がかかるし、そんなことやり遂げられる人、いないとは思うけど」
ヴァナシーは顎に手を当て、地図を見下ろしたままそう言った。限りなく無理難題に近い内容だが、様子を見る限り、理屈の上ではどうにかなるようだ。
「そっちはどうなの。
挑発的な言葉に私は同じく地図を見つめて「まだ、なんとも。ひとまずは、わかっていることを整理しないと」色付きの留針を手に取った。
「西部最大の
「埋蔵量だけなら他にも候補はあるんじゃないの?」
ヴァナシーの疑問は最もだった。私は頷き、「山岳地帯とか湖沼地帯とか、森林には。ただ、励起して使うための〝筋〟のことを考えると、道が整備されてる区間の方が効率はいいと思う……」
どうかな、と傍らでやり取りを眺めるばかりだったメラウに訊ねると、彼女は満足げに首肯した。「うん。いいね、ふたりとも、すごくいい。それでいこう」
当面の目標設定を済ませた後は、ひとりで試行錯誤する時間が続く。ヴァナシーが新規の
メラウがそんな調子であるせいか、ヴァナシーは私に対抗意識を燃やしていて、卒業とメラウ以外に明確な目的意識のない私とは対照的だった。結局、ヴァナシーは私より早くに、ひとつ目の課題を達成した。なんでも、
それから一週間後には、私も地図上へと答えを出すに至っていた。当初は
──埋蔵量だけなら他にも候補はあるんじゃないの?
最終的に辻褄が合えば良いのなら、新たに候補地を出せば良い。私はふたりを前にして、改めて留針を落としていく。初めは
「──なるほどね。これはなかなか」
私は最後に、歪んだ円の中心へと留針を打ち、各都市と放射状に糸で繋ぐ。記された名前を、ヴァナシーが口にする。
「
都市間に道があり、それが円をなすのなら、心臓に置かれた点には自然と線が引かれるだろう。
私の案は、そんな単純な代物だった。
「これが過去に提案されてこなかったのは、あまりに馬鹿馬鹿しくて、価値がなかったから。持続可能性もすべて無視して、一瞬のために
最後の最後、自信が揺らいで「……はず」と後付けた。当然ながら、準備には相応の時間と労力が要る。
「思ったとおり」
メラウは柔く微笑んでいる。視線が絡む。その眩く冷たい色がどこを見つめているのか、私はどうしても理解ができない。「これなら発表もできそうだね。よかった、よかった──」
ひと区切り、と思ったのも束の間、私たちは次の課題へと移っていく。ヴァナシーは既に用意があるようで、実験のため、と称して研究室を空ける日が続いた。メラウも相変わらずふらふらしており、私はしばしの間、ひとりで黙々と図面を引いたり模型をつくったりして過ごすことになった。
メラウから外出の誘いを受けたのは、そんな時期のことだった。出会いの
どうせ研究の話だろうと、
近づくにつれて、口の微かな動きがわかる。前に立つと、今気づいたという風に顔を上げて「いらっしゃい」と目を細めた。
右手の薬指には、初めて目にする捻れた指輪。
「今日は、未来の話をしておきたくて」
メラウに促され、隣へと腰を下ろす。彼女は私を上から下へと眺めてから「それが貴女のいいところだね」と言った。確かに、ヴァナシーなら精一杯のおめかしをして出かけるところだ。メラウの淑やかな装いを見て場違いだったかと思ったが、彼女にとっては加点要素であったらしい。
「それで、未来の話って」
思考を元の位置へ戻しながら私は訊ねた。メラウは頷いて、質問を返す。
「貴女は、
「まぁ、噂で耳にする程度なら」
つまりは設計図ね、とメラウが言う。未来へと至る過程を記した特別な図面。通常、この認知は不明瞭な点が多くを占めるが、彼女はより高い解像度で全体を捉えることが可能だという。
「なら、私たちのことも?」
彼女は首を振って否定する。「貴女たちのことは、運命、と呼んでおきたいかな」
「答えになってないよ」
「そうかな?」
くすくすと声を漏らす様を見ると、もう何も追及する気にはならなかった。今はただ、静観する他にない。
代わりに、私はこれまで疑問だったいくつかのことについて質問をすることにした。こんな機会は滅多にない。彼女がどこを見つめているのか、少しでいいから知りたいと思った。
「ひとりで喋ってるのは、
「そうだね。彼ら──彼女たちは、時とか場所を選ばないから。私から干渉する時もあるけど、向こうから語りかけてくることの方が多いかな」
「内容は?」
前に伸ばされた足が石畳を打つ。彼女は快く答えてくれる。「色々だよ。時間の形に囚われないから、未来のことも過去のことも、その距離に関わらずね。たいていは私の周りの事象だけど、それ以外の時もある」
それを聞いて、私は思わず、赤子のように繰り返す。
未来のことも、過去のことも。
「うん、視える」こともなげにメラウは言う。「
そして、後背に佇む女神のように、右手を高く天に掲げる。遠い城の尖塔と空の青、陽光を透かして浮かび上がったその指輪は、
私はそこに、ささやかな神話を幻視する。
昔々、とメラウは語る。昔々、あるところに。
「ひとりの、なんてことない女の子がおりました。過去は短く未来は遠く、毎日が平凡で、けれど小さな幸福に満ちていました。物心がついてしばらくすると、女の子は自分だけ不思議なものが見えることに気づきます。女の子が〝それ〟と無邪気に戯れる日々を過ごすうちに、〝それ〟は語りかけてくるようになりました。女の子が知らないできごとを、見たことがない景色のことを。そんなある日、女の子は
世界は途切れ、広場の喧騒が耳に戻る。かつて凡庸な女の子だったメラウ・ロルシュは言う。
「これが、私が抱いてしまった、切なる
メラウ。私はその名を口にしている。私は今こそ、訊ねずにはいられなかった。貴女は、いったいどこまで行くつもりなの。
「ここではない、どこかへ」
それが、すべての答えだった。どこまでも朗らかに、凛として──私たちになど、目もくれずに。
自分がどうしようもなく呪われてしまったことに、ようやく気づく。私は言う。どうして私なの、と。彼女は答える。
「貴女がここに、
思えば最初から、役割分担は済んでいたのだろう。誰が何を背負い、どこへ向かうのか。結末のために要求される一切は、運命を騙って私たちの内奥に種を蒔いた。頭のどこかでわかっていたのに、それでもいいと選んでしまった。
ヴァナシーは部屋に篭って
指輪は、私の目の前でヴァナシーの右手薬指へと嵌められた。宵を待つ黄昏の色、滲む空と落日の光が研究室を淡く染めていた。メラウは戸惑いと歓喜に表情を歪めた彼女に「よろしくね」と笑いかけ──それから私の方を向いて、口だけを動かした。不可視の霊と話すように。
あとはよろしく。
それが、最後に目にした、メラウ・ロルシュの姿だった。
彼女は忽然と姿を消した。街中へ散歩に出る程度の身軽さで、友人の部屋を訪ねるくらいの気軽さで。世界のあらゆる場所から、痕跡を拭い去って。
必死に探せたのは、最初の数日だけだった。ヴァナシーも誰も行方を知らないと言った。大通りを走り回り、ふと見上げた先の空があまりにも青々としていて──私はそこで、メラウに関する何もかもを、諦めることにした。
ヴァナシーは動けなくなった。指輪を外せなくなり、疑念と妄執が辛うじて彼女を繋ぎ止めていた。まず私が疑われ、
私は居心地の良かった研究室を抜け、
選んだはずだった。
なのに、二十年後の世界では、あの日語り合った塔の群れが、主要なすべての都市に聳え立っていた。
それはまさしく、かつて私たちが共有していた、メラウの色彩そのものだった。現実のものとは思えない、どこまでも遠い青の瞳。私が考えたことだった。しかし今となっては、それすらも疑わしい。
最後には自律駆動する未完の円だけが残される。糸は自ずと引かれ得る。ヴァナシーは諦めることさえ許されなかった。
だから、私が館を訪れた時、彼女はほとんど動くことができなかった。日常生活のおよそすべては、年月の中で習得、あるいは開発した
「私が何のためにここに来たか、わかる?」
「わかっている。わかっているよ」
至って穏やかな声音で彼女は応える。弱り、痩せ細り、瞳は
けれど、どうしても──そんな未来図は、思い描くことができなかったのだ。
「ねぇ、ヴァナシー」私は語りかける。「
本当に求め続けたのは、メラウの描いた世界ではない。本当に愛したのは、見ず知らずの神々ではない。
「私たちはただ、メラウに会いたいだけだったんだ」
そして、今度こそはこう言いたい。一緒にいて欲しい。そのために、あなたを
重ねた手の甲に雫が落ちる。メラウの向かった先があるとするなら、それは
茶器の中で水面は静かに凪いでいる。私はヴァナシーを見つめてから、ひと息にそれを飲み干した。
「我ら、白紙の未来のために」
私は笑う。ヴァナシーも、きっと。
選択の糸は私たちの手の中にある。呪いの終わりは数刻後か、数日後か。支度はすべて済んでいる。だから私は待つことにした。もしも運命というものがあるのなら、その到来を見届けたい。
顔を上げる。窓を透かした先の景色に、光の塵の漣を見る。
指輪が輝き、
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