第19話 継続
真夜中の屋上は日中よりもずっと冷えているはずなのに、大樹の全身を気色の悪い熱が包んでいた。汗に濡れた髪の毛が横顔にまとわりつくのも構わず、絶望の呻きを漏らす。
夜でも極端に賑やかさを増したりはしない東通りの一画。いつ崩れてもおかしくない雑居ビルには、普段よりもずっと人が集まっている。
大半はどこぞの店の関係者らしく、同じ服装だ。とりわけオールバックの丸眼鏡は鬼の形相で屋上のへりに立つ少女を怒鳴りつける。
「てめえが働いて母親の借金を返すって言ったんだろうが! 客からちょっと変態な要求されたくらいでショック受けてんじゃねえよ!」
ガツンとハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。こちらを見ていた少女の双眸は悲しみを吸って大きくなり、絶望の滴を一つまた一つと無機質な床へ落とした。
「ごめんね……あたし、汚れちゃった……」
瑞原愛美は消え入りそうな声でそれだけ言うと、早くそちらへ行きたいとばかりに、深い闇に呑み込まれた夜の町を見下ろした。
……待ってくれ。
のろのろと腕が伸びる。しかし声は出ない。足が震えて動かない。
自らを叱咤する言葉すら浮かんでこない。ただただ子供のように、嫌だという文字だけが狂ったように大樹の体内で踊り回る。
「――待つんだ、愛美!」
何もできない大樹の代わりに少女の名前を呼んだのは、屋上へ着いたばかりの彼女の父親だった。髪の毛も息も乱れているが、すぐにでも人生を終わらせようとしている愛娘を前に目を充血させる。
「お父さんが悪かった。お母さんがあんな風になってしまったのも私が原因だ。十年以上もちっぽけなプライドを守ろうとして、現状を受け入れられなかったんだ」
号泣する男の懸命な呼びかけに、少女も嗚咽を漏らす。「お父さん……!」
「お願いだ、死なないでくれっ。お父さんにやり直すチャンスをくれっ!」
何よりも家族を大切に想う女性だからこそ、心が動いたみたいだった。それを目ざとく察知した丸眼鏡が、父親にもっと続けろと指示を出す。
「あんな上玉はなかなかいねえんだ。もっと稼いでもらわねえとな」
夜の屋上はことの外、人の話し声がよく響いた。
「あんな思いはもういやァ!」少女が泣き叫ぶ。「お母さんのためにって思ったけど、やっぱりだめ……許して……」
「全部、お父さんのせいだ。もうそんな仕事はしなくていいっ!」
父親に対して、ふざけるなと怒りを爆発させたのは丸眼鏡だ。胸倉を掴み、頭突きを一発食らわせたあとで鬼か悪魔のごとき形相で睨みつける。
「こっちは前金で払ってんだ。きっちり働いてもらわねえと割が合わねえんだよ!」
「ひいっ!」
殴られ、蹴られ、怯えた父親へここぞとばかりに男が凄む。
「わかったらさっさと娘を説得しろ。なあに、辛いのは今だけだ。三日もすれば慣れる」
項垂れて丸眼鏡の言う通りにするかと思われたが、父親は血が出そうなほどに歯を食いしばって、逆に頭突きをやり返した。
「お断りだ! 一人ぼっちで生活して、初めて家族のありがたさがわかったんだ。こんなに落ちぶれて、周りから人がいなくなっても、妻と娘はそばにいてくれた。私はもっと早く、二人のありがたさに気がつかなければいけなかったんだ!」
「てめえ、よくもやりやがったな。借金に慰謝料もプラスだ、この野郎」
おもいきり殴りつけられ、薄汚れた屋上の床とキスをさせられても、愛美の父親はすぐに顔を上げる。
贖罪と愛情の視線を娘に注ぎ、次いで臆さずに丸眼鏡へぶつけた。
「幾らでも足せばいい。少しずつでも必ず返してみせる!」
売り言葉に買い言葉ではなく、本心からに思えた。弱く流されやすい人間という印象があっただけに、大樹も驚いた。
けれど丸眼鏡は応じるどころか、残忍そうな笑みを浮かべる。
「てめえの稼ぎじゃ利息も満足に払えねえだろうが。娘だけじゃねえ、飲み屋の男に狂った女房も一緒に客を取ってもらうぜ! 美人でも歳がいってるから、マニアックな内容ばかりになっちまうだろうがな!」
何がそんなに面白いのか、高笑いする丸眼鏡。借金をしたのは男の自業自得だろうが、このやり方はあまりに酷すぎる。大樹は憤りを覚えたが、人生を終わらせようとしている少女は悲しみに暮れた。
「お母さんもだなんて、あたし、耐えられないよ……」
「心配するな、愛美。お父さんがなんとかする。マグロ船でもなんでも乗ってやる!」
またしても響くのは丸眼鏡の笑い声。慈悲も容赦もなく愛美の父親に冷酷な現実を告げる。
「もう遅いんだよ。債権が俺に売られる前ならともかくな。払った分は稼いでもらう。当たり前の話だ。さっさと客のところに戻れ、この売女が!」
屈辱的な二文字に、愛美の肩から力が抜ける。その通りだという諦念、絶望が晴れることのない闇となって少女を覆う。
「……ねえ、お父さん。あたしの生命保険ってどうなってるのかな……」
「なっ! や、やめるんだ、愛美っ!」
「それで借金、返せないかな。あたし、汚れちゃったし、生きてるのがもう辛いんだ……」
「それでも! それでも生きててくれ! 頼む、お願いだ!」
土下座するような体勢で懇願し、娘に手を伸ばす父親。されと距離の壁は無慈悲に横たわり、何も掴めぬまま、拭いきれない後悔の嗚咽を漏らす。
「おお……あああ――っ!」
屋上のへりにはもう何もない。
夜空に舞い上がる悔恨を嘲笑うように、地面から決して聞きたくない音が聞こえてきた。
※
目を開けた大樹は二度、三度と頭を振る。意識が覚醒し、先ほどまでの光景を夢だと知る。
決して慣れてはいないのは、苦しいほど荒くなった呼吸が証明している。ドンドンと叩くような鼓動を鎮めるために胸に手を置く。肩に力が入っているのに気づき、大きく深呼吸をしてリラックスを心掛ける。
「今度は母親かよ……」
祖母に介入してもらって解決したかと思いきや、新たな問題に直面する。家庭環境といってしまえばそれまでだが、どうにも愛美は不幸体質なのではないかと思えてくる。
「飲み屋の男とか言ってたな。どうなってんだ……」
精神的な疲労からため息ばかりが零れる。隠してはいるが、父親とは別に多額の借金をしているのだろう。それが例の丸眼鏡の手に渡って悲惨な結末を辿る。
「愛美には話せないよな。学校で清春に相談してみるか」
昼休みまで待てず、登校するなり大樹は教室の隅で窓からグラウンドを眺めながら、小声で親友へ夢の内容をそのまま伝えた。
「メールを貰って安心していた」
「俺もだよ。土下座までして愛美のお祖母さんに助けてもらったってのに」
窓枠を誰にも見えないように叩く。交通事故の時と同じだ。問題解決の一手を打っても、まるで運命は変えられないとばかりに死が愛美にまとわりつく。
こうまで執拗だと、さすがの大樹もどうすればいいんだと自棄になってしまいそうだった。
「単なる正夢や予知夢ではないのかもしれない」
「……どういうことだ?」大樹は聞いた。
「解決が甘いという警告」
雷に打たれたみたいな衝撃が全身に走る。
「まさか、救わせるために夢を見せてるっていうのか」
「例の人形が守り神様みたいなものだとすればありえる話」
ゲームじゃあるまいしという言葉を、生唾と一緒に大樹は飲み込む。
今日までの出来事すべてが、ドラマやらになっていてもおかしくない展開ばかりなのだ。通常なら笑ってしまうような意見であっても、真面目に考える必要がある。
「大樹の夢にはヒントが多すぎる。事故の時も」
冷静さを欠いているはずの場面でも、運送トラックの社名や運転手の顔をはっきり覚えていた。
景色も鮮明で、起きても色褪せずに記憶に残っている。だからこそ呪いみたいだとも思ったが、救うための情報を与えているとすれば辻褄もあう。
「……本当にそう思うか?」
清春は頷き、困ったように口元を歪める。
「問題はゲームではなく現実なこと」
台詞に込められた意図は痛いほどによくわかる。ゲームと違って簡単にコンティニューとはいかない。対応を間違えてその時が来てしまえば、泣き喚こうとも後戻りできないのだ。
「ゲームだと突っ走れても、現実だと色々な制約があるのも辛いところか」
「その分だけ協力も得られる」
「……だな。頼りにしてるぜ、親友」
隣で景色を見ている清春の肩を叩いていると、ふと誰かの気配を感じた。振り向くより先に、丁度真ん中あたりにひょっこりと小さな顔が突き出された。
「二人して、また何か相談事? 私も仲間に入れてほしいな」
楓の可愛らしい耳を境目に流れ落ちる茶色の長髪から漂う、高級な花みたいな甘く気品のある香りが鼻腔をくすぐる。無意識に鼻を近づけてにおいを嗅ぎそうになっているのに気づき、慌てて顔を背ける。
緊張と興奮で赤面する大樹とは対照的に、美しい少女の顔を間近で見ても、清春はろくに表情を変えていなかった。
「大樹がまた例の夢を見た」
「え? だって昨日……え? まさか、解決していなかったの?」
困惑が楓の表情に宿る。昨夜に愛美から電話で報告を受けているだけに、眠る前の大樹同様に安堵とウキウキした気分を抱えて登校してきたのだろう。
「今度は母親」
口を開けば言葉ではなく心臓が飛び出てしまいそうな大樹に代わって、清春が楓に答えた。
「本当……の話なんだよね」
「からかうような人間じゃない」
うん、と楓が頷く。会話回数が極端に増えたのは最近だが、付き合い自体でいったら清春よりも楓の方が長い。どういう人となりかを理解してもらえているみたいで嬉しくなる。
「じゃあ、まだ愛美ちゃんの窮地は去っていないのよね」
困り顔ですら魅力的だが、だらしなく頬を緩めている暇はない。
「話し合いでなんとかできればいいんだけどな……」
「母親に会いに行くのか」
「それしかないだろ。すでに一度、愛美のお祖母さんには頼ってるしな」
「知ってるのか?」
無言で大樹は首を左右に振る。清春はため息をつき、愛美と友人でもある楓を見た。
「顔は知らないけれど、デレコでパートをしているとは聞いているわ」
デレコはよく利用する例の大型スーパーの名称であり、高校の生徒も何人かアルバイトしているはずだ。
「売り場はわかる?」
大樹が尋ねると、楓は人差し指を下唇に当てるポーズで考え込み、確か食品売場だったと思うと教えてくれた。
「学校が終わったら行ってみるさ」
「俺も」
「いや、ぞろぞろと行ってもプレッシャーを与えるだけだろう。俺一人でいいよ」
「心配」
清春の言葉に、いつになく力強い頷きで追随する楓。万が一にもクラスメートを死なせたくないからだろうが、二人の想いに感謝する。
「少し話をするだけだし、大丈夫だって。いかがわしい店に乗り込む時は相談するからさ」
明るく言って席に戻る。それを待っていたかのようにホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。
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