第18話 ベッドの上、カエデと〇〇〇

 夕食は何事もなく終わった。シオンはいつにもまして見栄えにこだわった料理を作り、俺とカエデはおいしく頂いた。


 カエデがどんな催眠にかかったのか定かではないが、少なくとも食事中はいつもと変わらなかった。


 食事とさまざまな用を済ませた俺は自室へ戻る。風呂の最中に襲われるのではないかとヒヤヒヤしていたが、幸いなことに――いや不幸だろうか――そんなことはなかった。


 部屋へ戻ればなんてことはないいつもの日常である。隣の部屋からは二人の姦しい笑い声がときどき聞こえてきて、俺はそれを無視して日課のエロサイト巡回を行っている。エロサイトは今日も平和である。


 俺は時間停止モノや催眠モノのサンプル動画に目を通した。そこにこの状況の解決策があるかもしれないと思ったのだ。


 しかし、ない。


 DIOの正体も、催眠の解き方も謎のままだ。ノートパソコンを閉じる。いつも真理を教えてくれる大人のビデオも今回は役に立たないらしい。


 電気を消してベッドに転がった。


 豆電球に照らされる天井のシミを数えると心が落ち着く。生まれて十数年見続けてきた天井だ。


 コンコン、とドアがノックされた。


「ここには誰もいません」


 しかしドアは開かれた。


 パジャマ姿の二人が立っている。


 シオンに背中を押されるようにしてカエデが入ってきた。薄闇でも分かるほど顔が赤くなっている。シオンはにやにや笑っていて、


「カエデちゃんと喧嘩したので引き取ってください。わたしの部屋では預かれません!」


「は?」


「さらばっ!」


 シオンはカエデの背中を突き飛ばし、下手くそなウインクをして出ていった。


 カエデはベッドの上で膝立ちになって石像みたいに動かなくなる。目が合わない。パジャマみたいな無防備な格好のカエデは珍しいので目を奪われてしまう。


 カエデがちらりと俺をうかがってすぐに俯いた。


 思わず聞いてしまう。


「こっちで寝たいのか?」


 カエデは視線を下に向けたまま言った。


「うん」


 すぐに聞いたことを後悔した。喋らずに黙ってシオンの部屋に突き返すべきだったのだ。


 こんな可愛い幼馴染に一緒に寝たいと言われて、というか言わせてしまったのに、そのまま出て行かせるなんてことできない。


 浅くなる呼吸を落ち着かせることもできないまま、俺はベッドの端により、布団をめくって歓迎の意を示した。カエデはするりと滑り込んでくる。


 布団の中で、体が触れ合うか触れ合わないかくらいの微妙な距離感を保つ。俺たちは一つの枕の端っこと端っこに頭を乗せた。


 熱い息が胸元にかかってくすぐったい。恥ずかしさを紛らわそうと俺は口を開いた。


「一緒に寝るなんて十年ぶりくらいか?」


「小四の夏が最後よ」


「意外と最近だな。なんで一緒に寝なくなったんだっけ?」


 カエデの目が険しくなる。


「あなたが私の胸を揉んだからよ。忘れたの?」


「ハハハ」


 俺ができるのは乾いた笑いだけだった。すっかり忘れてましたなんて言えない。


 ふと、カエデの濡れたように黒い瞳がすぐそばにあった。


「ねえ…… 昔みたいに……抱き枕みたいにしてよ」


「…………」


 五月雨コウというクズ男は、どうにも甘えてくるカエデに弱いらしい。困ったやつだ。


 一つ息を吸って、カエデの細くて柔らかい体に腕を回す。思いきり抱きしめたら潰れそうなくらい繊細だ。


「ありがと」


 カエデは俺の胸に顔を埋めた。


「催眠を解かないと、これから社会でやっていけないわ」


 その声音は不安をたぶんに含んでいた。背中をさする。カエデはくすぐったそうに体を揺らした。


「解く方法は教えてもらってるんだろ?」


「……うん」


「ならしようぜ」


 俺の唇に熱視線が注がれる。カエデは囁くように言った。


「催眠を解くのは好きな人とのキスだって言われたの。……そして誰でも好きになる催眠だから、つまり誰でもいいってわけ」


「なんだか屈辱的。でも役得だな」


 カエデがそう言うならそういうことにしておこう。俺とカエデはこれまで恋人未満のすごく心地いい関係でやってきた。崩すべきじゃないのかもしれない。


「役得?」


 カエデが試すように尋ねてくる。


「とっても役得だ。こんな可愛い幼馴染が催眠にかかってくれて良かった」


「口説かないでくれる? 好きになっちゃうんですけど」


「ごめんなさい」


 カエデはくすりと笑った。俺の心臓は肋骨の中でブレイクダンスを開始している。


 衝動のまま、疑問が口をついて出た。


「なあ、お前が……時間停止能力者なのか?」


 カエデは困ったように頬を掻く。


「違いますけど。まだそんなこと言ってるのね。――そんなのどうでもいいから、もっとぎゅっとして」


 反射的に抱きしめる。すでに理性は肉体の制御を手放して、特等席の観客気分で俺を見守っていた。ブレーキがきかない。


 カエデはすごくいい匂いがした。いつの間にこんな甘い香りをさせるようになったのだろうか。一緒に泥に塗れて遊んだ日を昨日のように思い出せるのに。クラクラしてくる。


「麻薬みたいだ」


「それは……褒め言葉? まあそう受け取っておきましょう」


 豊かな胸が押しつぶされて形を変えているのが分かる。絹みたいにすべやかな足が俺の足と絡み合う。なんて気持ちいいのだろうか。カエデが吐いた息を俺が吸って、俺が吐いた息をカエデが吸った。


「好きよ」


「…………」


「ずーっと好き」


 眠気が吹き飛んでいく。これはまずいかもしれない。視野が狭くなってその美しい顔しか見れなくなる。


「催眠のせいだから」


 言葉が出てこない。喉に鉛でも詰められたように機能停止していた。


「催眠のせいだし……えっちなこともしたいわ。とっても好きになってしまってるの」


 スレンダーだがむっちりとした太ももが押し付けられた。媚びるようにスリスリと俺の下腹部を誘う。


 俺は歯を食いしばり、声を絞り出した。


「それはだめだ…………」


「……そういうと思った。子どもができたら困るから?」


 俺は首を縦に振った。カエデは意地悪そうにくすくす笑う。


「ここは赤ちゃん作りたいって主張してるけど?」


「…………」


「ごめんなさい。からかいすぎたわ、もうイジメない」


 カエデは俺の上にのしかかった。オレンジ色の弱々しい光の中で彼女は大人の色香を纏っている。艶かしく美しかった。


 手が繋がれる。指の股まですべてでカエデの汗ばみを感じた。


「目を閉じて」


 女神の言葉のとおり、俺は目を閉じた。完全な闇の中で体の重みだけが俺を現世に繋ぎ止めている。それがなければ昇天してしまいそうなほど、快感が容赦なく攻め立ててくる。


 吐息が迫ってくる。


 熱がそこにある。


 そして――


 ――いつまで待ってもキスはやってこない。


 俺の体感時間がおかしいのだろうか? 気持ちよさのあまりに走馬灯を見ている? あるいは時間停止能力を得た?


 ポツリ、と何かが顔に落ちた。雨のようだ。


 目を開く。


 カエデが泣いていた。目尻から透明な雫が溢れ出して白い頬を伝い、あごから落ちてきたのだ。


 また一滴。


 カエデが泣くのなんていつぶりだろう。もうずっと見てない。初めてなのかもしれない……


 幼馴染が泣きながら言った。


「こんなのいや…… 催眠なんかで誤魔化したくない…… 大事にしたいよ……」


 心臓を掴まれて潰されているような痛みが走る。カエデが泣いて、俺も泣きたくなるほど悲しかった。


「ファーストキスだもん…… こんなはずじゃなかったのに……」


「ならやめとこう」


 俺はカエデを抱きしめた。ちょっと強すぎるかもと思うほど強めに。


「催眠を解く方法なんて他にもあるはずだ。俺が見つけてやる」


 カエデは俺の胸で涙を拭っている。


「大好きよ、コウ。ずっと一緒にいたい」


 また心臓が痛くなる。


「…………」


 やはり俺は返す言葉を持たなかった。俺は、俺たちはこのままでいいのだろうか。闇の中でカエデの背中をいくら撫でようと、答えはとうてい出そうにない。

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