43. アマネ

 浮上した意識に誘われ、アーティはうっすらと目を開けた。

 柔らかな木漏れ日が降り注ぐ下で、薄紫色の花房が覆いかぶさるように頭上で揺れている。視界は良好。さっきまでの痛みが嘘のように消え、元の明瞭な極彩色の世界へ戻ってきた。


「ここは……?」


 緩慢に起き上がって周囲を見渡す。倒れていたのは木々に囲まれた山の中。マコト、ララ、ウォッチャー二人の姿はない。


「何が起きてるの……?」


 呆然と呟いたその時、近くの木から烏が勢いよく飛び立った。誰かいるのかもしれない。音がした方へ恐る恐る足を向ける。

 山藤の蔦が這う木々の間を進むと、水で削られた白い流石が無数に転がる川辺に出た。緩やかなせせらぎに陽の光が無数に乱反射する。カメラがあれば写真に収めたいところだが、残念ながら今は持ち合わせていない。

 清廉な空気を感じる静かな川を興味深げに見渡していたアーティは、ある一点で全身をギクリと強張らせた。


(ちょっ……! あ、あれって、女の人!?)


 視界に入ったのは、光が透けそうなほど白い背中。濡れた長い黒髪がしっとりと張り付いた艶めかしい素肌の曲線美を前に、とっさに木陰に隠れて息を潜める。流れが緩やかな浅瀬で水浴びをしているようだ。乾いた木の実と動物の骨や角があしらわれた数珠を付けた手が、身体の隅々を撫でる。細腰から下肢へかけての円やかなラインもくっきり見えて、思わずその光景に釘付けになっていると……。


「……覗き見?」

(ヒィイッ!?)


 鈴の音のように澄んだ声に問われ、一気に血の気が引く。まずい、どこからどう見ても覗き魔である。言い逃れはできない。


(で、でも、これは邪心のない不可抗力で、言うなれば天から舞い降りた幸運でありヴィーナスの悪戯のようなもので……!)


 真っ白な頭の中で頓珍漢な弁明を連ねていたら、近くの低木から子どもが一人、姿を現した。


「ぼくが、みえるの……?」


 十歳にも満たないであろう小柄な少年だった。優しい黄色みを帯びた白い上着は袖が大ぶりで、同色のボリュームのあるズボンは細い足首ですぼまっている。平安時代から子どもが着る水干という着物だ。

 女性は近くに置いてあった薄手の着物を羽織ると、声のする方へ振り返る。


「ごめんね、。でもあなたの歌は聞こえていたわ。最近ずっとこの辺で歌ってたでしょう? ひらいた、ひらいたって」


 そう言って微笑む女性の両目を覆うのは、酷い火傷痕。焼け溶けた瞼がくっついて目が開かないのだろう。よく見ると腹や太腿など、身体中のいたるところに焼け爛れた痕があった。


「みえないのに、きこえる……? なんで? どうして?」

「どうしてって、変わった子ね。あなたがそこにいるからに決まってるじゃない」

「……!」


 それを聞いた少年は、淡い黄色の大きな瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。そしてわき目も振らず駆け出して女性に飛びつく――が、少年はまるで空気のように通り抜け、その場にぺしゃりと倒れ込んだ。


「坊や、どうかした?」

「……ううん、だいじょうぶ」


 女性は声を聞いて相手の位置を大体把握し、顔の高さが同じになるよう膝をつく。頭を撫でようと手を伸ばすが、指先は少年の頭をすり抜けて宙を撫でるだけ。雲を掴むことが叶わないように、彼女が少年に触れることはできなかった。

 女性は不思議そうに首を傾げた後、ミミズが這ったようなケロイドだらけの目元を下げて寂しそうに微笑む。避けられていると思っているようだ。


「私の顔、怖い?」

「こわくない。きれいだよ」

「まぁ……ふふっ、お世辞でも嬉しい」

「ほんとうだもん。ねぇ、またあいにきてもいい?」

「それは……」

「だめ……?」


 女性は少し考える素振りをする。風の音だけが聞こえる時間がしばらく続いた。


「私と一緒にいたら、お友だちにいじめられちゃうわよ?」

「ぼく、ずっとひとりなんだ」

「そう……じゃあ、私と一緒ね」

「いっしょ……!」


 何がそんなに嬉しいのか、少年は感動で瞳を輝かせる。まるで宝物を見つけたような表情だ。

 それから一言二言交わして、彼は嬉しそうに手を振って駆け出した。行き先はまさかのアーティが隠れている木陰である。


(ま、まずいっ!)


 焦って身を隠そうとするが、走って来る少年の顔を真正面から見て、アーティは再び硬直した。ずいぶん幼い顔をしているし、特徴的なオッドアイでもない。それでも見紛うことも難しいほど色濃い面影があった。


「マコト先生……?」


 放心状態でそう呟いたアーティが視えていないのか、彼はそのまま真横を通り過ぎて行く。そして、思い出したように女性の方を振り返った。


「ねぇ、なまえは?」


 衣服を整えた彼女は濡れた髪を紐で縛り、皮膚が引き攣った口元を綻ばせた。


「アマネよ。またね、坊や」

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