第11話 映画のワンシーン
朝の通学電車に乗る前、私は少しだけ手汗を拭ってからバッグの中を確認した。そこには、一晩かけて書いた小さな手紙がある。内容はシンプルで、「この前はスマートフォンを拾ってくれてありがとう」というものだったけど、何度も何度も書き直して、最終的には3枚目の便箋に落ち着いた。
「直接は無理でも、手紙なら渡せるかもしれない…」
そんな小さな希望を胸に抱きながら、私は電車に乗り込む。彼はいつもの席に座っている。心臓がドキドキするのが自分でも分かる。手紙を渡す瞬間を想像すると、胸が高鳴り、同時に手が震えてきた。
「大丈夫、今日はうまくいくはずだ…」
そんなふうに自分に言い聞かせながら、彼の近くにそっと座った。彼はイヤホンをして、スマホを見つめている。周りの乗客たちは朝の静けさに包まれ、いつもの日常が流れているように見えた。
「今だ…」
私は意を決してバッグの中から手紙を取り出そうとしたその瞬間、電車がガタンと大きく揺れた。びっくりしてバッグを落としてしまい、その拍子に手紙がぽんっと飛び出して、車内の床を滑っていく。
「あっ…!」
慌てて手を伸ばそうとしたが、手紙はそのままスルスルと滑っていき、彼の方ではなく、なんと別の乗客の足元に行ってしまった。しかも、その乗客は、以前にも遭遇した小太りのおじさんだ。
「これは…おや? 何か落としたよ」
おじさんは私が落とした手紙を拾い上げると、にこやかに私に手渡すかと思いきや、なぜかその場で手紙を開き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! それは…!」
「ふむふむ、『落としたものを拾ってくれてありがとう』か…」
あっという間に手紙の内容が読まれてしまった。私は焦っておじさんに駆け寄り、手を伸ばしたけれど、すでに手遅れだった。おじさんは勝手に内容を読み終えると、満面の笑みを浮かべた。
「ほう、君はわしにこんな手紙をくれるとは、まったく思わなかったなぁ!」
「え、ち、違います! それ、あなたへの手紙じゃなくて…!」
「いやいや、照れることはないさ! 気持ちはしっかり伝わったよ。感謝してくれるなんて、嬉しいもんだなぁ。これを機に、もっと親しく…」
おじさんは私の言葉を遮るように、勝手に話を進めていく。私は焦りと恥ずかしさで、もう何も言えなくなっていた。おじさんは私に執拗に話しかけ、さらには連絡先を聞こうとしてくる。
「ちょっと待って、そういうんじゃないんです! あなたじゃなくて…!」
「いやいや、遠慮しなくてもいいさ! ほら、デートにでも行こうじゃないか。どこがいいかな?」
おじさんの話はどんどんとエスカレートしていく。私は必死に「違います、違うんです!返してください…」と繰り返すが、おじさんは全く聞く耳を持たない。まさかこんなことになるなんて…。私は泣きたくなるほどの恥ずかしさで顔が真っ赤だった。
そんなときだった。彼が、私たちのやりとりに気づいたのか、少し苛立った表情で立ち上がり、こちらに歩いてきた。
「それ、返してって言ってるじゃないですか」
彼の静かな、でも確かな声が響いた。おじさんは一瞬キョトンとしたが、次の瞬間、あわてて手紙を私に返してくれた。私は、ほっとしたような気持ちで彼を見上げた。
「ありがとう…」
今度は、彼にしっかりとお礼を伝えることができた。
その後、電車を降りるとき、彼は軽く笑ってくれたように思う。それだけで私は一日中ふわふわした気持ちで、何もかもがうまくいったような気がしていた。
++++++++++
学校に着くと、友達の真由がすぐに駆け寄ってきた。
「ねえ、凜! 今日の電車で、なんかすごいことになってたじゃん? おじさんに手紙読まれてたでしょ? しかも勘違いされてさ、あれマジでウケたんだけど!」
クラスメイトたちは、私が一人で慌てふためいていた姿をすでに見ていたらしい。どうやら、彼に助けてもらったところよりも、おじさんとのやり取りが彼らの笑いのツボに入ったようだ。みんなが次々と私をからかい、笑ってくる。
「もう、やめてよ…」
そう言いながらも、私は頬を染めていた。だって、今日は彼に助けてもらえたんだもん。そんな嬉しさが胸の中に残って、からかわれるのさえ、なんだか少しだけ心地よく感じた。
「でもさ、彼、カッコよかったね。あんなふうに割って入るとかさ、映画みたいじゃん?」
真由は、ニヤニヤしながら私に言ってきた。
「うん…」
私は小さな声で返事をし、ふと彼のことを思い出す。その瞬間、もう一度顔が熱くなった。
++++++++++
お昼休み、私はいつものように真由と一緒に教室の窓際に座っていた。だが、今日の私はちょっと違った。心の中にふわふわした気持ちがあって、なんというか…浮かれているというか、夢見心地というか。
「ねえ、今朝の話、もうちょっと詳しく聞かせてよ」
真由が興味津々な顔をして、私のほうにぐっと顔を近づけてくる。
「彼がどんなふうに助けてくれたの? ちゃんと目を見て話してくれたの?」
「ん、まあ…うん、そうかも」
私は視線を床に落として、小さな声で答える。思い出すだけで顔が熱くなってしまう。
「もう、はっきりしないなあ!」
真由はお弁当箱を開けながら、少し不満そうに私を睨む。
「そんなにカッコよく助けてもらったんなら、もっと詳しく話してよ!」
「うん…」
私は頬をかきながら、できるだけ冷静に振る舞おうと努めた。だけど、やっぱり無理だ。頭の中には、彼が真剣な顔で「返してって言ってるじゃないですか」と言った瞬間がずっと浮かんでいる。あの時の彼の声は、私にとってはまるで映画のワンシーンのように響いた。
「ほら、どうだったの?」
真由がじれったそうに問い詰めてくる。
「んー…彼、すごくカッコよかったよ」
私はとうとう観念して、ぽつぽつと語り始めた。
「おじさんが手紙を読んでて、全然聞いてくれないから、どうしようって思ってたんだけど、急に彼が来てね。私の前に立って、おじさんに『返してって言ってるじゃないですか』って言ってくれたの」
その言葉を口にした瞬間、またあの時の記憶が蘇る。彼があの場に割って入ってくれたこと、私のために勇敢に言葉を発してくれたこと、それがただ嬉しくて、心臓がまたドキドキと高鳴ってしまう。
「うわー、ドラマみたい!」
真由は驚いた顔をしながら、目を輝かせた。
「そんなの、本当にあるんだね! すごくない? 凜、もう完全に彼とフラグ立ってるじゃん!」
「そ、そんなことないってば!」
私は顔を赤らめて、慌てて否定する。だけど、内心はどうだろう。彼が私のことを少しでも気にかけてくれたのかと思うと、期待してしまう自分がいるのだ。
「でもさ、もしかして彼、凜のこと好きなんじゃない? 普通、あんなふうに助けに入ってくれるなんてありえないよ!」
真由はさらに畳みかけてくる。
「いやいや、そんなことないって!」
私は必死に笑って誤魔化した。でも、その笑顔の裏では、真由の言葉がじんわりと心に染み込んできていた。
「だってさ、考えてみなよ。彼って普段そんなに話さないし、目立つタイプでもないでしょ? それが、わざわざ凜のために立ち上がってくれたんだよ? もう、それって運命じゃないの?」
真由のテンションは上がりっぱなしで、まるで自分のことのように楽しそうに話している。
「う、運命って…そんな大げさな…」
私は照れ隠しで下を向きながらも、胸の中で少しだけそんな可能性を信じたい自分がいた。確かに、彼は普段あまり人と関わっている様子がなかったからこそ、私を助けてくれたことが特別に感じてしまう。
「でも、どうするの? 次はさ、もっとちゃんと話すチャンスを作らないと!」
真由が目を輝かせながら提案してくる。
「次…かぁ…」
私はぼんやりと考えながら、また彼のことを思い浮かべる。彼にお礼を伝えるチャンスを何度も逃しているけれど、今日は手紙が読まれてしまったことをきっかけに、少しだけ距離が縮まった気がした。これを機に、次こそはちゃんと話ができるかもしれない――そんな淡い期待が胸の中に膨らんでいく。
「凜、次こそは勇気出していこう! もしまた何かあったら、私も作戦考えてあげるから!」
真由は勢いよく拳を握りしめて、私にエールを送ってくれる。
「うん、ありがとう…」
私は、微笑んでその言葉を受け止める。だけど、心の中はすでに次の作戦をどうするかでいっぱいだった。
もしまた何かドジを踏んだら、彼に助けてもらえるかな? そんなことを考えながら、私はお弁当のふたをそっと開けた。
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