(2)――「駄目でしょ、紫鶴」

「わーい連続で大富豪! やったーっ!」

 その日の晩、僕は僕を軟禁している張本人と、トランプゲームに興じていた。

 いつもどおり夕飯を食べ。

 いつもどおり、守護霊のユカリと遊んでいる。

「富豪はユカリちゃん三号、貧民はユカリちゃん二号、大貧民は紫鶴ー!」

 正確を期するなら、「守護霊たち」か。

 大富豪で遊ぶにあたり、流石に二人じゃ楽しくないだろうと苦言を呈したら、ユカリは指を鳴らして分身を二人出してきたのである。

 守護霊として僕を護るために、ある程度は物に触れたり、干渉できたりするのは知っていた。だからトランプを手に持つことくらいでは驚かなかったけれど。分身能力があるなんて、流石にそれは初耳だぞ。

「十回連続で大貧民になっちゃった紫鶴が可哀想だから、そろそろ別のゲームにしよっか。次はなにやる? 神経衰弱?」

「いや、一旦休憩にしよう。僕、お風呂に入ってくるよ」

 同じ姿の奴を三人相手取っているだけで、僕の神経は既にかなりすり減っていた。このあたりで一度休憩を挟まないと、僕の精神状態が危ぶまれる。

「おっけー」

 ユカリは軽い調子で頷くと、再びパチンと指を鳴らして分身を消した。溶けるように、霧が晴れるように、あっという間にいなくなる。

「紫鶴、きちんとお湯に浸かってくるんだよ。夏だからってシャワーだけで済ましちゃ駄目だからね」

「わかってるよ」

「肩まで浸かって、百まで数えるんだよ」

「はいはい」

 風呂に入る準備をするため、居室と風呂場を行き来する僕に、ユカリはそんな声をかけてくる。こんな声かけは大学入学を期に一人暮らしを始めた春以来かもしれない、なんてふと思い出す。あの頃は、ユカリのおかげでホームシックになることもなく、スムーズに新生活のスタートを切れたものだ。

 そんなことを考えながら浴室に入り、髪と身体を洗ってから、湯船に浸かる。

 ユカリとの出会いは、今から十五年ほど前――僕が四歳のときのことだ。

 流石に当時の記憶は朧げだ。しかし病院の中庭に居たユカリと目が合い、手を差し伸べたことだけははっきりと覚えている。あの日からユカリは僕の守護霊として、ずっと隣に居続けてくれている。

 健やかであれと、慈愛に満ちた眼差しと共に、ユカリは僕を見守ってくれていた。

 学校の宿題で手こずっているときは、僕が理解できるまで根気強く教えてくれた。

 人間関係で困っているときは、たくさんのアドバイスをしてくれた。

 そして、日常のあらゆる危険から、ユカリは僕を護ってくれた。

 だからこそ、今回の軟禁は、本当に意図が読めない。これまで一度たりとも、ユカリが僕を陥れようとしたことなんてなかった。ユカリは悪ふざけでこんなことをするような人間ではない。だから必ず、なにかしらの理由があるはずなんだ。どうしてか、本人はその理由を話したくないようだけれど。

「理由……。理由なあ……」

 口では怒ってないと言っていたが、実は本当に怒っているんじゃないだろうか。だとすれば、僕が謝れば状況が一転する可能性だってあり得る。だがその為には、彼女が怒っている原因を究明する必要があるのだ。

「紫鶴ぅー? 溺れてなぁいー?」

 と。

 浴室の外からユカリの声がした。

 肉体を持たない霊体だから、基本的に壁なんてすり抜けて移動できる彼女だが、壁に顔を突っ込んで直接見てくるような真似はしない。ユカリ曰く、小さいときは一緒にお風呂にも入っていたそうだが、僕だって二十歳目前の男である。そのあたりは尊重していただきたい。

「だ、大丈夫!」

 慌てて返事を返すと、ユカリは、良かった、とだけ言って浴室から離れて行った。

 ユカリを欺いてまで脱出する気は毛頭ないが、なにがきっかけで状況が悪化し、軟禁から監禁に変わるともわからない。さっさと戻るが吉である。

「おまたせ」

「おかえり」

 パジャマを着て居室に戻ると、ユカリはそれまで観ていたテレビ番組から目を離し、のんびりと返事をした。

「え、テレビは観られるのか?」

「当たり前じゃん」

「へえ」

 外部へ連絡ができるか否かが境界線なのだろうか。ともあれ、今夜は楽しみにしていたドラマの放送日だったから、テレビを観られるのは有り難い限りだ。

「あ、こら紫鶴」

 ユカリの隣に座った途端、むっとした声音で名前を呼ばれた。同時に、ずいっと顔をこちらに近づけてくる。

「な、なに」

 一瞬だけ、ユカリに対して「怖い」と思った。

 平常心、平常心だぞ。

 僕は頭の中で米の品種名を唱えながら、ユカリの行動を見守る。

 現在進行系で僕を軟禁しているユカリではあるが、彼女の根本的なところは変わっていないはずなんだ。

 ユカリが僕を傷つけるはずがない。

 僕がユカリを疑うなんて。

 ユカリを怖いと思うなんて。

 そんなこと、絶対にあってはならない。

 ユカリは眉間にシワを寄せ、さらに一歩、近づいてくる。

「駄目でしょ、紫鶴――」

 目の前まで迫り、じっと僕の目を覗き込んで、ユカリは言う。

「――髪の毛、ちゃんと乾かさないと。夏でも風邪はひいちゃうんだから」

「……ごめん」

「ふふ、なにビビってんの?」

「ビビってねえし」

 誤魔化すようにそう言って、僕はそそくさと洗面所に向かった。ドライヤーを取り出して、熱風で髪を乾かしていく。

 断じて、ユカリに物怖じしたわけではない。

 それよりも重要な事実に気づき、僕は愕然としてしまっていたのだ。

 ユカリが僕の目の前に迫った、あのとき。

 僕は、彼女の顔を真正面から見るのが久しぶりであることに、気づいたのである。

 ふんわりと巻かれた前髪や、胸元まで伸びる黒髪。少しだけ紫がかった瞳。いつも楽しげに裾が揺れる、黒を基調にした花柄のワンピース。下ろしたてっぽい白のパンプス。

 霊であるユカリは、髪も伸びないし歳もとらない。ずっと二十歳前後の姿のままだ。

 変わらない彼女に、見慣れすぎていて。

 いつしか、顔すらまともに見なくなっていた。

 ずっと隣に居てくれるからといっても、それは甘え過ぎな気がした。

 ユカリが怒っている原因は、この辺りなのだろうか。だから、夏休みに入ったことを期に、こうして僕を軟禁し始めたのかもしれない。

 それならユカリが満足するまで軟禁に付き合っても良い――否、ユカリが用意したこの時間を有意義に使わせてもらいたいと、そう思う。

「ん?」

 背後から気配がして、振り返る。

 洗面台の鏡に映らないユカリの姿が、そこには在った。

「――――」

「え、ごめん、なに、聞こえない」

 ユカリがなにか言葉を口にしていたようだが、ドライヤーの音に負けてしまい、聞き取れなかった。

 ドライヤーを止めて、改めて聞き直したが、

「大したことじゃないよ」

 と言って、ユカリは微笑むだけだった。

 なにかを誤魔化しているように見え、追求しようとしたのだが、ユカリは、それよりも、と僕に時計を確認するよう促す。

「ドラマ、もうすぐ始まるよ」

「え? あ、本当だ」

 時刻は、ドラマ開始一分前になっていた。

 急いでドライヤーを仕舞い、テレビの前にある座椅子に座って待機する。

 軟禁生活一日目は、いつも通りの穏やかな夜で終わりを迎えた。

 ひとつ、僕の心に影を落としたこと以外は。

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