第26話 川中島の戦い
場所:日本信濃国川中島(現:長野市)
結果:双方が勝利を主張
ただし、川中島地方は武田の勢力下に入る
交戦勢力
武田軍 VS上杉軍
✝は戦死者
武田軍
武田信玄
武田信繁 †
武田義信
諸角虎定 †
山本勘助 †
飯富虎昌
馬場信春
高坂昌信
真田幸隆
上杉軍
上杉謙信
上杉政虎
直江実綱
柿崎景家
甘粕景持
中条藤資
色部勝長
本庄繁長
村上義清
高梨政頼
戦力
武田軍 20000
上杉軍13000
損害
戦死者
武田信繁
諸角虎定
山本勘助など
他4000人死傷 戦死者
志田義時
大川忠秀など
他3000人死傷
川中島の戦いは、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
ただし、古文書や古記録の研究の進展から、北信濃地域ではこの5回の他にも武田・上杉両軍による軍事行動が確認されている。
戦国時代の甲信越地方拡大
室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。一方、信濃国では守護の小笠原氏が分裂していた上に北信濃の村上氏など有力な国衆が守護に匹敵する勢力を持っていた。小笠原長棟の時代に小笠原氏が統一され、村上氏との婚姻同盟の締結に成功した結果、ようやく地域権力化が始まろうとした矢先の天文11年(1542年)に長棟が病死して嫡男・長時への当主交代が行われる。
甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に武田晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。武田晴信(信玄)が家督を継ぐと諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、武田氏が北条氏と同盟することは武田氏と山内上杉氏との間の関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後、甲斐の武田晴信は信濃国への軍の出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田軍は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。
天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、武田晴信は村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで武田軍は小笠原長時を撃破する。
天文19年(1550年)、武田軍は小笠原長時を追い払い、仁科盛能を臣従させ、武田氏は中信地方を制圧し自国の領土とする。
同年、武田軍は村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、武田軍は戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がることになった。
また、信玄は越後隣国の越中国の内乱に干渉し続けたことから、謙信は度々越中国に遠征しなければならず、天正4年(1576年)には謙信が越中国を統一することとなった。(越中の戦国時代を参照)
対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあった。信濃で村上氏の勢力が衰退し、代わって武田晴信の率いる武田軍の脅威が増大すると北信濃国人衆は恐怖を感じて越後の長尾氏に援助を求めるようになった。特に長尾氏と高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であった。越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、長尾家は先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあった。こうして、越後の景虎は北信濃での戦いに本格的に軍事介入することになった。
川中島
千曲川(左)へ犀川が合流する地点
信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南で、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる地を川中島と呼ぶ。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。
この地域には栗田氏や市河氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。
第一次合戦
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。
天文22年(1553年)4月、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。
5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現・千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信は10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。
戦乱の中でも、三条殿は信玄を支え続けていた。家臣たちや領民の前では毅然とした姿勢を崩さず、家の主婦としての役割を全うし、武田家を内側から守る。しかし、夜になると彼女は時折、信玄がどこまで戦い続けるのか、自問することがあった。
信玄は休むことなく戦略を練り、領土拡大を目指して信濃や上野、さらには越後の上杉謙信といった強敵とも対峙していた。天文21年の「川中島の戦い」では、信玄と上杉謙信が決定的な戦いを繰り広げた。これまでの小競り合いとは異なり、両軍が全面衝突するこの戦いは、家中に緊張を走らせた。
三条殿は、戦が始まる前に信玄と二人きりで対話を交わした。
「晴信様、どうかお気をつけください。今回の戦は、これまでとは違います……」
彼女の声には、深い不安がにじんでいた。信玄もそれを感じ取っていたが、彼の決意は固い。
「心配はいらぬ。私は武田家のために、必ず勝利を持ち帰る。」
信玄の声には強い信念が宿っていたが、三条殿にはそれ以上何も言えなかった。武田家の未来は、信玄の戦略と力にかかっているのだ。
川中島の戦いは激戦を極めた。信玄が指揮を執る軍は、上杉軍の猛攻を何度も防いだが、戦況は一進一退を繰り返した。中でも、武田軍の本陣を上杉謙信が単騎で突入し、信玄と対峙した場面は、歴史に残る名場面として語り継がれることとなる。信玄はその一撃を軍配で受け流し、辛くも命を繋いだが、家臣や兵士たちの多くが犠牲となり、勝利とは言い難い形で戦いは終結した。
甲府に戻った信玄は、疲労と戦の厳しさを隠しながらも、再び家中のことに目を向け始める。しかし、三条殿の心には深い傷が残っていた。彼女は、夫が家族よりも戦や権力を優先しているのではないかという疑念を抱くようになっていた。
「晴信様、これほどの犠牲を払ってまで、戦いを続ける意味があるのでしょうか……」
ある夜、三条殿は思い切って問いかけた。彼女の声には愛情と共に、家族を思う切実な願いが込められていた。だが、信玄は少し黙った後、静かに答えた。
「この戦乱の世において、武田家が生き残るためには、戦い続けるしか道はない。家を守ることが、私の使命だ。」
その言葉に三条殿は理解を示しつつも、心のどこかで夫との距離がさらに広がるのを感じた。信玄は家を守るために戦い続ける。それが彼の信念だ。しかし、彼の道はますます険しく、孤独なものとなっていた。
それでも、三条殿は彼を見守り続けた。夫婦として、そして武田家の一員として、信玄が選んだ道を支えることが彼女の役目だと心に決めていた。信玄の背中に寄り添いながらも、彼女の心には常に家族の未来を思う気持ちがあった。
時が経ち、戦の傷跡が少しずつ癒えると、信玄は新たな野望を抱き始めた。彼は領土を越え、天下を目指すという大望を胸に秘め、次の戦いの準備を進める。三条殿は、その姿を見つめながら、夫の行く末にどんな結末が待っているのか、誰にも分からないという現実を受け入れるしかなかった。
「晴信様、私はあなたを信じ続けます。しかし、どうかこの道が、あなたにとっても武田家にとっても正しいものでありますように……」
三条殿の祈りは、戦乱の時代の中でただ静かに響き続けた。
川中島の戦いは、信玄と上杉謙信の名を知らしめる激闘だった。以下にその詳細をセリフを交えながら描いていきます。
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天文21年(1550年)夏、川中島。
武田軍の本陣では、信玄が集まった家臣たちとともに戦略を練っていた。周囲には緊張感が漂う。
信玄:
「諏訪に続き、今度は上杉謙信が我々を迎え撃つ。謙信の軍は手強いが、我が軍の士気は高い。勝つための策を練ろう。」
板垣信方:(前回の戦いで死んだが牛頭の力を得て復活)
「謙信は剛の者。正面からの攻撃は無謀です。地形を利用して奇襲をかけるべきかと。」
甘利虎泰:(前回の戦いで死んだが馬頭の力を得て復活)
「その通りです。私が前方を固め、敵の隙を突きましょう。」
信玄:
「ならば、虎泰に任せる。信方、貴殿は後方を守れ。上杉の軍が背後に回らせてはならぬ。」
家臣たちの決意を受け、信玄はそのまま出陣を決意する。
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川中島の戦い、武田軍と上杉軍が対峙する。
両軍の兵士たちは、静まり返った中でお互いを見つめ合い、次の動きを待っていた。
上杉謙信:
「武田の者たちよ、今日こそこの戦を決着させよう。我が剣にて、貴様らの勇気を試してやる!」
信玄:
「謙信、貴様の名は聞き及んでいる。だが、ここで負けるわけにはいかぬ。我が武田の力を見せてやる!」
戦闘が開始される。矢が空を切り、刀剣がぶつかり合う音が響く。
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戦闘中、武田軍の中で信玄が兵士たちを鼓舞する。
信玄:
「我が家の名を賭けて、前へ進め!勝利を手にするため、全力で戦え!」
兵士たちの士気は高まり、信玄の言葉に応じて前進を開始する。上杉軍も負けじと応戦する。
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数時間後、川中島の戦場は激しい戦闘に包まれる。
信方:
「信玄様、敵の動きが活発になっています!後方に配置した部隊が攻撃を受けています!」
信玄:
「忍耐を持って耐えろ!我が軍の時が来る。連携を取れ、前進せよ!」
しかし、戦況は混沌としてきた。上杉軍が武田軍の後方に回り込み、信玄は苦しい状況に立たされる。
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昼が過ぎ、夕暮れが迫る。信玄と謙信がついに対峙する。
上杉謙信:
「信玄!貴様の実力、見せてもらおう。今こそ真の武将を試す時だ!」
信玄:
「謙信、貴様との戦いは楽しみだ。だが、ここで倒れるわけにはいかぬ。武田家のために、力を尽くす!」
信玄と謙信が互いに刀を交え、激しい戦いを繰り広げる。両者とも傷を負いながらも、勝利のために戦い続ける。
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夜が訪れ、戦いは決着がつかぬまま続く。
戦場の光景は壮絶で、死傷者が数多く、どちらの軍も疲弊していた。
信玄:
「兵士たちよ、退却の準備をせよ。これ以上の犠牲は避けねばならぬ。」
信方:
「御意。残念ですが、撤退が賢明です。」
信玄:
「また次の機会に、謙信と相まみえよう。我が武田家、必ずや立ち直る。」
戦場は朝霧に包まれ、川中島の広い平野が戦士たちの足音で震えていた。
上杉謙信の軍勢と武田信玄の軍勢が向かい合い、今にも激突しそうな緊張感が漂う。突如として、地面を揺るがすような轟音が響き渡り、霧の中から二つの巨大な影が現れた。
板垣信方は「牛頭」の力を宿し、恐るべき巨躯を揺らしながら前進する。彼の瞳は真紅に光り、長大な斧を振りかざすと、一撃で何十人もの敵兵を吹き飛ばした。その力はまさに神のごとく、敵の槍や刀は彼の体を傷つけることさえできない。彼の怒号が響くたび、武田軍の兵士たちは士気を取り戻し、前進を続ける。
「我が力を見よ!」信方が叫び、地面に斧を叩きつけた瞬間、地割れが生じ、上杉軍の兵士たちが次々と飲み込まれていく。その光景はまさに地獄絵図だった。
一方で、甘利虎泰は「馬頭」の力を得て、驚異的な速さで戦場を駆け抜けていた。馬の霊が宿ったかのように彼の体は軽く、敵陣の中を縦横無尽に突き進む。その速度は目にも留まらぬ速さで、彼の突進を目にしたときには、すでに数十人の敵兵が地面に倒れている。槍を構えた上杉軍の精鋭たちも、彼の突進の前には無力だった。
「死をも超える力を得た我が前に、誰が立ちふさがる!」甘利は叫び、彼の剣が一閃すると、敵将の首が空を舞った。その体は汗一つかかず、馬のような力強さで次々と敵を蹴散らしていく。
両軍の兵士たちは、この二人の復活した戦士たちの姿に恐怖し、戦場は混乱に包まれた。板垣信方の猛力と甘利虎泰の神速は、まさに天と地を揺るがす力であり、川中島の戦いは彼らの手によって完全に新たな段階に突入したのだ。
しかし、上杉謙信もまた黙ってはいなかった。彼は軍の中央から馬を駆り、彼らの力に対抗するべく、自ら最前線へと向かっていく。
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こうして、川中島の戦いは決着がつかぬまま、両軍ともに傷を抱えて引き揚げた。この戦いは後に両者の名声を高め、戦国時代の名勝負として語り継がれることになる。信玄と謙信は、互いに尊敬の念を抱きながらも、再びの対決を約束するかのように戦場を後にした。
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