op.1

op.1-1

 彼女曰く、音楽は祈りであるらしい。人間でもあり、大地でもあり、即ち生命の営みであると。

 凡人の五感にはいまいちよく分からなかった。


 音楽に興味を抱くという経験について、自分は人並みと言うには無理があるほど乏しいのだろうという自覚があった。流行りの音楽も、この青年の耳を通れば、ありふれた騒音の一つに成り下がる。

 自分でも驚くほど、音楽への関心・理解が浅い。義務教育で扱うような初歩的な内容でさえ、もうすっかり忘れてしまった。黒丸に棒が伸びた記号が『音符』であることは辛うじて分かるが、その詳しい名称は知らない。こんな調子であるから、熱く語りかけてくる音楽家の話などは当然、分かるはずもない。常に疑問符が青年に付き纏う。

 隣に座っているこの音楽家には、自分が音楽に興味がないということを、出会ってすぐにはっきりと告げている。それを承知のうえでこのように語っているのだから、きっと、青年がそこに座っている、それだけで十分なのだろう。相槌を打つタイミングが分からずにぼんやりとしているのもお構いなしに、マシンガントークは減速の気配を見せない。

 よく分からない話を聞かされてばかりではあるが、青年が鬱陶しく思うことはなかった。自分だって、興味のある研究の話なんかは、一人で盛り上がって相手を置き去りにしてしまうことがある。それに、音楽に対する興味の程はさておき、目を輝かせながら熱く語るその姿は若々しくエネルギッシュで、青年にとっては一種のサプリメントのようなものだった。こうして若々しい眩しさを摂取することで、自分の精神的な老化を何とか矯正できている気がする。

 ふたりは同齢の若者であるが、音楽家と比べると、この青年は不相応になよなよとしていた。

「そんな、律儀に聞く体勢にならなくていいんですよ。ほら、昭正さんは研究の進捗とか色々お忙しいんでしょう。私が一方的に話しているだけなので、バックミュージックくらいの感覚で聞き流してどうぞ」

 音楽家はいつも途中で急に我に返って、青年に作業を促す。

「今はいいんですよ。ずっと根詰めてやっていても仕方ないので」

 だからどうぞ、と続きを促せば、音楽家は屈託なく笑むのだった。



「その曲、何て言うんですか?」

 ランチタイムでもないおやつ時でもない中途半端な時間帯のこの純喫茶には、ある音楽家と青年しかいないときの方が多い。だから、ピアノを弾く手が止まった今、青年の声は必然的によく通る。

 思わず口をついて出た自分の声は思いのほか大きく、数秒経ってから恥ずかしくなってきた。どうにか言葉を逃がそうと小さく咳をしたが、やはり音楽家の耳までという事実はひっくり返りようがない。艶のある黒髪の毛先が、大きく弧を描いて舞った。彼女は、豆鉄砲を食らったような表情で青年を見つめている。

 この喫茶店はマスターである老爺が独りで切り盛りしているのだが、午後一時を過ぎるといつも、昼寝の時間だからと客を放って奥に引っ込んでしまう。

 青年は高校時代からこの店に通っているためか、常連としてある程度の信頼はされているのかもしれない。だが、こんな不用心で大丈夫なものかと心配になるものだ。

 特段広いという訳でもない店内には、小さなステージがある。夜にはバーとして営業しているらしく、ジャズなどが演奏されているそうだ。その壇上で、黒光りするアップライトピアノが一際異様さを滲ませている。青年が聞いた話によれば、店主がピアニストである孫娘のために奮発して、とてもいいものを買ってきたのだとか。

「あれ、以前伺ったときは、興味ないとか仰ってませんでした?」

「ええ、まあ……」

 先程の発言が自分らしくないものであったと、改めて認識する。恐らく、傍から見ても特段恥ずべき発言というわけでもなかったはずだ。だというのに、むず痒さを無意識下で処理できない。

 快活な笑みを浮かべた音楽家は、にこにこと笑みを浮かべながら、青年の言葉の続きを待っている。

「ふと、気になったもので」

「私の音楽が、昭正さんにも届いたんでしょうかねぇ」

「……さあ、それはどうてすかね」

 青年のはぐらかした返答が肯定の意を示していることを、この音楽家は既に理解している。彼女は上機嫌そうに目を細めた。

 逃げも隠れもできない今のこの状況は心地が良いとは言えないが、かといって不快かと訊かれれば、存外そうでもない。少なくとも、研究続きの毎日の気分転換には最適だ。

「そうそう、曲名でしたね。この曲は『ラ・カンパネラ』。今度弾く予定があるので、練習していたんです。マイナーという訳でもないでしょうし、昭正さんでも聴き覚えがあったんでしょうか」

「……無いかも」

「無いんですか」

 いよいよ珍しいですね、明日は嵐かも、と彼女は好き勝手言ってからからと笑う。

 青年自身も、それこそ訊いた事をうっすら後悔しているくらいには、自分の感情の珍しい動きに困惑していた。だが、終盤の苛烈で、しかし素人にもただそれだけではないと感じさせるような怒涛の演奏を聴いていたら、何だか知りたくなって居ても立っても居られなくなってしまったのだ。


 青年は日々こうして店主の珈琲とその孫のピアノ演奏に浸っているわけだが、後者に関しては世界屈指の天才による演奏だ。耳の肥えた人々が高い金を払って聴くものを、どういう訳か彼は毎日のように拝聴している。豚に真珠と言うのも憚られる程だ。

 やや眉間に皴を寄せながら考えに耽る青年を一瞥し、天才は椅子に座り直して主旋律を軽くなぞった。

「私ね、できるだけたくさんの人に、音楽を好きになってほしいんです。音楽って、老若男女とか人種とかそういう人間の持つ複雑なアイデンティティを問わず楽しめるものなので。論理的な言語というわけではないので音色で論文は書けないけれど、音楽は言語より壁のない言葉なんです。皆にこの世にある全ての音楽を愛してほしい。私には自分の演奏が誰かの心を震わせたという実感を得たことは滅多に無いけども、誰かが音楽を好きになるための、そこに至る最初の一歩を支える踏み台になれたらと、常々思っているんです」

「目指す先が踏み台で良いんですか? というか、知帆さんほどの腕前なら、既に無数の人々を音楽の虜にさせていると思いますよ。僕のような凡夫にはさっぱりですが、今や、音楽の神の寵児だったか何だかと呼ばれているんでしょう、君」

「やだなぁ、どこで聞いたんですか、そんなこと。周りの人たちが勝手に騒ぎ立てているだけですよ」

 音楽家は思わず吹き出してしまいそうになるのをぐっと堪えて、辛うじて苦笑を浮かべた。この青年が音楽の神の云々だかを口にすると、何だかその言葉の重苦しさが消えてしまって、面白おかしく感じられる。

 昭正さんみたいな生真面目な人、紙なんて信じていなさそうに見えるからだろうな。偏見だけど、と付け加え、それらは声にすることなく胸中にしまい込む。

「そういう渾名は、値札とかスーパーマーケットのポップみたいなものですよ。大きく出たもん勝ち。その実は、そんな大仰なものではありません」

 ピアノが上手い人なんてこの世に無数にいますからね、と彼女は言うが、青年の素人目でも分かるほど、彼女の才能は明らかに突出していた。

「じゃあ、もう一度弾きましょうか、昭正さんのお気に入り」

 お気に入りと言うほどではないと青年が訂正を入れるのを待つことなく、左右の指が黒鍵を押す。


 リスト パガニーニによる超絶技巧練習曲 第三番 変イ短調 ラ・カンパネラ


 ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章のロンドの主題を、リストがピアノ向けに編曲したものだ。

 悪魔に魂を売ったとまで言われた鬼才パガニーニの存在は、同時代を生きた多くの音楽家たちに大きな影響を与えたと言われている。


このピアニスト——樋谷知帆が、『現代のパガニーニ』と呼ばれる最大の要因となった演奏を披露するまで、彼女が「伝説」になるまで、あと四ヶ月。

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