不完備情報ゲーム
「それじゃあ、君の推理の否定を始めて行こうか。
最初の否定は、桜の押し花についてだね。とりあえず、その桜の花びらを見せてもらえるかい。」
「どうぞ。」
梨子は天神教授に桜の花びらを渡した。
「やはり、綺麗だ。色も桜の色を保っている。茶色く変色しているようなこともない。それに、花びらの曲線に欠けが無い。
ここから分かることは、この押し花は桜の花びらを回収してからすぐに作られたということだ。」
「なぜそうなるんですか?」
「おそらく君は押し花を作ったことが無いね?」
「まあ、そうですけど……。」
「なら、教えてあげよう。押し花は鮮度が命だ。
桜に限らず、花びらは散ってしまえばすぐに枯れ始める。花びらへと常に行われていた栄養分や水分の供給が無くなれば、生命維持が不可能になることは必然だ。流動性を失った細胞液が色素の酸化を促進させることで、花びらは茶色に変色する。
この変色のスピードは植物によってまちまちだが、桜の花びらの変色は早い。これは、道端に散った桜が茶色く汚くなっていることをよく見ることからもよく分かると思う。
ここから導かれる洞察は、散り落ちた桜の花びらを押し花にするなら、すぐに圧力をかけて、細胞液を脱水しなければならないということだ。
そうしなければ、このように綺麗な桜の押し花を作ることは出来ない。
つまり、君がした春に挟まった桜の花びらを夏に押し花にしたという推理は少し厳しいんだよ。
押し花にするために必要な圧力は、大体4,5kgの圧力が必要となる。そうなれば、桜の下でどのような本を読んでいたとしても、このような綺麗な押し花ができることはないんだよ。
そして、100歩譲って、本の間に挟まった桜の花びらが茶色に変色することなく、綺麗な押し花となったとしても、押し花が綺麗にできることは無い。
なぜなら、本に挟まった花びらが本に引っ付いてしまうからだ。
押し花を作る際にもう1つ大事なことは、押し花を挟む本に押し花専用の紙を敷いておかなければならないことだ。そうしなければ、押し花から染み出した細胞液が挟んである本のページに引っ付き、そのページを開いた時に花が傷ついてしまう可能性がある。
だから、押し花から染み出した液を即座に吸収し、押し花が剥がれやすい専用の紙を敷いておくべきなんだよ。
君の推理の場合、春の桜を夏に偶然見つけたことになっている。ということは、挟んだ桜の花びらは本のページにくっついている可能性が高い。そのような押し花を想定していない状況では、薄くデリケートな桜の花びらを剥がす際に傷が付くことは避けられないだろう。
しかし、この桜の花びらは全くの欠けもなく、綺麗な曲線を描いている。ということは、この桜の花びらは最初から押し花にするものとして、作られたものなんだよ。
このような点から、この桜の花びらは桜が散った後、すぐに押し花へと加工されたものだと考えられる。
これが2つ目の否定。
そして、3つ目の否定は、西洋美術大全の間に文庫本を挟むことの妥当性についてだ。
まず、押し花をするためなら、詰まった本棚に詰め込む圧力で脱水するなんて、まどろっこしいこことはしないだろう。だって、西洋美術大全を1冊だけ借りて、家で押し花を作ればいいだけだからね。
というか、大きな本を借りて重りを乗せるのが普通の押し花の作り方だ。本棚に本をギチギチに詰めて、その圧力で押し花を作るなんて、取り出すときに手間になるから、あまりいいやり方じゃないことはよく分かるだろう。
まあ、もともと2つ目の否定で押し花の可能性は消されているから、二重否定に見えそうだが、3つ目の否定で分かることがある。
それは、この桜の花びらは図書館または、西洋美術大全の本棚から持ち出すことができなかった。ということだ。
なぜ、おそらく犯人にとって大事であろう桜の花びらと栞をこの空間から持ち出すことができなかったのか?
これが3つ目の否定で重要な情報だ。
さて、ここまで説明できれば、君はこの不完備情報ゲームの非対称性を打ち破り、この状況を支配する私的情報のルールを推理することができるはずだ。」
「ちょっと待って下さい。不完備情報ゲームから言葉が全く理解できないです。」
「そうだったね。しょうがないから教えてあげよう。
不完備情報ゲームは、一部のプレイヤーにルールが知らされていないようなゲームだ。」
「どういうことでしょう?」
「じゃあ、君はチェスは知っているかい?」
「存在は知っています。でも、チェスの駒の動きとかは全く知りません。」
「ということは、私と君が今からチェスをした時、君は全くルールを知らない状態でプレーすることになる。
しかし、私はチェスの駒の動きもルールも把握している。だから、君はルールを知らないが、私はルールを知っているということになる。
このような不公平な状態を情報の非対称性と言って、その非対称性を持ったゲームを不完備情報ゲームと言う。そして、この時、私だけが知っているチェスのルールは私的情報と言う。
これが不完備情報ゲームの説明だな。」
「その不完備情報ゲームがこの桜の謎を解くヒントになるということですか?」
「その通りだ!
この桜の謎を解くには、特殊なルールの存在に気が付かなければならない。そのルールを推理するためには、さっき説明した3つの否定を重ね合わせて考える必要がある。」
梨子は教授が言った3つの否定を思い出す。
1つ目は、栞が古本に長く挟まれていたことと挟まれていた桜が去年よりも前の桜であることから、今年の夏に作られた桜の押し花の栞ではないという否定。
2つ目は、桜が最初から押し花にすることを目的に作られていたということから、本に偶然挟まった桜の花びらではないという否定。
3つ目は、押し花を作るために本棚に詰め込むことの不合理性から、押し花を作るために、桜の花びらを本に挟んだわけではないという否定。この否定からは、この桜の花びらが本棚もしくは、図書館から持ち出せないという縛りがあると推測できる。
この3つの否定から、この桜の謎を支配するルールを推測しなければならない。
やはり、気になるのは、この桜の花びらが持ち出されることを縛る要因だ。
なぜなら、この桜を本に挟んだ人間は、自分の本1冊を犠牲にしてまで、図書館に桜の花びらを置いておく選択をしたからだ。
そこまで強く縛るルールとはなんだ?
そのルールは図書館の運営が出したルールではないことは確かだ。図書館が出したルールなら、自分の本を使うことは無い。ルールを守るためにルールを破っているからだ。
ということは、ルールは噂のルールまたは、あるグループ内での独自ルールのはずだ。そして、そのルールは文庫本1冊の強制力がある。
「……分かった!」
「本当?」
優美は梨子に聞き返す。
「ええ、分かったわ。隠されたルールもこの桜の花びらの謎もね。」
「じゃあ、どういうことなの?」
「この桜の花びらは、
おまじないだったのよ。」
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