夢で死んでしまう君が、現実で死んでしまわぬように
桐条 京介
第1話 悪夢
切羽詰まった甲高い悲鳴にも似た音が、鼓膜を切り裂かんばかりに響き渡る。
何事かと音のする方に顔を向けて、土屋大樹は目撃する。
くりくりとした茶色い瞳を恐怖と驚愕で大きくした一人の少女を。
時間が止まったように身動きができない。大樹が通う高校の制服のスカートの裾が僅かに舞い上がり――
――少女が消えた。
存在をトラックに上書きされるかのように。
黒く焼け焦げた跡を残すアスファルトから立ち上る不快なにおい。
忌まわしい呪文のように、幾度も鼓膜で繰り返されるぐしゃっという何かが潰れた音。
空はとても青いのに。雲一つないのに。
地上は雨でも降ったかのように濡れていく。
真っ赤に。
真っ赤に。
己の目の渇きすら感じずに、大樹はひたすら立ち尽くしていた。
何が起きているのか、脳が理解を拒否する。
声が出ない。
呼吸が出来ない。
熱という熱が全身を蝕み、じわりじわりと汗を滲ませる。
白線が消えかかっている横断歩道。やたらと歩行者の時だけ短い青信号の点滅。日曜日の朝に酒呑みの中年親父連中しか使っていないような、薄汚れた青とも緑とも見分けがつかなくなっている小さな野球グラウンドのフェンスと錆の目立つ金網。
見慣れた風景は、たった数分で見慣れない風景へと変わった。
コールタールのようなタイヤ跡に侵食された横断歩道。無残にひしゃげた信号柱。フェンスへ突き刺さるようにして、バンパーやヘッドライトを大破させているトラック。
そのトラックとフェンスに挟まれ、どこにいるのかもわからなくなった少女。
前輪の片方が潰れ、車体を傾けているトラックから男性の運転手が慌てて降りる。
血溜まりに濡れる靴。右手から滑り落ちたスマホが力なくたゆたう。
崩れ落ちた膝が真っ赤な液体を跳ねさせる。会社の制服に紅玉が浮かび、運転手の瞳が死んだように濁る。
風だけが何事もなかったかのように、額を隠している大樹の前髪を揺らす。
どれくらいの時間が経過したのか、けたたましいサイレンの音で我に返る。
怒鳴るように何事かを言い合いながら、タンカを脇に置く救急隊員。呆然自失の運転手に代わりハンドルを操作し、離れたトラックとフェンスの隙間から現れたのは――
※
「――っ!」
反射的に起きた上半身。正面に見えるのは親友に貰った萌えキャラのポスター。猫の耳と尻尾が特徴的な緑の髪の少女が、変わることのない笑みを浮かべてベッドの大樹を見つめていた。
視線が落ちる。寝る前にかけていた毛布はない。蹴とばしてしまったのか、ベッド脇で蹲るように丸まっている。
起きた拍子に立てたと思われる膝に、薄いブルーのパジャマの布地が張り付いていた。頻繁な収縮を繰り返す肺に寄り添うタンクトップも、気持ち悪いほど汗まみれだ。濡れた前髪から滴り落ちた雫が頬を流れる不快さに、大樹は軽く頭を振る。
「……夢、か」
長い溜息をつき、ようやく事態を認識する。あまりにも生々しく、あまりにも現実感がありすぎる夢。
鼻腔に死と血のにおいがこびりついている気がして、たまらずえずいてしまう。咳き込み、激しさを増す呼吸と動悸。脳裏にこみ上げてくる悪夢の一片が、胸を掻き毟りたい衝動を生じさせる。
「何であんな夢を見たんだか」
イラつきがやや乱暴にカーテンを開けさせる。窓から差し込む初夏の陽光は早朝から元気で、細く伸びて勉強机の片隅にある小さな男児の人形にまで届く。
シーリングライトの白光をつけるまでもなく、洋服ダンスからフェイスタオルと着替えを取る。雨に濡れたような有様では、拭くよりもシャワーを浴びた方がいいと判断した。
※
爽やかな風が半乾きの黒髪を撫でる。耳の上側が隠れる程度の長さで、前髪も目にはかかっていないので鬱陶しさはない。
アスファルトに伸びる自分の影を踏むようにスニーカーで歩く。足取りは決して軽くはない。予定外に朝からシャワーを浴びて、気怠さを覚えているせいもある。けれど、一番は目覚ましよりも早く大樹を起こした悪夢の内容だった。
まばらに見える同じ制服姿の男女が流れていく道の真ん中。土と新緑の仄かな香りが漂う場所にそこはあった。
所々に亀裂も目立つ灰色の地面で、色が剥げてモザイクみたいになっている横断歩道。カチカチと赤に変わろうとしている信号は、今日も元気に立っている。奥に見える誰だか有名な人の名前がつけられた、こじんまりとした野球場も平和そのものだ。
――何を真剣に考えてるんだか。アホらしい。
リアリティがあったからといって、遠回りをしてまで夢で見た場所に足を運んだ自分を心の中で嘲笑する。悪夢一つで心を引きずられていたら、世界に生きる人間の大半が沈んだ顔で毎日を過ごさなければならないだろう。
目を瞑って頭を左右に振る。気分を少しでも変えたかった。
長い溜息をついて瞼を開ける。
「――おわっ!?」
いきなりドアップで映った男の顔に、バラエティ番組よろしくコミカルな驚きぶりを披露してしまう。
石膏で固められているかのようにニコリともしない男が、親友の井出清春だと気づくのに数秒かけ、大げさに安堵の息を吐いた大貴は、唇を尖らせて半眼になる。
「朝から驚かさないでくれよ、清春」
肩の位置まで軽く右手を上げる清春。恒例の朝の挨拶だが、壊滅的に愛想はない。
髪の毛が邪魔にならないという理由でオールバックをこよなく愛し、目つきが怖いのに加えて口数が少ない。当人曰く物心ついた時からそうらしく、周囲から怖がられてばかりで、中学校で大樹に声を掛けられるまでは友人もいなかったのだという。
境遇に同情したわけではないが、以来大樹は清春と行動を共にする機会が多くなった。一緒にいるようになってわかったが強面の親友は単に無口なだけで、怒りもすれば笑いもする。ただ表情の変化が乏しいので、やはり周りには上手く理解してもらえないのだが。
「……ここ、通学路と違うぞ」
落ち着いた低い声の清春が、さらにぬっと上から顔を近づけてきた。
身長が一メートル七十センチの大樹よりも頭半分ほど大きいので、そうされると結構な威圧感がある。手を振って近いと意思表示をしてから、大樹は今朝の悪夢について話す。
アホかと笑われそうなものだが、真剣に聞いてくれた清春は考え込むように顎に手を置いた。
「……夢は、本人の願望を表す……」
「願望って、俺がその事故を望んでるって言うのか?」
そんな冷血漢に思われているのかと、さすがにムッとする。
「事故でなくても……復讐したがってる。平手打ちの」
清春の指摘に、一瞬喉が詰まる。
艶やかに舞う桜の花びらとともに、高校最後の一年間が始まろうとした四月の新学期。やや浮かれ気味だった大樹は、思い出すたび陰鬱になる事件に見舞われた。
「苦手意識はあるけどな。でも、やり返そうなんて思ってないよ。俺は平和主義者だし」
「フラグが立った。夢がイベントの……スイッチ」
「やめてくれ。お前の好きな例のゲームじゃないんだ。現実でそんな展開があるかよ」
背負っている参考書の入ったバッグを揺らし、頭の後ろで両手を組む。
「見逃し易い小さなフラグこそ、重要な条件だったりする。ミドリちゃんがそうだった」
突然に人が変わったようにぺらぺらと喋り始める清春。顔もどこか得意気で、先ほどまでの人形にも似た無愛想ぶりが嘘みたいに消えている。
「あー……ミドリちゃんってのは、お前がくれたポスターのキャラだよな」
「そして俺の嫁だ」
真面目に断言する親友は、萌えアニメやギャルゲーが超がつくほど大好きなのである。しかもキャラへの愛が尋常ではなく、嫁と称したヒロインを語る時だけやたらと饒舌になるおまけ付きだ。
付き合いが長い大樹はすでに慣れているが、普段の清春を知っている人間が見たら間違いなく口をあんぐりさせるだろう。
苦笑する大樹に構わず、独特過ぎる解釈を垂れ流し続ける清春。表情は至って真剣だ。さすがは十八になって、これでエロゲができると涙した漢である。
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