新潟の片隅で、愛が終わる

日比野くん、あなたのことが好きなようです

 毎晩そんなことを考えたり、祈ったりしながら眠るのに、朝起きてみると、ぼくはあいかわらず元気で、病気で苦しんでいるのはアキの方だった。彼女の苦しみは、自分の苦しみではなかった。ぼくも苦しんではいたが、それはアキの苦しみを自分なりに苦しんでみることでしかなかった。ぼくはアキではなかったし、彼女の苦しみでもなかった。――――片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』



 夏休みも迫ってきた七月十一日。朝からずっと灰色の雲がちいさな雨を降り落としていた。放課後、僕は教室に残って、勉強をしていた。いや本当に勉強ができていたのかは分からない。それっぽいことをして、勉強をした気になりたかっただけなのかもしれない。動き出す周囲を見ながら、僕は焦っていたのだ。


 僕以外も五人ほど教室に残って、参考書かノートを広げて、鉛筆かシャープペンで何かを書き込んでいる。僕と違って、普段からちゃんとしているクラスメートたちだ。何を書いているかなんて知らないが、黙って真面目にやっているはずだ。黙って、何もできていないのは、たぶん僕だけだ。途中でぼんやり窓越しの景色に目を向けると、傘を差して正門を出ていく生徒たちの姿が目に入る。その中にひとり、学校に入ってくる生徒を見つけた。夏風だ。


 終わったらそのまま帰る、って言ってたのに、な。

 僕は教室を出て、夏風に会いに行くことにした。たぶん僕に会いに来たのだろう。ある程度、確信はしていたが、うぬぼれているだけだったら嫌なので、たぶん、と心の中で添えてみる。


「夏風」

 向こうから廊下を歩いてくる夏風を見つけて、僕は名前を呼ぶ。


「日比野くん。ただいま」

「そのまま帰るんじゃなかったの?」

「うん。そのつもりだったんだけど」夏風の瞳はかすかに潤んでいる。その表情にどきりとする。「終わった後に、国崎くんから、『日比野に結果を伝えたら』って言われて」

 僕はふたりほど試合の結果に興味はないよ、と思ったが、口には出さなかった。さすがにそれは無粋すぎる。


 夏風と国崎のふたりは小雨降る中、予定通り決行された野球部の地区大会の四回戦を観戦しに行っていた。勝てばベスト8が決まる試合で、野球部に対して複雑な想いを抱えるふたりの心が、別の意味で心配でもあった。僕もふたりから誘われたのだが、断った。部外者のような気持ちが強くて、僕はやめとくよ、と。


 気軽に、で良いんだよ、と国崎は言ったが、それはどう考えても、気軽に観れない奴の言葉じゃない、と思った。


「どうだった?」

「勝ったよ。隣で、国崎くんは泣いてた。あんな国崎くん、初めて見た。やっぱり国崎くんにとっても、この大会は特別だったんだよ」


 それはどういう感情からつたった涙だったのだろうか。だけど、この場にいない以上、ただ想像することしかできないし、それが当たっているかどうかも分からない。変なことを考えるのはやめよう。もしかしたら、国崎自身、どうして泣いたのか分かっていないかもしれない。


「そうか。国崎が」

「ねぇ、これから用事はないでしょ」

 最初から、ない、と決め付けられるのは不本意だが、確かに用事は何ひとつなかったので、僕は頷いた。身の入っていない受験勉強よりは、彼女と話しているほうが有意義だろう。


 僕たちが向かったのは学校近くのファストフード店だ。誰もが知っている全国チェーンなのだが、実は人生で初めて入る。有名だからこそ、機を逃がしてしまうと、緊張して入りにくくなってしまう。


 夏風はフィッシュバーガーを買って、僕はチーズバーガーを買った。ポテトと飲み物も一緒に。僕はコーラで、彼女はウーロン茶だ。


「なんで急に、ここに」

 隣の席には、別の学校の制服を着た女子高生ふたりが、ひとつの紙容器に入ったポテトを交互につまみながら食べている。


「ほら、高校生のカップル、って、こういうところに行くもんでしょ」

「それは高校生のカップルに妙な偏見があるように思えるけど」

「すくなくとも、本の感想を言い合うよりはずっと、それっぽい気がして」

「言い出しっぺがそれを言うのか」

「まぁね。でも、たまにはこういうのもいいじゃない」

「もちろん、いいけど。ただどうも慣れない」

「じゃあこれから慣れていけばいいんだよ」

 そもそも僕たちはカップルなのか、という言葉は胸のうちで巡っていたが、それを口に出すのは、やっぱりこれも無粋な気がして言えなかった。


「ねぇ、試合の話をしてもいい?」

 勝利の興奮はまだ冷めていないようだ。彼女の言葉には、熱がある。

 試合の相手は春の大会でベスト4だった強豪の新潟明葉高校だ。僕がちいさかった頃、甲子園に行く高校、と言えば、いつも明葉高校だった。今はあまり甲子園にも出ていないので、古豪の扱いを受けている印象があるが、名前を聞くと、おぉ、と思ってしまう高校だ。そこに勝ったわけで、やはり今年のうちの学校は快進撃と表現して差し支えないだろう。


 試合結果は三対二。

 一回にエラーなどが絡んだ失点で二点を失い、そこからはずっと追いかける展開だったらしい。七回に安達がスリーランホームランを打って、逆転勝利をした。この日の試合のヒーローは間違いなく安達だった。この試合に限った話ではなく、安達は今大会を通してのヒーロー候補のひとりとも言える存在で、彼は学校という枠組みをこえて、ちょっとした時の人となりつつある。これで優勝でもして、甲子園で活躍でもしたら……、と考えてすこし怖くなった。その状況に、国崎は耐えられるのだろうか。もちろん安達たちを応援したい気持ちはあるが、やっぱり話したことのない学内の有名人よりも、身近な存在のほうが気になるのだ。


「次はベスト4か。夏風は行けると思う? 甲子園」

「どうなのかな。でも行って欲しい、とは思ってる。大体の高校球児はそうだろうけど、あのふたりにとっても、甲子園は夢だったわけだから」

 あのふたり。安達だけではなく、国崎も挙げる。そこに他意はないだろう。夏風の素直な感情の吐露だったはずだ。だって彼女は国崎の中にある心の澱みなんて知らないだろうから。安達が甲子園に行ったら、国崎も喜ぶはずだ、と信じて疑っていないのだ。


「行けるといいね」

 僕はそれしか言えなかった。国崎がどう思っているかを、滔々と僕が語ったところで、夏風は嫌な気持ちになるだけだろうし、国崎だって、そんなこと望まないはずだ。


「うん」

「ところで、さ」と言ったところで、僕は言おうと思っていたことを伝えるのが急に恥ずかしくなって、別のことを聞いた。「水野とは、あのあと、どう?」

「泳ちゃん?」

 いつの間にか呼び方が、泳ちゃん、になっている。夏風にとっては自然なことなのか、僕が驚いていることにも気付いていない様子だ。水野に対しても思ったが、ふたりとも、仲良くなるのが早すぎではないだろうか。もしかして水面下ではふたりはずっと仲が良くて、僕だけがそれを知らなかったのではないか、と疑ってしまいそうになるくらいだ。


「映画に行ったんだ」

 確かにそんな話を水野もしていた。勝手にもっと後の話だと思っていたので、これにも驚いてしまった。


「あぁ、確かに水野もそんな話してたな」

「えっ」

「うん?」

「いつ、そんな話をしたの?」

「この前、会った時に」

「どこで」

 夏風の表情には、かすかな圧がある。そしてどこか不安そうでもあった。


「どうしたの?」

「あっ、ごめん。ちょっと、えっと、ちょっとだけ、ね。心配になって。だって日比野くんと泳ちゃんは幼馴染だから。他のひとが割って入れない、特別な関係なように思えて」

「まぁ幼馴染なのは、事実だけど」

 前はそれでからかってきたじゃないか。


「すこしだけ羨ましくなったんだ。なんだか、ずるいな、って。あはは、こういう感情を誰よりも、私が嫌っているはずなのに、ね。それにせっかく仲良くなった泳ちゃんに対しても、すごく失礼だ」

 自己嫌悪に陥ったのだろうか。夏風がかすかに傷付いたような表情を浮かべる。


「映画はどうだった?」

 僕は話を変えることにした。


「……うん。あんまり面白くなかった」

 即答だった。


「面白くなかったんだ。どんな話」

「不思議な力を持つ女の子が男の子と出会って、殺人事件に遭遇する話。で、犯人は宇宙人だった、ってオチ」

「なんだよ、それ」

 ちょっと面白そうだな、と思った。タイトルを聞くと、有名な若手俳優が主演を務める映画だ。純愛もののイメージがあるが、この作品はおそらく、ラブコメかギャグ作品だろう。観ていないので分からないが。


「あらすじを聞いた時は結構、面白そう、って思ったんだけどね」

「僕も今、そう思ってる」

「なんだか観てて、すごい嫌な感じだった。きっと創っているひとたちは、正面から青春と向き合う勇気も度胸もないんだよ。怖いから、青春を茶化すほうに逃げるんだ。私はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。ただ経験したことがある一点で、学校を舞台にすることに逃げて、ただ取材をしなくていい、っていう一点だけで、不条理な世界に逃げ込む。何よりも嫌だったのが、ヒロインが病気で死ぬこと。予定調和のようにヒロインを簡単に死なせる。安い感動に逃げ込むために。泣くためだけの装置としてしか扱われない死ぬヒロイン。なんだか、げんなりしない?」

 夏風の感想は今までになく、辛辣だ。


「でも、それは」

「今まで私たちが読んできた作品と何が違うのか、って言いたいんでしょ。結局は好きか嫌いかに落ち着くんだ、と思う。あの作品たちは好きで、この映画は嫌い。だから許せて、許せない。でも、ひとつだけ同じことがあるとすれば、私はヒロインが死ぬことそれ自体は認めていない。前にも言ったと思うけど、それはあまりにも、『悲しすぎるから』」

「何か、あった?」

「日比野くんが一向に聞いてこない、もうひとつの件のことだよ」夏風がちいさく笑った。さっきまでの熱が嘘のように引いて、その表情は寂しげだった。「あぁ嫌味っぽくなっちゃったね。今日はやけに嫌なひとになってる。ごめん。忘れて。つい。でも、今日は聞かないで。いつか、言うから」


 今日の夏風を、明るい、と僕は思っていた。楽しそうだ、と。だけどそれは違っていたみたいだ。今日の夏風は、感情の起伏が激しい。浮き沈みが激しいのだ。


「……分かった」

「でも水野さんは、『意外に面白かった』って言ってたよ」

 慌てて場を明るくさせるように、夏風が言う。


「きみの前だから言ったんじゃないかな。たぶん気を遣って」

「私、平気で、『あんまり面白くなかったね』って言ってたから、そんな気を遣う必要なんてないと思うけど。……もうそろそろ、出ようか」

 気付けば、隣の女子高生たちはいなくなっていた。僕たちは食べ終えた後の紙容器など、残骸をゴミ箱に捨て、店を出る。


 僕たちは帰り道、先日ふたりで話した公園に寄ることにした。公園の前に来た時、彼女が僕の手を取り、もうすこしだけいいかな、と言ったのだ。汗ばんだ手のひらから、緊張感が伝わってくる。僕もひとのことなんて何も言えなかっただろうけど。


 夕焼け空が、辺りを茜色に染めていた。

 ベンチに座る。

 ちょうど目の前のブランコの上に、二本のラムネ瓶が残っている。マナーの悪い誰かが置いて帰ったのだろうか。薄い青を成した空の瓶はぴたりと寄り添うように並んでいた。


 僕たちはお互いにすぐにしゃべり出せずに、無言の時間があった。

 静寂にひびを入れたのは、夏風だった。


「応援してる、って」

「応援?」

「『好きなひといるんでしょ。応援してる。私、分かってるから』って、泳ちゃんが」

「安達とのことを、水野が勘違いして?」

 夏風が首を横に振って、苦笑いを浮かべる。気付いてて言ってるんでしょ、と彼女の目がそう語っている。


「鈍感な振りして、そうやって、逃げるんだね。そういうところも含めて、私たちは似てる、と思う。初めて会った時から、そう思ってた」意外な言葉にびっくりしている僕を無視して、彼女は続ける。「初めて会った時から、あなたのことは気になっていた……なんて言うと、語弊があるかもしれない。別に一目惚れ、とか、そんなものではなかったはずだから。最初は、うわぁ、嫌なところを見られたみたいな感情しかなかったからね。ただなんだか、気に掛かる存在、っていうか」


「ビンタだったからね」

「きっとあの子は私にビンタをしたことも忘れて、試合の勝利に涙してるんだろうね。もしかしたら安達くんに抱きついているかもね」

「実際にその場を見たかのような言い方だね」

「さて、何のこと。……まぁちょっとは嫉妬もあったかもしれない。だって彼は、私の好きなひとだったから。ただライクだっただけで。でも、ラブとライクを分けるものって曖昧だとも思うんだ。付き合っていたら、ラブになっていたかもしれない」

 じっと見つめてくる彼女の視線に耐えられず、僕は目を逸らした。その視線の先に、二本のラムネ瓶がある。まるで野次馬のようだ。


「えっと……」

「ごめん、嫌な言い方だったよね。もちろん続きがあるから、安心して。って言っても、あなたがその続きを望んでいるか分からないから、私も、結構、不安なんだけど、ね。でも、泳ちゃんに勇気を貰ったから」

 茜色に染まった空に黒が交わる。もうすぐ夜だ。徐々に暗くなっていく世界で、わずかにあった隙間を埋めるように、彼女の顔が近付いてくる。


「こう……反応に困るね」

「よし、困らせてやった」と照れを隠すような、冗談めかした言葉だ。「ごめんね、急に。ちゃんと意志を伝えよう、と思って。怖がりだった私は勇気を出すことにしたんだ。さっきの話。私たちは似てる、って話だけど、そう、私たちはすごく怖がりで、臆病なんだ、と思う。もし私の勘違いで嫌な気持ちになったら申し訳ないんだけど、私は確信してる。だって私たちは似てるから」

「間違って、ないよ。僕はいつも怯えている」

「当たりだ。安達くんから告白されて断った時、私の頭の中に、それまで、そこまで関わりがあったわけじゃないあなたの顔が浮かんだ。自分でもびっくりしたんだけど、ね。私はどうやら、日比野くん、あなたのことが好きなようです」


 そして彼女は、

 僕にキスをした。


「僕は――」

 と何か言葉を返さなければ、と焦る僕をさえぎるように、「大丈夫。すぐに答えは出さなくても。時間はまだまだあるんだから」と夏風が言う。「だから、今日はもう行くね」


 僕の言葉も待たずに、彼女の背は遠ざかっていく。

 結局、僕が言いたかったことは何ひとつ言えなかったな。僕は手元にある自分のカバンに目を向ける。中には、『世界の中心で、愛をさけぶ』が入っている。新たな感想会に、と彼女に提案するために。まぁ、いいか。今度、会ったら伝えよう。時間はそう、まだまだ、あるんだから。

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