(九)

 純暦一九一四年。十一月初旬。

 イルフォール学園は、毎年この時期になると、国立ヴァリアヴル大魔導学院との交流会をおこない、これにイルフォール学園高等部の生徒らは参加することになっている。

 昨年はイルフォール島での開催だったが、今年度の開催は、魔導国家ヴァリアヴル。そこは魔導術を極める者や魔導学を追究する者、また魔導技術者たちが集まる、本大陸のなかでも有数の魔導先進国だ。

 中央区から外周へ密集しながら群れる建物群は、どれも魔導技術を結集したもので、魔導式自動階段や魔導昇降機はそこかしこにあり、国内を移動する転移魔導門も各区域に存在している。上空には浮遊客車が運行され、なかでも目に留まるのは中央のヴァリアブル・タワーだ。てっぺんに巨大な主要魔導機構が浮遊し、さらにその外周を回っているのが、小さな球形の補助魔導機構。表面から内部まで、魔素回路でびっしりと構築されたその機構は、回路をおびただしく移動する魔素の発光によって、美しく輝いていた。

 まさに魔導都市と呼ぶにふさわしいこの光景は、イルフォールの生徒たちが暮らしている自然豊かな島国とは真逆の、まさに大都会。生徒たちは転移魔導門をくぐった瞬間、発展した魔導技術に圧倒されるほかなかった。


 イルフォール学園の生徒は各学年に別れ、一年は観光案内。二年は国立ヴァリアヴル大魔導学院での講義と進路相談。三年は都内の各魔導施設の就職見学会となり、晩は両校の生徒そろって、ヴァリアヴル大魔導学院での会食を迎えた。

 会食では開会とともに各校の議会・生徒会のあいさつや、今回の交流会に協力している魔導施設の関係者などの話や最新技術の紹介が続き、そのうちに楽団の演奏がはじまると、いよいよ両校は交流を始める。イルフォールとちがって、魔導学院の年齢層はじつに豊かだった。若い生徒らはそれこそ、出会いを求めて積極的な交流をしている者も多く、彼らは舞踏が始まると意気揚々とホール中央へ躍り出た。そういった交流に興味のない者は、たとえばケインのように、手近な者と魔導技術開発の話をしはじめる。彼らは次第に楽団の音色も耳にはいらなくなったように、興奮したようすで互いに議論に熱中し、展望を語り合っていた。給仕はどれも魔導人形マナ・ドールと呼ばれる最新の人型魔導機器だ。アイが先ほど魔導人形マナ・ドールからグラスをうけとりながらいくらか会話してみたところ、特定の文言にたいして簡易的な応対や施設内の案内ができるらしく、すなおに感心したのだった。

「アイ」

 声をかけてきたイナサは、アイと同じように、制服のうえに正装用のケープを身にまとっていた。首元の巻き布クラヴァットと艶のあるベストとの合わせは、上流階級の所作が身についているだけあってかなりサマになっている。

「イナサ、お前、ずいぶん人気者じゃねぇの」

「ええ、このあとどうか、って聞かれました」

「どうすんの」

「さて、どうしましょうねぇ」

 イナサは朗々と笑った。

「ドレスは着ないのですか?」

「ま、な。イケメンだろ?」

「新しい彼女はできました?」

「年イチしか会えない遠距離で、オレが耐えられると思う?」

「無理じゃないですかねぇ」

 二人でけらけら笑っていると、そのうちにレクサスとレヴが合流した。場の空気に辟易としはじめた四人は、高揚したホールからベランダへ。いくらか夜風は涼しかったものの、いま時期のイルフォールと比べると、ヴァリアヴルの気温はかなり高い。

「っ暑いよぉ」

 レクサスが巻き布クラヴァットをゆるめるなり、だらりと柵に腕を下げた。

「ヴァリアヴルは建物の密集化で、街自体の気温が上昇傾向にあるんだと」

 アイはレクサスのとなりにならんで、かるく仰いでやった。

「しっかし、レヴ。お前ちゃんとサマになるもんだな」

 にぃ、とレヴに目線を投げる。最近、彼の身体はさらに分厚く、たくましくなっていた。正装を身にまとった彼は、それこそ本職と並べても見劣りしない、勇猛果敢な騎士のようでもあった。

「お姉ちゃん寂しいよ」

「誰がおめぇの弟じゃ」

「しかたねぇな。じゃあ百歩ゆずってイケメンな妹になってやるよ」

「じゃかあしい! 妹はおるけぇこれ以上いらん」

 レヴが目じりをつりあげると、レクサスが横から「おにーちゃんおれもやしなって~」ととびついた。

「弟もおる! こねぇにでけぇ弟はいらんわ!」

 アイはからからと笑いながら、でかい子ども二人を指さした。

「レヴが兄貴とか似合わねー!」

「あんまりちばけたこと言いよったらブチかますぞ」

「「きゃーっ、おにいちゃん怖~い」」

 アイとレクサスはいっせいにかけだして、レヴのまわりをぐるぐると回りはじめた。

「おめぇらいいかげんにせぇよ!」

 そのときだった。

「ふっ、くく……」

 笑い声に、三人はピタリと動きを止めた。

「ふふっ、あははははは!」

 イナサが笑っている。いつも平生としているはずの、あのイナサが声をこぼして笑っている。三人はそのようすに目を奪われた。しかし、ただ彼が笑っていただけなら、こうも長いあいだ、彼を見つめて黙っていることはなかっただろう。

 黒だ。

 魔導都市の鮮やかな夜を薄くすかした黒翼が、両手を広げるよりも、もっと大きく広がっていた。まるで星空のような、黒。きらきらと遠く輝く光が、イナサの笑みを彩る。翡翠色の瞳に光がまたたいた。流れ星のようだった。

「あははは、こんな時間がずっと続けばいいのに」

 亜麻色の髪が夜風になびいたこのとき、さらに、奇妙なことがもうひとつ起こっていた。彼を中心にして、優美な黒色のつるが手をのばし、有機的な紋様を描きだしている。それはさながら、術士が展開させる魔導術式のようでもあったが、それよりも、もっと複雑であり、さらにいえば立体的。幾重にも展開したそれは、彼の鼓動に呼応するように枝葉を広げた。

「イナサおめぇ」

「あ」

 イナサは、はっと気がついたように両手をあげると、あわてて中空をかきまぜた。優美な紋様は掻き消え、魔素が霧散する。彼はそれをおいはらうように、黒翼をぱたぱたと気恥ずかしそうに動かした。

「わ、わぁ~やっちゃいました。すみません、忘れてください」

「おめぇ天翼族じゃったんか」

「でもでも、使んです。なので、そこは期待しないでいただけると」

「すごい! すごい! いまの奇麗!」

 レクサスが興奮したようすで、イナサの周りを跳びまわった。

「これ、羽? かっこい~! 飛べるの?」

飛翔ひしょう能力はないですよ。魔導術を使えば飛べますけど、俺には無理ですねぇ」

 イナサはまだいくぶんか恥ずかしそうに翼の先をふるわせた。

「ふだん、見えないよね。なんで?」

「天翼族の翼って、いわば圧縮された高濃度の魔素でして。その濃度を変えることで、見えたり見えなくなったり……」

「へぇ」

 アイが翼をながめると、イナサは苦笑した。

「なので、もし見えなくても。魔素に敏感な人は、おかしいなって、思うはずです」

 イナサはそこまでいうと、両手を頬にあてて、赤くなった頬の熱を冷ますように、息をはいた。肩の上下にあわせて、翼もまたゆるやかにひろがって、閉じてとくりかえす。しばらくすると、彼の黒翼はすっかり見えなくなってしまった。

 おもむろに口をひらいたのは、レヴだ。

「イナサ、おめぇどうして隠しとった」

 その答えを、イナサはすぐに返さなかった。返せなかったのだろう。このとき、彼はただ翡翠色の瞳を、あどけなく丸くするばかりだった。彼がもし次に口をひらいたなら、「そうすることがあたりまえだった」などという意味合いのことを言っただろう。しかし、イナサが口をひらく前に、レヴは「ええ」とだけ言って、いっぽう的に話を終わらせてしまった。

 レヴはその後、しばらく黙っていた。



 交流会の会食も無事に終わり、一行いっこうはヴァリアヴルに用意された宿へ向かう。アイは島でしばしば夜に出歩くことがあったが、これほどまでに賑やかで明るい夜を知らない。あわよくば散策してやりたい、という思いもあったものの、身に着けている学園の礼装が、それを許してはくれないだろう。アイは肩をすくめて、宿までの帰路を五感で楽しむことにした。ヴァリアヴルの音に耳をかたむける。人の声。自動音声装置。魔導技術の駆動音。足元に響く振動は、広大な地下の影響だろうか。

「たしか、ヴァリアヴルって、南東に鉱山があったっけな」

「ああ。ありますねぇ」

 イナサがうなずいた。

「たしか、魔鉱石が産出するとか」

「魔素資源に恵まれてんねぇ」

「それだけじゃないと思います。この国は技術者も多いですから、きっとまだ他に公開していないものがあるはずですし」

「だろうなー」

 アイはうなずいた。

「目に見える魔導機構って、象徴的でわかりやすいけどさ。あれが落ちていっきに使えなくなったら、都市機能が終わるじゃん。だから、そうならないための対策はあると思うんだよな、なにかしら。ったく、掘れば掘るほどいろいろ出できそうな街だよな」

 話しながら、街の喧騒が急に遠くなったのは、国立自然公園に入ったからだった。長い水面が都会の喧騒を吸いこんで、やわらかく夜を波立てる。街灯りは揺れるが、そのせいで星は浮かばなかった。ぬるい風が指先を通り抜ける。連れだって歩く音が、響く。アイは後ろをついてくるレヴを見あげた。少しの違和感。彼は、こんな顔をしていただろうか。たしかに、入学当初よりいくぶんか精悍せいかんになったが、そういった造形の話ではなく――ちがう。表情だ。その表情が、前よりもぐっと大人びていた。

「……〈ノア〉」

 あまりに静かなレヴの声に、三人は思わず足を止めた。彼がなにをいったのか聞きとれなかったが、アイは、たしかに彼のくちびるが動いたことを目にした。輪郭の太い双眸そうぼうが、まっすぐにイナサをとらえる。

「おめぇがわざわざ翼を隠す理由が、ほかに見あたらん」

 金色の眼光が鋭く尖る。

「おめぇが、魔導兵器〈ノア〉か」

「ご存知でしたか」

「ちばけたこと言いなや。戦に関わる人間で、そん言葉を知らんもんはおらん」

 レヴは言った。

 イグラシアの魔導兵器〈ノア〉。それは黒い翼をもつ、魔導術の使い手だという。近年、イグラシアの戦争では、兵士の間できまったように「黒翼を見たら逃げろ」という言葉がささやかれているそうだ。

「〈ノア〉が現れた戦場は、敵も味方もほとんど残らんのんじゃ言うて、そねぇな話を当主様がしよった」

「それで、どうなさいます?」

 イナサはいたって平生だった。

「おめぇに聞きたいことはぎょうさんある」

「でしたら、歩きながらお話しましょうか」

 イナサは黒翼をあらわにした。都会色を透かした黒でばさりと空気の音を立てた彼は、背中を向けてゆるやかに歩きはじめる。今日の晩御飯を決めかねるように「ん~」と咽喉を鳴らす。なにから話すか、思案しているらしかった。

「イグラシア国王――リオンゼル=ブランシュ・ド・ラ・イグラシア国王陛下こそ、わたくしの父にあたる御方でございます。とはいえ、私は生まれながらの黒翼でございましたから、国王陛下を父様とお呼びできる身分でもございませんし、ましてや、親子のようなふれあいなど、とんでもないことでございます。私は本来、生まれたその瞬間に処分されるべき〈罪深き黒〉でしたから。しかしながら、私がこうして生きながらえることになったのは、ほかにない魔導の才――才、というべきか、私にははなはだ疑問ではございますが。ともあれ、国は私に利用価値を見いだした」

「それで、兵器〈ノア〉」

 アイが訊ねると、イナサは平生とうなずいた。

「ええ、私は〈ノア〉と名づけられました。しかし、多くはその言葉自体をはばかって、たいてい、アレとか、ソレとか。そういう……まぁ、私は戦争のための兵器ですから、指示がわかれば、なんでもかまわなかったのですが」

「いつか、戦争に戻っちゃう?」

 レクサスが不安そうに、彼の翡翠色を見あげた。

「いいえ」

 イナサは首を振った。

「私はもう、魔導術をほとんど使えないのです。つまるところ、利用価値はないに等しい。たとえ国へもどったとしても、処分されるだけでしょう」

「じゃあ、生きたくてイルフォールに来たの?」

 レクサスの問いに、イナサはまたも首を振った。

「私はちゃんと、死ななければいけないのです。きっと私には、本来こういう平和な時間は許されないのでしょう。私はそれだけ人を殺してきました。何千人。何万人――数えきれないほど、尊い命と時間を、奪ってきたのです。それも私は、ただ特別な意志もなく、信ずる正義もまたなく、ただ、それを求められるがゆえに、そうしてきたのです」

「だから罪悪感?」アイは訊ねた。

 イナサは首を振る。

「いいえ。それらに関して、私はなんのひとつも、罪を感じたことはありませんでした」

 まぶたを閉じ、それから数秒。繊細にひらいた亜麻色のまつげが、ただ静かにあがった。

「私はただ一人、師をこの手で殺してしまったことだけを、きっと、悲しんでいます」

「それって、魔導術の?」

 アイが訊ねると、イナサはうなずいた。

「彼女は、何番目かに私のもとへ訪れた、亜人の魔導術士でした。そのころにはもう、私は人からわざわざ教わるほど魔導のあつかいに不便していたわけでもなく――ただ、当時の私にあてがわれていた寝床というのは、城の使われなくなった旧塔でして。そんなかび臭い場所に訪れる者は、最低限の使用人をのぞいてほとんどおりません。その時期ちょうど戦争もありませんでしたから、有り体にいえば、兵器の私はたいそう暇をしておりまして」

「話し相手が欲しかった、と」

「ええ。ですから、てきとうに取り入って、遊んでやろうと思ったわけです」

「お前さぁ、腹黒いよなぁ」

「それほどでもぉ」

「褒めてねぇ」

「さて、亜人の魔導術士には、いままでとちがって暇をしませんでした。亜人という立場からか、世間の酸い甘いもよく聞かせてくれ、かといって、過大な自尊心はなく、気が弱いわけでもなく……自分の努力と、それに見合うだけの自信をもった、魅力にあふれた方でした。私はそれまで、てんで努力という努力をしてこなかったので、いままでの自分と、彼女をあなどってしまったことを多少恥じまして」

「多少かよ」

 アイのツッコミに、イナサはにっこりと笑った。

「私は態度をあらためて、彼女の言うことをすなおに聞きました。読み書き算術、その他いろいろと必要な生活の知識は、すべて彼女から賜ったものです。そのうちに、まぁなんと申しますか、男女の仲になったわけでして。国は、平生の私が従順に、おとなしく言うことをきくからと、安心したのでしょうね。彼女の立場は、亜人ながらも少しずつ良くなり、彼女は以前から語っていた夢をいよいよ実現できると、なお意気込んで喜びました。けれども、それはついえました」

「どうして?」

「彼女は、王朝に反発する諜報活動組織の一員でした。その夢というのも、革命計画のひとつだったのです。王朝は私に、彼女を処分することを命じました」

 アイは固唾かたずを呑んだ。

「どう、したんだ」

「殺しました」

 イナサは淡々と言った。

「とくにためらいなどはありませんでした。国が殺せと命じ、また彼女もかまわないと微笑んだから。私にはとくべつ殺さないという理由がありませんでした。けれども不思議なことに、彼女を殺した晩から。私はどうしてか、毎日彼女の夢を決まって見るようになり、彼女に触れた感触も、まるで現実のように思い起こされるのです。私は日に日に魔導術を制御できなくなり、しまいには、私のちからは、より悲惨なものへ変わってしまいました」

「ヒサンなもの?」レクサスが首をかしげる。イナサはなおも平生としたまま、アイへ視線を向けた。

「アイはご覧になったでしょう? なにもかもを黒く滅ぼしてしまうアレを」

 イナサはわざわざ革手袋を外すと、そのあたりの小石をひろってみせた。次の瞬間、彼の手のひらの上で、その小石はまたたくまに黒く崩れ、風に乗ってさらさらと消えてしまう。彼の左手の甲には、魔導術式というには、禍々しく、しかし優美な紋様が刻まれていた。

「彼女を殺してからの記憶はあいまいで、地下牢につながれまま、おそらく二年ほど過ごしたのだと思います。しかしあるとき、〈処分〉という言葉を聞いて、私は意識の輪郭をとりもどしました。漠然と理解しました。私は要らなくなったのだろう、と。けれども、私はただの兵器でしたし、むしろ、ここまで利用されたことは、じゅうぶんに有意義だったと言えましょう。ですから、なんらかまわなかった。かまわなかった、はずなのです。しかしどうしてか、また彼女の夢を見る。私にはわからなかった。ただひとつ。そのときにはっきり思ったことは、彼女に殺されたかったという、ただそれだけでした。しかし困ったことに、彼女はもうどこにもいないのです。おかしな話です。途方に暮れた私はまた夢を見ました。彼女が楽しそうに語った、学生時代のことでした」

「それで、イルフォールに?」

 アイの問いに、イナサはうなずいた。

「私には、ほかになにもありませんでしたから」

「憎く、ないのか?」

「はて……」

 イナサは頭のすみからすみまで思考をさぐるように、首をかしげた。

「これらの――おそらく、理不尽、と表現したほうが良いのでしょうか。私はこの理不尽について、それほど、どうとも思えないのです。そのように生まれたからかもしれません。あるいは、私が本当に、兵器だからかも」

「ちがう。それはちがうよ」

 アイは首を振った。

「それはさ、お前がそれ以外の生き方を知らないってことだよ。だから、見つけよう。オレが見つけてやるから。兵器ノア以外の生き方をさ」

 アイが手を伸ばすと、そこではじめて、イナサが苦笑した。

「だめですよ」

 彼は左手を引いて、

「不用意に触ろうとしては、いけません」

 と言う。

 その瞬間、アイの胸中に、ストン、となにかがに落ちた音がした。おそらくそれは、レクサスも、レヴも同じだった。

 イナサという人間は、きっと、自らの感情がその瞬間どういった形をしているのか、わからないのだろう。

 まっさきにイナサの手をつかんだのは、レヴだった。

「ちばけたこと言いなや。あねぇもんが、革手袋一枚でどうこうなるわけねかろうが」

 レヴはぐ、とイナサの手を握った。彼の右手からあっけなくすべり落ちた黒い革手袋が、小さな音を立てた。

「そうだよ」

 レクサスが手を重ねる。

「もし、イナサがどうにもできないなら、きっと今、おれも死んじゃってるよね」

 翡翠色の瞳は、二人を見て揺れた。

 アイも手を伸ばして――重ねた。

「ちゃんと、あったかいじゃん」

 笑ってやると、彼は「怖くはないのですか?」とひどく驚いたように訊ねてきた。

「バカ。オレはただの学生だぞ。怖ぇに決まってんだろ」

「ではどうして」

「イナサのことを、信じたいから」

 アイは重ねた手にちからをこめた。



 宿のロビーで三人と別れたアイは一人。箱型の魔導昇降機に乗った。チリン、とちいさな鈴音が響き、足もとを見やる。分厚い扉が閉じたとき、猫は「ナァーオ」とあくびを混ぜるように鳴いた。

「ケイン、お前」

「ごきげんよう、アイくん」

 ケインはちょこんと座ると、動き始めた昇降機のなかで片足をのばし、身体を丸めて耳の後ろを掻いた。ごうん、と昇降機が動き始める。

「久々に長話を聴くと、頭がひどく疲れるものだ。眠くてしかたない。いやはや、ボクはじつに有益な話を聴いてきたよ。生物魔導学はボクの専門外だがね、いわく、ヴァリアヴルでは生物の体内に魔導術式を構築する実験をおこなっているんだそうだ」

 ケインは交流会の話をしているようだった。アイは内心安堵したものの、表情にはいっさい出さず、「へぇ」と話半ばで聞いているふうに、あくびをまぜた。ガラス窓の向こうに映るヴァリアヴル・タワーが、天へ手を伸ばすように煌々と光っている。その周りを思案するように、球形の魔導機構が正しい軌道で浮遊していた。

「まだまだ途上だが、この研究が進めば、医療改革は確実に起こるだろうし、不老不死なんかも夢じゃないかもしれないね」

「そりゃすげぇな」

 ケインの眼光が鋭くひらいたのは、そのときだった。

「しかし、これはね。すでにあったのではないかと。ボクはそう考えるんだ」

「どういうことだ?」

「つまりだよ。いまおこなわれている実験は、外部から生物の体内へ魔導術式を構築するというものだが、たとえばこれが、元々魔導術を使える人間だったら、どうなる?」

「魔導術式の、体内構築……?」

 アイがぼそと口にすると、ケインは「それさ」と機嫌よく鈴を鳴らした。しかし、アイはすぐに首を振った。

「待て。魔導術式が発明されたのは、人魔戦争中期からだ。それまでは、魔導なんてのは未知の未知で、だからそんなことは」

「君にしては勘が悪いな。それとも逃げているのかい?」

 アイはおし黙った。

「後者か。まぁ、わからないでもないケドね」

「んだよ。やっぱ、話聞いてたのか」

 アイは表情を消して、後ろ頭に手を組んだ。

「で?」 

「イナサくん、だっけ。彼が、まさにそうなのではないのかい?」

 アイは上昇する点滅表示を見つめた。刺すような街灯りが、おびただしく思考を叩く。

「――もともと魔導術式は、人族が魔導をあつかうために発明された仕組みでしかない。魔導術式は魔導を制御しやすいという利点こそあれど、ぜったいに必要なわけじゃない。つまり、なくたって使えるわけだ。そしてイナサの、天性的な魔導の才能。もしそのチカラが本人の表層意識に関係なく、発動しうる可能性があるとしたら? 体外からのさまざまな刺激に応じて相応の防御反応が起こるような……たとえば、悲しければ涙がこぼれるように、無意識下でも動く魔導には思考感情と深い連動性が考えられるだろう。となれば、それによる体内への魔導術式の展開がほぼ自動的におこなわれてもおかしくはない。なんらかの工程をはさんだその結果が万物を崩壊させるチカラ……?」

「そこまでは、わからないケドね。けれども、そうでなければ説明がつかない。まぁ、この世の中には説明がつかない現象なんていくらでもある。だからこそ、人は探究するのだろうケド……でも、安心したよ。キミもボクとおおむね同じ結論に至ってくれて、ね。つまりこれは、魔導術をあつかえる者なら、意図的に体内に魔導術式を展開できる可能性が高いのさ。となれば、超人的な運動能力を有する者だって、肉体にかぎらず、無意識的な魔導術式によって飛躍的な能力をものにしている可能性もあるわけさ。これが実証できれば、ものごとの見方はさらに変わる! もっとも、実験にはかなりの危険をともなうだろうから、腕の一本や二本、下手すれば命がトぶ可能性もあるわけだが。あいにくボクは魔導術士ではないから、その検証はできないがね。ともすれば、イナサくんは奇跡的な成功例、とでも言うべきか」

 ケインはふぅと息をついた。

 ごうん、と振動が身体を揺らす。昇降機が目的の階層でその動きを止めたらしかった。

「しかしまぁ、難儀なものだね。魔導に恵まれるなんてことは、理屈の説明なしに、先に現象が起こってしまうようなものだから、不可解な呪いとなんら変わりない。さすがに、不憫ふびんと言わざるを得ないよ」

「ケイン、イナサのことは」

「安心したまえ。ボクは技術開発をしたいのであって、生きモノの中身にそれほどの興味があるわけじゃないのさ」

 尻尾をひと振りして、ケインはなめらかに開いた魔導昇降機のすきまから、するりと出ていった。それを見送って、アイは目を閉じる。昇降機が、また動きはじめた。


 わたしが、魔導術の才能につきぬけて恵まれていると感じた者は、生涯で二人しかいない。ひとりは、サファイア=クォンフィート・フォン・コランダム。彼は圧倒的な魔素を保有し、その規模も展開の速さも、精度さえも、もはや常人のそれとは一線を画している。それはひとえに、彼がもって生まれた天性のものに、想像を絶する彼自身の努力があったからにほかならない。

 もう一人は、イナサだ。わたしは彼ほどを、ほかに知らない。彼は、そのたぐい稀なる魔導術の才能を持って生まれたが、それはまさしく、愛されているといっても過言ではないものだった。たとえば、わたしたちが、はじめから鳴き声をあげることをあたりまえにできたように、彼にとっては、魔導術とはそれくらいにあたりまえのものであった。彼にとっての魔導術とは、およそ常人がおこなうような、術式を展開し、要素や条件を規定し、起動するのとはちがい、もっと近く、あたりまえにあるものだった。

 いうなれば、サファイアが魔導術を道具として意図して豊かに、理屈をもって的確に使いこなすのに対し、イナサにとって魔導は身体の一部であり、ごく自然なものであったのだ。それこそ、彼が呼吸をすることと、魔導のチカラが使われることは、ほとんど同じようなもので、彼は、彼自身がとくべつなにをする必要もなく、魔導のチカラをあつかえたのだった。

 それゆえの事故というべきだろうか。彼は、この日、あの時に、彼自身の無意識のなかで、一瞬のうちに、ある魔導術式を組み立て、およそ完成させ、そしてそれが実行されてしまった。わたしたちが、彼の翼の美しさに息を呑んでいたまさにその瞬間、彼自身の魔導術才能が、彼の発したなんてことのない〈望み〉を実現せしめようとしたのである。魔導は、彼の「こんな時間が続けばいい」という言葉を、魔導術式として、彼の身体に組みこんでしまったわけだ。むろん、世界の時間を止めるだとか、そういった途方もない事象を起こせるわけもなかったのだから――そんなことができうるならば、それはもう、創世の神と言わざるを得ないだろう――、その望みは、まったく別の形で、それも残酷に、彼自身へ与えられたということになる。

 つまり、この日、彼は自らの魔導術によって、それも無意識のうちに、〈不老〉を得てしまった。皮肉なことに、この日を境に、学友たちがいずれ年老いていくなかで、彼だけは、いつも、いつまでも学生のころと同じ、若々しい姿のままで生きることになったのである。



 アイの脳裏にはいつまでも、イナサの無垢な笑みと、禍々しい紋様が、焼きついていた。

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