第30話 女医さんの思い通りに事は運ばない
「じゃあ、行ってきまーす。お留守番、ちゃんとしておいてね」
翌朝、京子先生が満面の笑みで、仕事に向かい、俺一人が留守番を任される。
ああ、ヤバイなあ……このままだと、本当に今日中にも籍を入れられてしまう。
何とかしなければと思いながらも、時間がもうない。
クリニックに押し入るわけにもいかないし、もう観念するしかないのか?
「う……何か、気分悪くなってきた」
今後の事を考えると、絶望的な気分になってしまい、急に目眩がしてきた。
ああ、嫌だ嫌だ。
このまま、京子先生と結婚させられるのなんて絶対に無理。
とても上手く行きそうにないんで、誰か助けて欲しい。
誰か……なんて考えても、そう都合良く助けが来るはずもなく、ベッドに横になって、休むしかなかった。
「…………はっ! もう、こんな時間か……」
ベッドで目眩を起こしながら、横になり、布団に包まっていたら、もう十一時を過ぎていた。
ああ、洗濯や掃除もしないと……あと、夕飯の買い物とかも。
って、もしかしてこれから、毎日こんな生活を送る羽目になるのか?
嫌だな、それは……京子先生の支えにはなりたいけど、こういう形はちょっと……。
それはなんか、男として色々、駄目な気がしてならない。
ああ、また気分悪くなってきた。どうしよう、また休もうかな?
でも、少しは動いた方が良いと思うので、無理してでも、洗濯機くらいは回しておくか。
「はあ……先生はそろそろお昼休みになるのかな?」
午前の診察が終わる時間なので、京子先生は昼休みに入るんだろうが、もし急患が入ってしまえば、そのお昼休みもなくなってしまうらしい。
大変な仕事をしていらっしゃるのは、本当に尊敬するんだけど、もう医者として色々アウトな事をやってきているので、俺がその気になれば、危ないのはむしろ京子先生の方じゃないか。
「落ち着け……まだ、やり直しはいくらでも効くはずだ」
そう言い聞かせないと、気分がまた悪くなって、ぶっ倒れそうになってしまうのだが、取り敢えず今は体を無理にでも動かそう。
「ん? 電話か……はい」
『英輔? 今日、ちょっと仕事忙しくてね。婚姻届け、出せないかもしれないの。ごめんねえ』
京子先生がそう電話してきたので、ちょっとホッとしてしまう。
取り敢えず、今日は逃げ延びたか……神様は、まだ俺に味方はしてくれているようだ。
「あの、その件ですけど、良いですか?」
『なーに? まさか、入籍をもう少し待ってくれとか? 良いけど、条件は……今夜こそ、抱いてもらうわよ』
思いっきり先回りして、そう答えられてしまったが、先生を抱くのもかなりリスキーだ。
しかし、それで入籍を少しでも待ってくれるなら、もう手段は選んでられない。
そうだよ、別に一度、二度抱いたくらい、どうって事はないんだ。
「わかりました。約束ですよ」
『本当? もう、絶対だからね。それじゃ、今夜楽しみにしているから』
最悪の事態を回避するために、もう体を売るくらいはしょうがないと思い、京子先生の出した条件を呑む。
はあ……何で、こんなに気が重いのよ。
美人を抱くのに、ここまで陰鬱な気分になるなんてなあ……どうにか逃げられないかと、考えていくが、そんな案は簡単には浮かびはしなかった。
夜中になり――
「遅いな……」
既に夜の九時になろうと言うのに、京子先生はまだ帰って来ない。
遅くなるかもしれないと言っていたが、ちょっとだけ心配だ。
いっそ、逃げだしてしまえばよかったのだが、宛もないし、まだ京子先生を説得する機会を潰したくはなかった。
「ただいま。あー、ゴメンね、ちょっと遅くなって。分娩の予定があったんだけど、思っていた以上に難産になっちゃって」
「大変だったですね。シャワー、浴びますか?」
「うん。ちょっと汗を掻いちゃって。へへ、ありがとう、英輔」
かなりお疲れの様だったので、まずはシャワーを浴びて、リフレッシュさせる。
仕事は大変なんだろうな……産婦人科とはいえ、人の命に関わる仕事だから、ストレスもたまるんだろう。
(しかし、疲れていると言うなら、さっきの約束は……)
ナシになる可能性も出て来たな。
疲れているなら、今夜はゆっくりと休みたいだろう。
そんな淡い期待を抱きながら、京子先生の夕食の準備をしていったのであった。
「お待たせー。わあ、夕飯の準備してくれたんだ。ありがとう」
「当然ですよ。今日は、豚肉の生姜焼きです」
「そんなのも作れるんだ。英輔って、料理も上手なのね。流石、私の夫となる人だわ」
何てお褒めの言葉を頂いてしまったが、夫となるかどうかはまだ未定だ。
「今夜はお疲れみたいですね。ゆっくり休んでください」
「ありがとう。でも、もうひと頑張りしないと」
「え? 何か仕事でも残っているんですか?」
「もう、しらばっくれて。約束したでしょう。私を抱くって」
ちっ、やっぱり今夜やる気なんだ。
疲れているのだし、明日も仕事なんだから、休んでくれれば良いのに、そんな気はないようだ。
「ねえ、婚姻届けはいつ出しに行く?」
「いつでも良いんじゃないですか。もう少し、愛を育みましょうよ」
「きゃー、そうだよね♪ じゃあ、早速、今夜、その第一歩を育もうね♡」
また調子のいい事を言ってきたが、今夜はもう覚悟を決めるしかないのか。
くそ、何か奇跡が起きてくれ……このままだと、俺は……。
「あれ、電話か……すみません、出ますね。はい」
『あらー、英輔。元気していた?』
「母ちゃん。どうしたの?」
俺のお袋から電話が来たので、何かと思い、
『実はねえ。お父さんが入院しちゃって』
「は? 入院っ? 何かあったの?」
急に親父が入院したと聞かされ、一気に血の気が引く。
持病は高血圧くらいしかなかったはずだが、一体……。
『仕事中に、急にお腹が痛いって言いだして、救急車を呼んだんだって。そしたら、尿路結石だっていうのよ』
「尿路結石……」
聞いた事はあるが、どんなだったかな。
『命に別状はないけど、取り敢えず、二、三日入院する事になったから。あんた、今、何をしているの? まだ仕事見つかってないんでしょ?』
「ああ……じゃあ、ちょっと行ってくるかな」
聞いた限りでは大した事なさそうだが、一応、見舞いには行ってみるか。
『入院している病院はね……』
「うん。ああ、わかった。あそこだな。じゃあ、明日にでも行くわ」
と言って、電話を切る。
「あ、あの……何かあったんですか?」
「いえ、親父が入院したらしくて」
「えっ! 何があったんですか?」
「尿路結石とか言ったんですけど、これ大丈夫なんですかね?」
「ああ、わかります。尿道に石が溜まってしまう、腎疾患ですね。早めに対処すれば命に関わる病気はないんですけど、凄く痛いらしいですよ」
京子先生が言うなら、大丈夫のようなので、ホッとしたが、そんなに痛いのか。
何か困るなあ。
「すみません、明日、病院行って、見舞いに行くので……」
「大変ですね。私は仕事があるのですが、お大事にとお伝えください」
と言う訳で、明日は朝から実家に帰る事になってしまった。
思いもかけないハプニングであったが、結局、京子先生との約束もお流れになってしまい、俺としては命拾いした形になったのであった。
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