第34話 突然の――
「あ~~~~、お風呂でこんなに疲れたの初めてだよ~~~~~」
ばたんきゅう、と自室の床に倒れるボク。
冷たいフローリングに、お風呂で温めた体の熱が吸い取られていく感じがするけれど、それでも今はただただ脱力したかった。
「お疲れ様でした、兄様」
一緒に部屋に戻ってきた百合はそう言いつつ、ボクの頭を持ち上げて――その下に自分の膝を滑り込ませてきた。
俗に言う、膝枕のスタイルだ。
なぜ百合にそんなことされるのか……若干疑問に思いはしたけれど、全身に力が入らなかったことと、地味に太ももの感触が気持ち良くて、抜け出すという思考には全くならなかった。
「さすがは京子先輩。兄様の髪のお手入れには文句のつけようがないですね」
そう言いつつ、百合はボクの髪を撫でる。
きょこは髪を洗う技術もそうだったけれど、アフターケアも完備だった。
お風呂から出た後はドライヤーをかけてくれたし、お風呂後のトリートメント(きょこが普段から使ってるヤツでめっちゃいい匂いのするヤツ!!)をつけてくれた。
おかげで自分でも分かるくらい、髪がつやっつやだ。百合だけじゃなく、みんな褒めてくれたし……でも。
「兄様の考えていることは分かります」
「百合……?」
「罪悪感、でしょう? 皆さんからよくしていただいても、兄様は決して明かせない秘密を抱えたまま……女性として生きねばならない現実を受け止めようとしつつも、男性であった過去も捨てられない。兄様が『姉様』として出会っていく全ての人に、兄様はこれから生まれつき女性だったと嘘をつかねばならない」
百合は言葉を濁さずストレートにその事実を口にした。
すべて彼女の言うとおりだ。ボクは意味も無く、自分が元々男性だったと口にはできない。ルールがどうこうっていうより、奇異の目を向けられるのが怖いから……。
そして、仲良くなった相手に嘘を吐くのは嫌なのに、真実を知らせて避けられるのも嫌で…………なんか、前科でも背負わされた気分だ。
もちろん恋愛もできないだろう。男性と付き合うとか、普通に嫌だし。とはいえ女性と付き合うってなってもさ、ボクは元男だ。でも今は女。
相手は必然的に女性が好きな女性になる。でも、中身が男性なボクでは、やはり裏切りに他ならない。
交際するとなれば、当然、そんな嘘だって吐いたままじゃ色々嘘になるし……。
「そう、このままでは兄様は秘密を抱えたまま、孤独に生きることとなってしまう」
百合が囁く。悪魔のように容赦なく、しかし天使のように正しさに基づく、そんな囁きをボクにぶつけてくる。
「…………」
憤りを覚えつつも、ボクは言葉を返せない。
百合は正しい。そして彼女は何も悪意を以てこの事実を突きつけてきているわけではない。
これは決して避けられない問題だ。原罪と言ってもそう遠くないレベル。
女性として生きると覚悟した。だからこの女子校に編入した。
でも、それで現実が変わるわけじゃない。
それを決して忘れてはいけない……。
「違いますよ、兄様」
「……え?」
「私は、兄様に孤独という現実を突きつけようとしているわけではありません。むしろ、その逆です」
「逆?」
「兄様が孤独に生きる必要などありません。そんな現実クソくらえです。なぜなら兄様は、兄様なのですから。この世界の誰よりも幸せになる権利がある……私はそう信じてきましたし、それは兄様が性転換されたからとて変わりません」
まるで悪魔のような容赦のなさと、天使のような正しさを突きつけてきていた百合。
しかし見上げれば、彼女はいつも通り、どこか感情薄めで、けれど乏しい表情筋をフル稼働させた優しげな表情で、ボクを見つめていた。
そこにいたのは紛れもなく天海百合だった。相変わらず大げさでありながらも、こんなボクを、男でもない、女にもなりきれないボクを『兄』と認めてくれている、ボクにとってただ一人の、できの良すぎる妹だった。
「本当はもっと先になる筈でした。しかし……」
百合は再びボクの髪を撫でる。優しく、丁寧に。
そんな妹を、ボクはただ黙って見つめ返すしかできなかった。
「兄様、私に妙案があります」
「妙案?」
「妙案にして最善策。あらゆる問題を解決する、奇跡とも呼べる絶好の一手が」
「……頑張ってそれらしい言葉を並べてるのは分かったけど」
「検討を加速させます。光の速さまで」
「そこまで速くされると追いつけなそうだな」
「というわけで」
百合は薄く笑みを浮かべて、ボクの肩に手を添え――。
「兄様、結婚しましょう」
そう、言った。
「……………………ん?」
「結婚しましょう、兄様」
つい聞き返すボクに、百合は丁寧に同じ言葉を繰り返す。若干言葉の順番は変わっていたけれど。
いや、でも、決してなんて言ったか聞こえなかったわけではないんだ。
「結婚するって、誰とだよ。百合だって分かってるだろ……ボクは男性としての過去を捨てられないって」
世の中には男性に恋する男性がいることは知っている。決して否定する気も無い。
けれど、ボクはそうじゃない。
何が正しいとかじゃなくて、ただ、ボクはそういうタイプなのだと、百合だって知っていると思っていたけれど……。
「ええ、もちろん。存じています」
当然、百合もそう頷く。
「もちろん、兄様の意思は何よりも尊重されるべきです。しかし、わたしが思うに、今の兄様に必要なのは、兄様の全てを理解し、認め、決して裏切らずその全てを兄様の幸せのために捧げられる……そんな存在ではないでしょうか。そしてそんな人こそ兄様の伴侶に相応しく、兄様の人生をより一層豊かにしてくれる筈です」
「い、いや、それは求めすぎでは!? というか、要求として重たすぎるし、あまりにボクに都合が良すぎるというか……」
「いいえ。実際にそのような存在が既にいるとなれば、重いも軽いも、都合が良すぎるもありません。実際に私は、そんな兄様に相応しい存在を知っています。そして、兄様も知っているはずです」
「え……?」
そんなの、知るわけがない。たとえ冗談だって……冗談?
「まさか……」
ボクのこの些細な呟きから、またもや百合はボクが脳裏に浮かべた人物を悟ったらしい。
正解、と言うように微笑み、同時にボクが起き上がれないように……逃げられないように、両手でボクを押さえつけ、ぐっと力を込めてくる。
「私と結婚すればいいんです」
それは男性とか女性とか、そんな悩みとはまったく別軸の大問題。
血の繋がったたった一人の妹。誰もが憧れるくらいに優秀で、特別で、将来は総理大臣になると大仰な夢を掲げていた、間違いなく遠くない未来にボクの人生で一番の誇りになるだろう、そんな彼女に。
ボクは、プロポーズをされた。
これ以上ないってくらい、一切の反論も疑いも許さないくらい……それこそ「総理大臣になる」と宣言した時よりずっと真剣な目で。
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