第37話
この曲はあまりにも難しすぎて。あのハンス・フォン・ビューローでさえ「最も難しい」と認めたほど。美しい曲には無数のトゲがあって。あたしは、その痛い部分に触れることすらできていない。
悲壮感漂うホール内。充満する潔い諦めの色。そして香り。それらはとてもとてもオーロールを芳しく刺激してくるもので。
「……なんてね、ごめんごめん。嘘嘘。そんな難しい曲を選ばないって。もっと一般的な知名度があって、実践的なものだよん」
発言を否定し、心のこもっていない謝罪。ただリアクションを見てみたかっただけ。気まぐれ。
「選ぶ……誰が?」
引っかかる部分があるイリナ。少し前に同じピアノ専攻であるカルメンが「ブランシュはどこに行き着く?」とこぼしていたことを思い出した。その時から、いや、それ以前からだったけども、この香水というもの。より注意深くなってきていた。
そもそもが、今にして思えば不自然なところはいくつもあった。もっと深く追求するべきだった。『なぜそんなに上手い?』とか。もう。聞くこともできないけど。
右手の人差し指を唇に当てるオーロールだが、どうやらこの子達は本当に善意で付き合ってくれていたことに感謝しつつ。
「秘密。私じゃないよ、私も困ってる側なんだから。一方的に押し付けられて」
本当なら今頃はパリにいないのに。無理やり来させたあの爺さんにも困ったもの。
「……」
たぶん、隠してることなどなにもないのだろう、とヴィズは確信に近い無言。本当に彼女ではなく、困っているのも、押し付けられたというのも本当。押し付けられた? あなたもそうなの、ブランシュ?
停滞した空気。さっさと切り払いたいもの。オーロールが口火を切る。
「いいからやろうか。そうだねー、サン=サーンス『死の舞踏』なんてどう? 弾けるんでしょ?」
「……! ……わざとか?」
なんだか拳を握ってしまったイリナだが、瞬時に緩める。しかしそれは、あの子との大事な曲。弾くこと自体は誰のものでもないのだがから問題はない。けども。その曲だけは。今は。
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