ふたりの終わりは、唐突に

 僕たちの通う高校は夏休みになっても、勉強のために自習できるスペースを開放している。空き教室がその期間、仮の自習室になるのだ。進学校というわけでもなく、学力は上から下まで幅があるので、そんなスペースが作られていることさえ知らないまま、卒業していく生徒も多いはずだ。


 八月に入ってすぐ、僕は国崎と自習室で勉強していた。周りに利用している生徒はいない。真面目な生徒は塾や予備校あたりで勉強するだろうし、不真面目な生徒は今ごろ遊んでいるだろう。利用するのはどっち付かずの僕みたいな人間か、それに付き添ってくれる国崎みたいな生徒だ。と言っても、普段は国崎もいなくて、僕ひとりがほとんどだ。国崎は家ではそれなりにちゃんとやっているらしい。僕みたいにだらけてしまわないところに、野球部のレギュラーとして実績のあった国崎との集中力の差を感じてしまう。


 終わって、正門を出る。


「で、今日は何の用だったんだ」と国崎が聞く。

「……勉強に誘っただけ、だけど」

「顔に出てるから」と彼が笑う。「ちょっと話していくか」

 僕たちはプールの門の前で、地べたに座る。鉄製の門に背中を預ける。衣服越しにも熱を感じる。


 今日は水泳部の練習もないからかプールは開かれていないが、すでに使用禁止令は解かれている。水泳部の顧問の先生などが必死に説得した、という話を、水野から聞かされている。以前はあった造花の向日葵は、もうここにはない。結局、あれが誰の添えたものなのか分からないままだ。


「ここから、はじまったのか」と国崎が遠い目をする。「あの日、ラッキーアイテムの話をした俺は、恋のキューピッドだな」

 何を、とは聞かなかった。


「言ってて、恥ずかしくないのか」

「別に聞かれてるの、お前しかいないからな」

「そっか」

「そうだ。で、まぁ何の話をしたいかは分かってるよ」

「僕はこの夏の間、ずっと自己嫌悪している」

「自己嫌悪?」

 僕は真夏の暑い空気を思いっ切り肺に取り込んで、すこし間を置いて、話しはじめる。


「ずっと彼女は仄めかしていたんだ。大切なひと、の死を。僕は深く聞こうとはしなかった。途中からは聞けずにいた。僕は勝手に想像していたんだ。夏風自身か、夏風と同じ年頃の誰か、か。同じ年頃の誰か、だとしたら、それはどんな関係なのか、とかね。馬鹿みたいな嫉妬をしてみたりして」

「そうか」

「だけど死んだのは、彼女自身でも、同じ年頃の誰かでもなく、彼女の曾祖母……ひいおばあさん、だった。それを聞いた僕は、ほっとしてしまったんだ。あぁ良かった、って。ひいおばあさんなら別に、って」

「それで自己嫌悪したのか」

「どんな形であれ、どんな年齢であれ、そこにひとの死があって、そしてそれは夏風の〈大切なひと〉の死だ。なのに、安堵している自分がいる。そんな自分が」

 醜くて、許せなくなった。と続けるつもりだった言葉を、実際に口にすることはできなかった。国崎の僕を見るまなざしは優しかった。


 九十五歳で亡くなった夏風の曾祖母の死は、世間一般の感覚で言えば、大往生の部類だ。


「それほど不思議な感覚じゃない、と思うけど。……で、夏休みに入ってから、夏風とは一度でも話したのか」

「一度だけ電話で」

 夏風から電話が掛かってきたのは、七月の末だった。


『ごめんね。ずっと会えなくて。話したい気持ちはあるんだけど、なんとなく心の整理がまだ付かなくて。すこしだけ時間をもらってもいいかな。夏休みが終わった頃に、また』

 分かった、としか僕は言えなかった。僕たちが感想を言い合っていた小説たちは、彼女の曾祖母が愛読していたものだ。そこには夏風なりに愛憎半ばする特別な思い入れがあったはずだ。僕とふたりで話しながら、近く訪れる曾祖母の死について考えることもあっただろう。今さらになって、僕はそれを知ったわけだ。


「そうか」

「夏休みが終わったら、また、って」

「じゃあその時にふたりで話してみるのが一番だよ」と国崎が僕の肩を叩いた。「気持ちをストレートに伝えるんだ。俺みたいに」

 国崎が冗談めかして笑った。


「やっぱり、それしかないか」と僕も無理に笑みを作ってみた。あまり綺麗に作れている自信はない。

「特に、お前も夏風も、俺の見立てだと、本心の大事な部分を、大事な相手に対して、隠してしまうイメージがあるから、な」

「それは国崎、お前もひとのことを言えないと思うけど」

「俺は素直になったし、あと、お前たちふたりとは、ちょっと違う感じだよ。じゃあ、俺は今日は帰るよ」

「駅まで行かないのか」

「今日はこの後、佐野と会う約束があるんだ。お前のために時間をずらしてもらったんだから、感謝しろよ」

 今年の夏休みは、特別なことなんて、これくらいしかなかった。夏風のことを振り払おうと受験勉強に勤しんだからか、思ったよりも学力は上がっている実感があった。


 そして夏休みが明けて、高校がはじまってすぐの、九月の第一週。

 僕の目の前には、夏風がいる。


 一ヶ月ちょっと、たったこれだけの期間しか会っていないのに、彼女の姿がどこかおとなびて見える。それだけその前まで、僕たちが頻繁に顔を合わせて、やり取りを繰り返していたからかもしれない。


 僕たちは、僕たちが関わり合うきっかけとなった本屋に併設されたコーヒーショップにいる。あの時と同じ店員さんで、あらあら復縁したのかしら、なんて目を向けられている気がした。たぶん気のせいだろう。


 休みが明けて、学校に来た彼女の様子はいつも通りだった。すくなくとも僕には、そう見えた。目が合うと、僕ににこやかにほほ笑みかけた。


「本当に久し振りだね」と夏風が言う。

「たった一ヶ月くらいのことだよ」

「でも、その一ヶ月はとても長く感じなかった?」

「そうだね、もしかしたらいつもよりかは」

「私がいなくて寂しかったでしょ」

「いや、別にそんなことは」

「あっ、照れてる」

 夏風がアイスコーヒーに口を付ける。プラスチック容器を持つその手はかすかに震えていた。


「本題から入るけど、国崎くんから聞いたでしょ。直接言うのが怖くて、国崎くんにお願いしたんだ」

「聞いたよ。きみのひいおばあさんが亡くなった、って」

「そう、私の〈大切なひと〉。昔から小説が好きで、若い頃はもしかしたら文学少女みたいなひとだったのかもしれないね。ひいおばあちゃんはよく私に昔話をしてくれて、その話を聞くのが好きだったんだ」

「そうだったんだ」

「もう永くない、ってはっきり分かったのは、五月を過ぎた頃だったかな。でもその前から予兆みたいなものはあったんだと思う。なんだか寂し気に、ぼんやりと窓越しの空を眺めていることが多くなったから。たぶん、ひいおばあちゃんなりになんとなく感じるものがあったんじゃないかな。病院にお見舞いに行くと、私の頭を弱々しく撫でて、『大丈夫、大丈夫』なんて言うんだよ。どう考えても、大丈夫な感じじゃないのに、ね。私は寂しかった。私は物心ついた時からおばあちゃんはいなかったから、私にとって、おばあちゃんと言えば、ひいおばあちゃんのことだった」


 そこで、夏風がひとつ息を吐く。


「大好きだったんだね」

「大好きだった。もう九十五歳なんだから、って周りは言うけど、私は百歳でも、百二十歳でも生きていて欲しかった。あのプールの一件もあんな時じゃなかったら、何も起こらなかったかもしれない……いや、それはただの言い訳だね。起こっていたかもしれないし。日比野くん、あなたと会ったのは、私の心の荒んでいた時期。偶然、書店であなたを見つけて、私はどうしてもあなたと話したくなった」

「なんで」

「前も言ったけど、私たち似ていて。そして気にかかる存在だったから。それしか言いようがないよ。結構、緊張したんだよ。話しかけるの。〈大切なひと〉って最初に言った時、あなたは勘違いしているのはすぐに分かった。でも、勘違いするよね。私だって勘違いする。言い方が悪かったな、とは思ったんだけど、でも嘘じゃないからね。訂正する気にはなれなかったし、〈大切なひと〉なのは間違いない。だからもしあなたが聞いてきたら、普通に誰のことかは伝えよう、ってね。聞かれないのに、答えるのは悔しいじゃない。たぶんそこには悪戯心もあったし、あとそうだね、あなたとの関係を繋ぎとめておく何かが欲しかったのかもしれない。ずるくて、嫌な性格だね」そんなことない、と言おうとした僕の言葉をさえぎるように、彼女が首を横に振った。「本当にそうなんだ。ひいおばあちゃんが死んだ時、真っ先に私が抱いた感覚が自己嫌悪だったから。あの映画のように、死を雑に扱っていたのは、私かもしれない、って。私はひいおばあちゃんの死を利用して、あなたとの日々を楽しんでいたんだから」

 夏風は今、気付いているのだろうか。自分の頬をつたって、涙がとめどなく流れていることに。


 僕たちは似ている、と彼女は言う。

 そして改めて僕は思う。僕たちは似ている、と。


「夏風……」

「そしたら急にあなたと会うことが怖くなって。今の自分を見られることが怖くなった。なんかいつも自分の感情で、日比野くんを振り回してるね」と夏風がちいさく笑った。「たとえば、私、こう思ってしまう時があるんだ」

「たとえば?」

「うん、ただのたとえば。たとえば、もしも私がこんなしょうもない悪戯心を起こさずに、素直に、ひいおばあちゃんのことを話していたとしたら、大切なひとに、ひいおばあちゃんに、あなたを紹介できていた世界線もあるのかな、って。『このひとが私の好きなひとです。大切なひとです』なんて、伝えられたんじゃないかな、って。こんなこと、もう言っても仕方ないんだけど、ね。本当に後悔ばかりだ」


 彼女の心に落とす深い影は、どんどんくっきりと濃くなっているのだろう。取り払うための言葉なんて、僕には分からなかった。だって僕自身も、自己嫌悪に囚われていたのだから。


 沈黙が場を支配する。


 何か言わなければ、と焦って、

「僕は――」

 と言いはじめた言葉は、夏風の重ねるような言葉にさえぎられてしまった。


「たぶんこのままいっても、私たちは上手くいかない。私はそんな気がするんだ。自分勝手な言葉だとは思うんだけどね。だからすこしだけ冷却期間が欲しい。まだ熱を持った関係になっていたのかも分からないし、この表現が正しいかどうかも分からないんだけど。あぁごめん、本当に私は自分勝手だ。でも、私は今、こんな状態で、この状態のまま、あなたと、っていうのは難しい気がして」


 僕たちは似ている。似ているからこそ、離れてしまった。

 たとえば、と思う。

 僕がこの時、僕自身の中にある自己嫌悪をさらけだしていた、としたら、未来は変わっていたのだろうか、と。変わっていたのかもしれないし、変わらなかったのかもしれない。


 事実として、僕たちこれ以降、残りの高校時代、一切関わることがなくなり、そして僕たちは卒業した。僕は関西にある私立大学に入学した。彼女は地元の大学に進学した、と聞いている。


 大学生になっても、夏になるとまず、僕は夏風のことを思い出す。

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