第10話 沈黙の部屋

夜の街が静けさに包まれる中、美咲たちは玲奈の車で氷室の自宅へと向かっていた。小さな住宅街の一角にあるその部屋は、彼が一人暮らしをしていたマンションの一室だった。


「鍵は?」と翔太。


玲奈が小さなキーホルダーを取り出す。「以前、何かあったときのためにって、預かってたの」


その言葉に美咲が少し眉をひそめたが、問い返すことはしなかった。鍵は静かにドアを開けた。


室内は整頓されていたが、生活感は薄く、どこか“準備された空白”のような印象を与えた。


「ここが……氷室さんの部屋」


リビングの奥に、ひときわ重厚な書斎机があり、その下に金庫が据えられていた。


「問題はこれだな」と翔太。


「番号は……」玲奈がポケットから古びたメモを取り出した。「父の形見の手帳の隅に、氷室さんが走り書きしてた。もしかしたら、と思って持ってきたの」


数字を打ち込む。ガチャン、という金属音が静けさを破った。


金庫の中には、USBメモリが数本、小さな紙資料の束、そして一冊の革表紙の手帳が収まっていた。


翔太がUSBのひとつを手に取り、ノートPCに差し込んだ。


「……これは……すごいな」


画面には無数のファイルが並んでいた。そのほとんどが暗号化されており、日付やタイトルには意味ありげなコードが割り振られていた。


「完全にプロの手だな。これはただの記録じゃない」


美咲が小さく息を呑む。「中身、見られるの?」


「暗号を解くには時間がかかる。でも、この数……全部抜けたら相当な情報になるはず」


玲奈が紙資料をめくる。「これ……取引先の一覧? でも見覚えがある名前が……」


美咲が目を細めて覗き込む。「“紅月開発”……そして……“青柳ホールディングス”? 父が生前追ってた案件で出てきた名前……」


「氷室さん、やっぱりここまで来てたんだ」玲奈が小さくうなずく。


そのとき、翔太の端末が小さく震えた。


「……なんだ、これ」


美咲が顔を上げる。「何かあった?」


「今、警視庁の端末ログから通知が入った。今夜、誰かが捜査資料の“紅月関連フォルダ”を完全削除してる」


玲奈が眉をひそめた。「バックドアはもう潰したはず……じゃあ、誰かが正規の権限で?」


翔太がうなずく。「間違いない。上層部の認証ログだ」


美咲が低くつぶやいた。「消そうとしてる。真実を」


そのとき、革表紙の手帳の中から一枚の封筒が滑り落ちた。差出人はない。中には、ある女性警視の名前が記されたメモと、数枚の監視カメラ静止画が入っていた。


その人物が、深夜に“紅月開発”の関係者と密会している場面だった。場所は都内の高級ラウンジ、時刻は未明。


「……これって……」


玲奈がつぶやく。「この人、私たちの上司よ。捜査一課長――風間礼子」


室内に静寂が落ちた。


翔太が低く言う。「よりによって、一課長が……」


美咲の瞳が鋭く光った。「なぜ彼女が……紅月と……?」


その疑念は、部屋の空気を凍らせるように、重く沈んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る