幕間
メトリック・モジュレーション
「人を分つのは言語だと思う?」
背中に当たる朝日が、夕日のように熱かった。彼女はこれを逃避行だと言った。バレたら一緒に怒られよう、とも。そんなことを言って、しかしきっと彼女は一緒に怒られるつもりなど毛頭ないのだ。今回も、母に見つからないよう上手く仕組まれているに違いない。
横目で隣を見る。陽射に当たった彼女の頬に、血潮を感じた。呑気にショパンを口ずさんで、先程自分が投げやった問いなどすっかり忘れているのかもしれない。
「……いいえ、分つのは思想であり、言語とは繋ぐものです」
川沿いの風は少し湿っぽくて、少し海の匂いがして、ここが河口近くであることを本能的に知覚する。せっかく玄関前で梳かしたのに、風に吹かれてすぐ駄目になってしまった。髪の長さは同じくらいなのに、通り過ぎた風だって同じなのに、すぐ傍の彼女の髪はまるで映画のワンシーンかのように靡いてみせた。無性に腹が立った。
「私たちの音色も、そうでありたいね」
彼女の細く長い十の指が、私の金色の長髪を優しく梳いて、房の一つ一つを在るべきところへ戻していく。鍵盤を撫でる指が、恐ろしい音色を奏でるあの指が、髪に頬にそっと触れて、温もりは雪の粒みたいに静かに融けた。
焦げ茶の双眸と視線が交わる。ただの少女みたいな純朴な眼差しだった。否、彼女の本質は『ただの少女』なのだ。本当にずっと昔からそうであったのに、私が、私たちが、そちらを見向きもしなかったというだけ。何の隔ても無しに真っ直ぐ見つめるのは怖くて、そう、今だって私は臆病だ。彼女がずっと怖い。
「知帆さん」
少し前で歩き出す彼女の背格好は等身大だ。『樋谷知帆』じゃないみたいだ。でも彼女は樋谷知帆であって他の誰でもない。
ポーランドの首都、ワルシャワ。コンクールは昨日終わったばかりだ。結果はわざわざ言うまでもないだろう。もはや出来レースだと、そんな愚痴を零す者もいた。大方予想通りだったから昂りはしていないつもりだが、ホテルの寝台が身体に合わなかったのかなかなか眠りにつけず結局徹夜してしまった。知帆から散歩の誘いを受けて外まで出てきたはいいが、身体が少し重い。
「なぁに、シンシアちゃん」
呼ばれて、振り向く。その緩慢な動きに応じて、彼女の毛先もふわりと小さい弧を描いた。レースカーテンがそよぐ、あのさまとよく似ていた。
「私たちは、どこへ行くのですか」
朝早く、寒いのもあってか、通りの人気は少ない。逃避行と言ったって、この身寄りもない異国の地ではどうしようもなく、どのみちこれは散歩の範疇でしかない。言葉の綾、言葉遊び。彼女はそういうものを好む。趣だと言う。
「数年前から、ワルシャワで一部屋借りているの。ひとまず、そこまで行こうかなって。ピアノしか置いていないけれど」
無駄が無くていいですね。かなり殺風景だけどね。そんなやりとりの幾つかを交わして、それから彼女は「シンシアちゃんは進学先、どこ行こうと思ってる?」と尋ねてきた。
「まだ考え中なんです。やっぱり音楽院ならジュリアードかパリか、あとはモスクワなんでしょうけど、その三つだけでもすごく迷っていて……」
個人的にはジュリアードに強く惹かれているのだけれど、母はパリが良いと言っていて──といった仔細までは漏らさなかったが、決めかねているのは事実だ。
「詳しく知りたい学校とかあったら、気軽に声掛けてね。卒業生とか紹介できるかもしれないし」
斯く言う彼女は音楽院にも音楽大学にも進んでいないのだから、時折、努力が才能に勝るというのはやはり夢物語だったりするのではないかと疑わしく思う。
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「私が救えるのは、自分の音楽が届く範囲内だけ」
届かなければ、この熱が相手の鼓膜を少しも揺らさなければ、無力だ。聴こえてこその音楽だ。響いてこその才能だ。私には音楽があった、けれど音楽しかなかった。それが樋谷知帆だった。コンプレックスだ。
北に面した部屋であるから暗い。冷えた空気が全身を覆って、肌が渇きを訴える。
朝っぱらから散歩を装って、自分の部屋に女子高生を連れ込んで、手に負えない悪い大人だ。素直に「貴方と連弾がしたい」と言えたら良かったのに、否、言えたはずなのに、咄嗟に逃げが出た。
「いやはや、凡庸な人間だよ、私とて」
自分と彼女たちの間にあるのが音楽による断絶と呼んでも差し支えのないものだと気づいたのは、いつだったか。『自分の音楽』──謂わば自己表現でぶつかり合えば、自ずと最も美しく素晴らしい境地へと至れると思っていたのに、存外そう上手くはいかないらしい。切磋琢磨からは程遠く、忌避されている。きっと自分は本当に得体の知れないものなのだろうと、傍から見たら怪物なのかもしれないと、こんなにも明確に人間の形をしているはずなのに、自分のことなのに、信じてしまいそうになる。
音楽とは人である。生命である。循環である。自然である。祈りである。私は貴方たちと音を共にしたい。まだ、諦めてはいない。
だからシンシア、私が諦めるその日までスポットライトから逃げないで。理不尽だよ。傲慢だよ。実は私も人間なんだ。ごめんね。
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