(十一)
純暦一九一四年。十二月末。
冬期休暇のただなかにある生徒寮は、いつもより閑散としていた。多くの生徒は、長期休暇を迎えると里帰りをして、家族と過ごす。たとえ国際会議が迫っていても、大半の生徒たちはあまり気にしない。彼らにとっては、自分が年の瀬をだれとどう過ごすかのほうがとうぜん重要であり、国際的・社会的な問題は、興味の外だ。
その日、暇をもて余したアイは、ケインの研究室にある魔導映像機をぼんやりと眺めていた。休暇中の課題はここ数日図書館へ通っていたらすっかり終わってしまい、クラスメイトたちの多くが帰省していて遊び相手もいない。いつもならこうやって暇をもてあましたときはレクサスとつるんで暇をつぶすのだが、先日のことがあるせいで顔を合わせにくい。
世界情勢で渡航が制限されたレヴはイルフォールに残っていたものの、直観の良い彼は、アイにすぐに何かがあったことを見抜いてしまうだろう。無駄に心配をかけてしまうのも
そういった理由で、かれこれ一ヶ月近くご無沙汰しているケインの研究室へかってに上がらせてもらったのだった。この研究棟なら、レクサスもレヴも、そうそう来ないだろう。
ちょうど今日は、このイルフォール島で国際会議が開始される日だ。島民の大人たちはさながら、本大陸中も注目していることだろう。マユウヌス連邦、スウィル公帝国、コクヤゥ共和国、エラグニ王国……ほかにもさまざまな国の代表が、イルフォール島の大地を踏むようすが数日前から記録され、こうしてくりかえし放映されている。――そうそうたる顔ぶれだ。
おもむろに、学園街の国際会議場がうつしだされる。警備兵が虫一匹の侵入すら許さないというようすで目を光らせ、各種報道陣が注目しているさまも中継されている。このようすでは、西区の孤児院周辺の移動は不便だろうな、とアイは苦笑した。――そういえば、ロロに本をもって行ってやる約束をしていた。明日は図書館でいくらか本を見繕ってやるのも良いだろう。もっとも、手渡すのはしばらく先になりそうだが。
正午過ぎ。いよいよ会議が始まる時間になると、中継は会議場へ移った。各国の代表が、厳めしい顔つきで円卓に腰かけている。アイはサイドテーブルに手を伸ばし、コップの水で喉をうるおした。
そのとき。
ジラ、と画面がブレた。今なにか――。
瞬間。つきつけられたのは、夏のような青色。その眼下に広がる土壁の下町。青白く遠のくイグラシアの王城が映ったかと思うと、パッと眩む。青白い球がまたたく間に王城を飲みこみ、ド、ォ、と轟音が震わせた。モウモウと黒い煙が立ちあがり、青ざめた空を
唖然。
魔導放送が乗っ取られたのだと思考がささやく。
相反。
こんなものはなにかの冗談だと感情が反発する。
きっと最近ちまたで噂になりはじめた大衆向け娯楽映像に、なにかしらの皮肉を利かせた
また、画面が変わる。同じように煙をあげているヴァリアヴル・タワー。マユウヌス連邦の人族宣言の巨像が、次々と光に呑まれ、跡形もなく消えていく。
「なんだ、これ……」
やっと言葉にできたのは、それだけだった。
最後に映ったのは、玉座だった。スウィル公帝国の王城だ。玉座には、さも当然のように何者かが腰かけているが、いまイルフォールにいる皇帝陛下その人ではない。
――わたしは世界を変えます。
脳裏に、
仮面の奥に素顔を隠したその男は、長い足を悠然と組みかえて、社会を眺めるように頬杖をついていた。男はゆっくりと、もったいぶって立ちあがる。溶けるような薄氷色の髪がさらりと零れ、白いコートにきらめく。長い指が壮麗な杖をなぜる。男は薄いくちびるをひらいた。
わたしの声が聞こえるか。
社会に
国を嫌うすべての者よ。
今日を生きるすべての者よ。
あなたの血と汗は、なにがために捧げられている。
わたしはこの世すべてに問おう。
国は
あなたは今日をどのように生きているか。
誰かに虐げられることを是としているなら、それはまちがいだ。
愛する者がためと自らをだまし、
罪なき民草が殺しあうことは、不当きわまりない。
だがしかし、国は、社会は、世界は、
あなたはすでに知っている。そしてあなたは気づいている。
我々は新たな時代を迎えるべきだ。
そしていま、世界はあなたのために、あなた自身の手によって変わる!
無為に泣き叫んできた者よ。いま一度声をあげなさい。
諦めていた者よ、ここから夢を見なさい。
男は、隔絶された画面の向こうで、仮面に手をかけた。紐をほどき、高く、大きく投げ捨てる。白い裾が神々しくひるがえる。整った相貌があらわになる。瑞々しい深青の瞳が、まっすぐに世界を射貫く。
これまでの常識を壊しなさい。
理想を掲げなさい。
わたしはディストピア。
種族の垣根を超え、
わたしはディストピア。
新しき時代の父となり、この大地の
我らは魔国〈ディストピア〉。
この名とともに、あなたの世界はなにもかも変わる!
彼が大きく杖を掲げた瞬間、彼の王座は氷で彩られた。壮麗
アイは脳裏で、幾百、幾万の魔族たちが雄叫びをあげるさまを垣間見た気がした。奪われた放送が元へ戻る。世界はざわめいていた。アイは、呆然と画面の向こうを眺めたままでいた。
「なんで」
サファイアは世界を変えると言った。それは憎しみでなく、これからの未来のために。それが、この
「だって、言ったじゃん。魔族と人族の共存。両者の対等な社会って、なのに」
刹那。
光がつきぬけた。
自分のせいだ。両の腕で膝を抱えたまま、幼いアイはじっと部屋の片隅で待っていた。そうすれば、きっと誰かが殺してくれるだろうと思っていたからだ。孤児院へ連れてこられてすぐ。最初は声をかけてくれたほかの子どもたちも、アイがなんの反応も示さないと、つまらなさそうに、あるいは不快そうな顔をして去っていく。しまいには誰も寄りつかなくなった。先生たちが作ってくれた大事な食事にさえ手をつけないようすを遠目から非難がましく見る目もあったが、それは当然のことで、むしろそうあってしかるべきだとアイは思っていた。なにもいらない。罰と死が欲しい。そうでなければ、
耳をつんざいた破裂音は、あの時に聴こえた音とよく似ている。バケモノが、その白い腕が傷つくことも厭わずに、窓をつき破ったときのような。
暗い。暗い。――あの時みたいだ。
指先を這わせるようにして、まぶたをうっすらとひらく。薄暗い室内だった。割れた窓ガラスの破片がとがった光を反照させたまま、壁掛けの大陸図を食い破るように穴をあけ食いこんでいる。もしも窓際にいたらと思うと、ゾッとした。運が良かった。くらくらとする頭をささえるように、身体を起こした。衝撃で
立ちあがって、窓辺へ。ぽっかりと境界を失った穴から、学園街を見やる。おかしい、と思った。学園街が、まるで見あたらない。
「せんせ……ロロ……?」
脳裏で孤児院の先生や子どもたちの顔が次々と浮かんでは、街だった場所を焼き尽くす業火へ消えていく。
今すぐに助けに行かなければいけない。――いや、むしろここから逃げたほうがいいのではないだろうか。安全な場所は。レクサスやレヴ、イナサは無事だろうか。アイは思考をめぐらせたが、相反して膝は崩れ、身体はまるで意志を失ったようにいうことをきかなくなった。暗闇で腰を折るようにして、アイは頭を下げた。
学園街が空を埋めつくすほどの黒い煙になるさまを、誰が想像できただろう。考えてみれば。もし
純暦一九一四年。十二月三十一日。
この日を境に、世界は大きく変わってしまった。
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