第24話

 二〇世紀の名チェリストであるパブロ・カザルスは、生徒へのレッスンにおいて、自身の成長を感じられない閉塞感を味わった場合に「基本に戻ろう」と伝えていた。だがそれは基本的な『技術』ではなく、音そのものを『聴く』という段階だったとのこと。


 弾き手ではなく、それ以前の聴き手として。原初への回帰。初めてプロという、その困難な旅路を選択した、それよりも前の記憶。その楽器に触れてみたいと思ったその瞬間の気持ちを。上手く、よりも今後『長く』続けられるために。


 パリ一七区サン・ラザール駅の近くにあるローム通り。音楽街、と呼ばれる音楽家の聖地。楽器店やヴァイオリン工房など、音楽に関する店が多く並び、特に楽譜専門店では普通では手に入らない古いものも置かれていたりと、一部の層の需要を今日も満たしている。


 パリ地方音楽院があり、さらに古くは国立高等音楽学校が所在していたこともあって、フランスのクラシック音楽というものに関しては非常に重要な地区でもある。


 その通りの店、ヴァイオリン専門店〈シンチェリタ〉。イタリア語で真心、を意味するこの店の内部は、アンティークな棚や壁に無数のヴァイオリンが飾られており、もちろんただのインテリアではなく、職人が真心を込めて作ったどれも自信作のみを販売する。


 もちろん修繕から改造からなにからなにまで行なっているのだが、多くはとある工房、ひいてはとある人物のヴァイオリンを取り扱っている。


「シンプルってのは、時に残酷だ。ヒントが少ない。どうとでも解釈できてしまう。だからこそ、長く語り継がれるのかもな」


 リシャール・ゼム。ヴァイオリンの修繕や制作において国家最優秀職人章、通称M.O.Fを持つ四〇代半ばの男は、イスに気だるげに腰掛けながら、遠くを見つめるような目で店内のヴァイオリンを眺めた。どれもこれも刻まれている、制作時の苦しみや完成時の喜び。それは今でもひとつひとつに宿っており、色褪せることはない。

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