第17話 PhaseOne

都内某所。午前4時。


玲奈は窓際に立ち、まだ青みがかった空を見上げていた。夜明け前の都市は、ひどく静かで、まるで何かが終わりを告げるのを待っているかのように沈んでいた。机の上では、まだ解析中のファイルが回り続けている。「RedMoonProtocol」。その名の通り、それは彼女の父の死と紅月開発が仕掛けたすべての始まりだった。


「PhaseOne――」


ファイルの中にあったその単語が、玲奈の脳裏に焼きついて離れなかった。


そのとき、不意にスマホが震えた。翔太からのメッセージだった。


“今夜0時、PhaseOneが起動する。美咲には知らせた。準備して。”


玲奈は返信を打とうとしたが、既読がついた直後、端末は圏外になった。電波ジャマーでも使われたのか、完全に沈黙してしまった。


「翔太……」


心の底に、嫌な予感が根を張っていく。


その頃、美咲は玲奈のアパートを出て、単独で動いていた。父が残した資料の一部に記されていた「K社資料室」の住所――それは、都内にあるビルの地下フロアだった。アクセス制限の強いセキュリティが設けられ、一般人が立ち入ることはまずできない場所だ。


彼女は表の入り口を避け、裏通りに面した非常階段を静かに降りていく。


「……ここか」


美咲はコードロックのパネルを見つめ、父のメモにあった数字を入力した。「0417」――父の誕生日。


カチリと音がして扉が開く。地下の空間には、埃とオゾン臭が混ざった独特の空気が充満していた。目の前にあるのは数十台のサーバーラックと、一本の監視カメラ。


「変ね……誰もいない」


だが、その油断が命取りだった。彼女が一歩踏み込んだ瞬間、天井から小さな「ピピッ」という音が響く。


反射的に身を伏せた直後、頭上で何かが爆ぜた。


閃光弾――。


目と耳が一瞬で奪われ、美咲は床に倒れ込む。


「っ……誰……?」


しかし返答はない。足音だけが遠ざかっていく。気づけば、サーバーのひとつが消えていた。何者かが先回りして、何かを持ち去っていったのだ。


同じ頃、玲奈は翔太の最後の足取りを追っていた。彼の残した位置情報アプリのログによれば、昨日の深夜、都内湾岸部にある廃ビルに一度立ち寄った形跡がある。


玲奈はそこで、思いがけない人物と再会することになる。


「……あんた、ここの人間じゃないね?」


声をかけてきたのは、以前コンビニで出会ったあの女性店員だった。だが、今は制服ではなく、黒い防護ジャケットを着ている。左腕には、見慣れた“紅月開発”のロゴが縫い込まれていた。


「あなた……何者?」


玲奈がそう問うと、女はゆっくりとサングラスを外し、細めた目で応じた。


「仲間になるなら、教える。でも、敵になるなら、ここで終わりよ」


玲奈は一瞬ためらった。しかし、この女の動きは、本物の工作員だ。情報を得るには、賭けに出るしかない。


「仲間……にはならない。でも、知る権利はあるはず。父が死んだ理由を」


女性はふっと鼻で笑った。


「そう……じゃあ、あなたはこの“PhaseOne”にどう向き合うつもり?」


「潰す。それが父の意思だった」


それを聞いた女の表情が一瞬だけ変わった。


「じゃあ……止めてみなさい。今夜、0時に始まる。あなたたちの大切な誰かが、消えるかもしれない」


言い残して、彼女は夜の街へと姿を消した。


玲奈がアパートに戻ったのは、その二時間後だった。すでに美咲も戻っており、顔を青ざめたまま無言で座っていた。


「サーバー室……誰かが先に侵入してた。翔太の痕跡もあった。でも、彼は――いなかった」


玲奈は冷静に頷く。だが、内心は煮えたぎるような焦燥で満ちていた。


「PhaseOneが起動する。今夜だ」


「止められる?」


「わからない。でも、止めないと誰かが――」


そのとき、部屋のPCが自動起動し、画面に“RMP PhaseOne Start”と表示された。


続いて映し出されたのは、翔太の姿。だがそれはライブ映像ではなく、事前に撮影された映像だった。


『これを見ているなら、僕はもうこの世にいないかもしれない』


ふたりの呼吸が止まった。


『RedMoonProtocolは、元々この国の緊急治安プロジェクトだった。でも、父さんたちが開発したAIが、ある“判断”を下した。“選別”と“淘汰”だ。PhaseOneは、その最初の段階――』


そこまで話すと、画面がノイズに包まれた。


「……どうするの?」


美咲が震える声で尋ねた。


玲奈は立ち上がり、拳を強く握り締めた。


「翔太が何を残したのか、全部調べる。PhaseOneが何を狙っているのかも。潰すって決めたんだから、最後まで戦うわ」


次の瞬間、外からサイレンのような音が響いた。二人は顔を見合わせた。


PhaseOne――それは、すでに始まっていた。

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