あの夏の海には帰れない

葉方萌生

プロローグ

コバルトブルー

 明滅する光が、頭の奥に見えた気がした。

 目を閉じているのだから光なんて見えないはずなのに、僕は確かに暗闇だけではない、ほのかな希望みたいなものを感じていた。

 これから死ぬってのに、希望の光だなんて馬鹿馬鹿しい。こんな時でもおめでたい自分の妄想に辟易とさせられた。


——真田春樹さなだはるきさん、いってらっしゃい。


 僕の意識がすうっと遠のいていこうとしている中、突如誰かの声が聞こえた。

 いってらっしゃい。

 まるでこれから学校に出かけていくのを見送るかのような軽い口ぶりで、誰かの声は軽薄に頭の奥で響いた。は? と僕が脳内で声を上げたのも当然だ。誰、とか、なんだ、とか、疑問を脳内で口にする間もなく、次の瞬間には僕の身体が急速に、引きずられるようにしてどこかに運ばれている感覚に陥っていた。ブラックホールにでも吸い込まれるかのような勢いだ。いや、実際にブラックホールに引き込まれたことなんかないから分からないのだけれど。とにかく、人の身では到底抵抗なんてできないくらいの速さで、僕の身体と意識は時空を超えて引きずられ、ドロップアウトした。


 

 

 人が死ぬ時の感覚がどんなものなのか、知りたいという気持ちがあった。全身の感覚が麻痺したようになるのか、過去の出来事が走馬灯のように流れ出すというのは本当なのか。だけど、そんな興味本位な思いで僕は自ら命を絶とうと思ったのではない。僕は現実に、文字通り絶望した。絶望は、目の前が真っ暗になるだけじゃない。底なしの深い穴に落ちて、地上の光すら見えないのだと、初めて知った。


「……った」


 お尻の後ろの骨——尾骶骨というのだろうか、ジンと響く鈍痛に、眠りかけていた目が冴え渡った。


「僕、眠りかけてたんだっけ……」


 眠る、という柔らかな言葉の響きに、どこか違和感を覚えつつ尻餅をついて痛むお尻をさする。ぼんやりとしていた視界がだんだんくっきりとした輪郭を帯びていき、自分が今どこにいるのかを理解した。いや、理解というより、ただ事実として情報が目に飛び込んできたと言った方が正しいかもしれない。

 草原。

 草木がザワザワと風に揺られ、周りは森に囲まれている。ぽっかりと空いた草原の中心で、僕は目を覚ましたのだ。


「は?」


 思わず口から漏れた素直な反応は、今この状況を受け入れられない僕の、せめてもの抵抗だったのかもしれない。


「ここ、どこだ」


 誰に問いかけているのか自分でも分からない。でも、独り言でも口にしていないと不安に駆られそうだった。頬を撫でる生暖かい風が、これが夢ではなく現実であるということを突きつけてくる。

 そうだ、冷静に考えよう。

 まず、自分に記憶があるかどうかの確認だ。

 僕の名前は、真田春樹。年齢は十八歳。血液型はA型、身長は百七十二センチ。体重は六十キロ。骨格が細いからかひ弱に見えてしまうのが悩みだ——って、そんなことはどうでもよくて。

 好きなことは——そうだ。

 好きなことは、歌うこと。


「更新、明日も新曲動画をアップしないと。でも明日は期末テストだっけ……——いや、違う」


 路上で歌っている時の興奮やパラパラとまばらに鳴る拍手、人が集まってきて「すごい上手いぞ」と僕を認めてくれる人たちの声、手拍子、盛り上がるラストスパート、ペンライトを持って駆けつけてくれたSNSのファンたちが放つ鮮やかな光の残像が、頭の中でフラッシュバックした。

 と同時に、頭の奥の方がずきりと痛くなる。

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