7.フランス行きの準備

 仕事中に来たメッセージに気付いてはいたが、アリスターはすぐには返事ができなかった。

 仕事でもスマートフォンは使うのでいつも身に着けている。スマートフォンの液晶画面に浮かんだメッセージの内容に動揺しつつも、それを隠してアリスターは仕事を続ける。

 今回は殺人事件なのでラボは緊張感でぴりぴりしていた。


「被害者の服についていた微物の鑑定結果、出ました。データとして送ります」

「こっちも被害者の爪の中の微物のDNA鑑定が終わった。データをアップする」


 ラボの同僚たちと協力して調べていくうちに、容疑者として浮かび上がったのは被害者の恋人だった。

 遺体はラボの地下で検死官が検死してくれているが、そちらからも決定的な証拠が出たようだ。


 データを受け取った警察官が犯人確保に動き出す。

 犯人が確保されるまではアリスターも待機していて、その後で残業なしでその日は仕事を終えるつもりだった。


「ソウルさん、最近雰囲気柔らかくなったよな」

「いいSubに巡り合えたんじゃないですか」


 そんなことを噂されるくらいアリスターは変わったようだ。

 抑制剤を飲まなくても済んでいるというだけで体への負担が全く違う。眩暈も起きないし、倒れることもない。それどころか、満たされているので調子がよくて仕事がはかどる。


 職場ではDomと思われているのを否定したことがないので、それで通っているが、実際はSubであるアリスター。

 仕事を終えてロッカールームのベンチに座ってスマートフォンを確認すると、リシャールからのお願いのメッセージが入っていた。


 一か月一緒にフランスに来てほしい。


 正式なパートナーでもないのにそんなことを言われるとは思わなかった。まだプレイも軽いものを二回しかしていない。それでもその二回でアリスターとリシャールは共に満たされて、どれだけ自分たちの相性がいいかを思い知ったのだ。


 一か月も仕事を休むことはできない。

 しかし、同僚たちは交代で長期休暇を取っていることをアリスターは知っていた。


 ワーカーホリックだと言われて少しは休むように言われているアリスターは、二十四歳でラボに就職してから四年間、長期休暇どころか、体調不良で休んだ以外の有休も消化していなかった。

 いつも有休を消化するように上司からは厳しく言われるのだが、仕事をしていた方がアリスターにとっては楽なのだ。


「パーチ課長、来月一か月休むとかできませんよね?」

「長期休暇を取る気になったのか? 一か月は無理だが、二週間なら十分休めると思うぞ」


 一か月はさすがに許可されなかったが、上司のロドルフォ・パーチもアリスターが有休を全然取っていないことを気にかけてくれていて、二週間程度ならばとれると言ってくれている。

 一か月は約四週。二週間ならばリシャールがフランスに着いた一週間後にフランスに着くようにして、リシャールが戻ってくる一週間前に戻れば、会わない日は実質一週間ずつでリシャールにもアリスターにも負担は少ないだろう。


 何よりも、アリスターはファンとしてリシャールの仕事風景を見たかった。


 ファッションの本場であるフランスでのコレクションならば行ってみたいに決まっている。


 これまではテレビでしか見ることができなかったリシャールの働いている姿をこの目で見られる。それならば二週間休む価値はあるとアリスターは思っていた。


「二週間、休ませてください」

「最大で十六日連続で休みが取れそうだよ」


 二週間の間に元々のアリスターの休みもあるから、それを足せば十六日休みが取れるとロドルフォは教えてくれている。十六日ならば移動の時間も考えて実質二週間ぴったりフランスにいられることになる。


 そのことをリシャールに伝えると、リシャールは喜んで返事を送ってきた。


 フランスに行くまでにアリスターはリシャールと一緒に荷物の準備のために買い物に行った。

 リシャールはアリスターをテーラーに連れて行ってくれた。


「フランスでドレスコードのある店に行きたいんだ。アリスターにこの店のスーツを着てほしくて」

「た、高いんじゃないのか?」

「ここも僕がモデルをやってるから、割り引きがきくんだ」


 割り引きされたとしても目が飛び出そうな金額を提示される予感しかしなくて、アリスターは断ろうと思ったが、リシャールはアリスターを採寸室の中に押し込んでしまう。


「リシャール、俺が払うからな!」

「いいよ、僕に付き合ってもらうんだから」

「いや、これだけは俺が絶対払う!」


 科学捜査班ラボの仕事は高給ではないが薄給というわけでもない。仕事を始めて四年間、ずっと何も贅沢はしてこなかったし、服もつるしのスーツを買うくらいで済ませていたアリスターには貯金がないわけではなかった。


「俺はリシャールのヒモじゃない!」


 宣言するとリシャールも納得してくれた。


「僕の大事なひとSubを僕が飾りたかったんだけどな」

「大事とか、軽々しく言うな」


 低く甘い声で囁かれると勘違いしそうになる。フランスに付いてきて欲しいと言ったり、大事なひとを飾りたいと言ったり、リシャールにとっては遊び相手に対する甘い言葉なのかもしれないが、慣れていないアリスターにとっては自分がリシャールの特別ではないのかと思ってしまう。

 これはよくない。

 リシャールとアリスターの関係は、リシャールがアリスターに飽きるまでの遊びなのだ。


 それなのに、フランスに一緒に行ってもいいと思うほどアリスターはリシャールに惹かれている。

 元から大ファンではあったのだが、それ以上にリシャールとプレイをしてその優しさ、その包容力に惚れずにはいられない。


 この気持ちを知られたらリシャールはアリスターとの関係を切ってしまうかもしれない。だからこの気持ちには蓋をするのだ。

 アリスターはそう思っていた。


 テーラーでスーツを一着注文してから、街を歩いてアリスターの服をリシャールに選んでもらう。

 仕事で使っているつるしのスーツ以外に着られるものがないと言ったら、リシャールは大いに驚いていた。


「普段は何を着ているの?」

「スウェット上下」


 仕事の休日は外出しないし、スウェットの上下を着ていて、近くのスーパーくらいならそれで出かけてしまうと告げると、リシャールが沈痛な面持ちで額に手をやった。


「アリスター、僕が選んであげる」

「お、おう。頼む」


 フランスでは外出することもあるだろうし、できれば観光もしたい。リシャールの仕事にもついて行きたい。リシャールの仕事する姿を見たい。それならば、普段のスウェット上下ではいけないのはアリスターにも薄々分かっていた。


「ジーンズは平気? タイトなのは苦手とかある?」

「あまりぴっちりしてるやつは苦手かも」

「皴が寄りにくいパンツの方がいいかな」


 連れてこられたのはデパートの紳士服売り場で、そこでリシャールがカジュアル過ぎない、でも堅苦しくない組み合わせを探してくれる。


「僕と歩くと、写真撮られるかもしれないから、これも」


 山盛りになった服の上にリシャールはサングラスを置いた。

 サングラスなどかけたことはないが、リシャールが必要というのならばそうなのだろう。

 アリスターは金額を見るのが怖くてカードでそれを支払った。


「服まで買わせちゃって、悪かったかな。フランス行きと帰りの旅費は出るし、滞在中も心配しなくていいからね」


 リシャールに言われてアリスターは小さく頷く。

 アリスターはリシャールの健康のためにフランスまで同行するので、旅費も滞在費もリシャールのスポンサーが持ってくれるようなのだ。


「後は、これが全部入るスーツケースを買うだけだな」

「スーツケースも持ってないの? スーツケースはいいものを買った方がいいよ。最近のは軽くて、タイヤの音も滑らかで使い勝手がいいからね」

「おすすめを教えてくれるか?」

「いいよ。行こう」


 スーツケースもリシャールのおすすめのものを買って、アリスターはフランス行きの準備を整えた。

 買ったものを全部車に積んでリシャールのマンションに行くと、自分の車で戻っていたリシャールがハグで迎えてくれる。


「今日は鶏のささみで作ったシチューとパンなんだけど、いいかな?」

「ありがとう、いただくよ」


 リシャールは出かけても夕食をきちんと自分で作っている。

 そのことに感心しつつ、アリスターは食卓に着いた。

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