10月9日 公開分

【No.049】観察は情事のあとで【性描写あり】

【メインCP:男28. 月野つきの 廻光えこう、女18. 小日向こひなた 尚香なおか

【サブキャラクター:男10. 一ノ瀬いちのせ 隆俊たかとし、女10. 藤澤ふじさわ 佳織かおり

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 月野くんとは出会って半年。

 行きつけのバーに金土で働くハタチのフリーター、あと二年で四十になる私には眩しいほど若い。

 バイトの掛け持ちでフルタイム労働できる体力も、どこでもうまくやる愛嬌もあるようだ。オリエンタルな雰囲気なのにどこか野ウサギに似た素朴さと、外国育ちの言動はスルメ味と称して笑っていたころが懐かしい。


「尚香さん」

 今では彼に名を呼ばれるだけで理性が溶けて、肌が触れると言葉も忘れてしまう。温い泥のようになった醜悪な私は、コトが全部終わって一時の巣を出るまで——繋いでいた手が離れてようやく元の形を思い出す。後悔する、体が冷えていくほど。



   ◇



 ふた月前のことだった。

 私は忙しさのせいでたった二杯のカクテルでしたたかに酔い、お気に入りのピアスを店に忘れた。手遊びに耳に触れる癖が出てしまったのだろう、それはカウンターに転がっていたそうだ。

 千鳥足で駅へ向かう私にそれを届けたのは月野くんで、私のあまりの酔っ払いぷりに『面白い』と笑ったのだけは覚えている。

 それで気がつくと私は自宅の玄関内で毛布に包まれていて、耳にはピアスが戻っていた。


 次にお店で再会し、彼が自発的に私を追いかけてくれたと聞いて、妙な優越感に浸ったのが最初の過ちだったのかもしれない。バイト上がりの彼を待ち、遅い夕食に誘うくらいには調子に乗っていた。

 週末深夜のファミレスは賑やかで、私たちのことなんて誰も見ていない雑多な感じがよかった。細かい話はもう忘れた。でも彼がふと真顔になったあとのセリフだけは耳に残っている。

「わたし人間くわしい。でも小日向さん、ちょっと面白いです」

 瞬いたときには彼は笑顔になっていた。でもどこか変だった。人畜無害な瞳の奥に火が灯ったような気配があった。


 私は分かりやすく狼狽え、そして無遠慮で勝手な評価に年上としての矜持を傷つけられたように感じた。

「面白いって。あんまり女性にそんなことを言っちゃだめよ」

「なぜです」

「だって嬉しくないし、褒めるなら別の言葉にしないと。嫌われるわよ」

 まるで部下に叱責するような調子になった。月野くんはひょいと首を傾げた。

「別の? 例えばなんて言う、いいですか」

「そうねぇ。けなすつもりなら『変わってる』、褒めるつもりなら『素敵』とか『可愛い』とか?」

「分かりました」

 あまりの素直さに『貶す』って言葉知ってたかなと、眉を寄せたとき。

「小日向さんは素敵、可愛い、です」

「え!」

「あなたを、観察、いいですか?」


 あのとき、無遠慮に目を覗きこんできた彼の真意は未だにわからない。

 そして観察過程とはいえ、その辺の男女なら行き着くだろう行為の果てにいる私たちは、この先どうなるのだろう。


 彼の手や唇がそこらじゅうを撫でれば、胸の奥を鈍痛が穿つ——終着点が見えない恐れのせいだ。だけど、ぐずぐずと外へ発してしまう彼への好意的な体液や声は空気を媒介に私へと戻ってくる。いかにこの時間を欲してしまっているかを自覚せずにはいられない、それがつらい。

 まっすぐに見つめる視線に耐えきれず唇を合わせたのは私。この関係にあえて名前をつけずに始めたのも私。



   ◇  



「月野くん、もう会うのやめない?」

 彼にしては珍しく立ち止まり、表情豊かに見つめ返した。心底驚いたらしい。醜い溜飲が下がって私は微笑むことができた。

「ちょっと疲れたの。年も離れてるし、会ってもだけでしょ?」

「尚香、さん」

 呼ばないでよ。私は、私でいるために目を伏せた。

「なんで、悲しそう。ちがう、眠い?」

 思わず笑いが込みあげる。あぁ私たちは決定的に分かり合えない、彼は私の複雑さを永遠に理解できないと確信する。

「観察は失敗ね」

 彼に会うために気合を入れたスカートも、耳を舐られるためのピアスの重さも今はひどく滑稽だ。彼のラフでもう真似できない格好ファッションとのちぐはぐさよ。

「もう帰るから」


 『弄ぶのはやめたら?』と百戦錬磨の佳織友人は揶揄した。『仲良さそうだな』と同じ店のイチさんバーテンも微笑えましそうに言う。本当はそのどれでもない、逆かもしれない。

 膨大なパズルピースの前に手を出せなくなってしまう子どものように、私は月野くんとの関係に途方に暮れた。先なんてない。


 バイバイ。繋がれた手を離そうとした。だけどぐいと強く繋ぎ直される。

「こっち、尚香さん」

「待って……え、きゃあッ!」

 裏通りに引っ張られたと思った瞬間、私は軽々と彼に抱きかかえられ宙に浮いていた。浮いてるって何⁉︎

「声、だめ。聞かれる」

 反論は言えなかった。だってあり得ないことに、彼は壁を蹴って二メートル近くジャンプし、ビルからビルを渡ったのだ。




 ようやく「大丈夫?」と気を遣われたのは、見覚えのないマンションの屋上だった。

 私は震えていた、だってこんなのおかしい。腰は随分前に抜けていた。

「つ……あ……」

 言葉にならない。夜空には満月がかかっていて、月を背負う彼がまるで化け物じみて見えた。髪の毛もボサボサで——あれは、耳?

「わたし、月から来ました」

 彼がしゃがんで私に顔を近づけた途端、私の口からは「ひっ」と声が漏れた。尻もちをついたままの私は、後ずさろうと脚を立てた。

「尚香さん、わたしをキラウ?」

 膝頭を、彼の大きな手が包んだ。温もりが伝わる前に、彼の顔が私に迫った。まるで情事の始まりのような態勢、私は顎を逸らした。


「どうして、会わない? バレたから?」

 すり、とお互いの髪を擦って頬が合わされた。

「尚香さん」

 彼は私をよく分かっていて、答えも聞かずぬらりと耳を含んだ。かちりとピアスが歯と鳴った。一瞬で恐怖が塗りかえられる、ずるい。頭を手で支えられる感触に、私はどこか安堵して背を突っぱった。「ねぇ」と吐息と捻じこまれる声には辛うじて「いや」と喘いだ。

 けれど今度は唇を目指して小さなキスが何度も落ちると、体が痺れ始める。自業自得、全部私が教えたことなのだから笑えない。

「わたし、地球人じゃない、キライ?」


 唇に吹きこまれるように囁かれたと同時、頭が冷静になった。流されて応えかけていた舌を引っこめた。

 違う。地球人とか月から来たとか、そんなことどうでもいい。冗談でも問題にならない。

 キライなんかじゃないからどうにもならない、

「だめなの。もう苦しい」

 すれ違うことに耐えられない。

 裏切られると信じられずに怯えて愛するのが怖い。愛されないのが怖い。


「尚香さん……キライ、わかった」

 彼は簡単に私から手を離した。

「……ぁ、」

「よく、わかった」

 しゅんと彼の頭の柔らかそうな突起が萎れた。

「送る、ます」

 私は唐突な冷えに震えた。言葉も距離も一瞬で遠のいた。もうどこも触れていない。

 呆然と、彼を見上げた。これが私の望んだ結末。


 すると彼は困ったように言った。

「尚香さん、わたしキライ。胸痛いです。変」

 そして立ち上がって視界から消えた。月だけがこちらを見ていた。

「月に帰る、調べる思うます」

 遠すぎて届かない場所から撥ねる光が、私を照らした。あそこに?

「もう、帰ってこないの?」

 言ってから、なんてバカなことを両手で顔を覆った。そんなこともう私に関係ないのに、月がどうとか興味ないのに。

 私はとっくに泣いていた。そして脚をコンクリに投げ出したまま、「月でもどこでも……どっか行って……!」渾身の嘘を放った。

 だって裏切られてばっかりだった、だから今度は私が裏切るんだ。

 楽になるなら期待なんてしない、年下なんてもう絶対に——。


「……やっぱり帰る、やめる」

 そのとき、ごそっとすぐ傍で物音がしたと思ったら、勝手に首の下に彼の腕が入ってきた。反対側の肩が抱かれ、顔を隠しているだけの私は力づくで彼の腕に抱きこまれた。

「行かない、ここにいる」

「なんでよぉ。やだ、むり触んないで」

「尚香さん、ずっといる。離れない」


 私はますますわめいた。『ずっといる』が本気に聞こえてしまったから。

「だめ……だよ」

 だって観察していたのは彼だけじゃない、私だって彼を見ていた。

 普段の笑顔が気遣いの表情だってことも、時折見せる真顔は驚きだってことも。子どもっぽく言う言葉が本音だってことも。

 私と会ったあと必ず風邪気味になることだって。

 ふふ、と笑って彼は私の前髪に口づけた。

「行こう尚香さん、わたしのうち。寒い、風邪ひくだめ」

「やだ、だめむり」

「わたし知ってる。尚香さんの『やだ』と『だめ』。『いい』のこと」

 ——私はついにそっと顔を上げた。

 面白がるような黒い瞳がのぞきこんで、私の理性は呆気なく溶けた。


 信じたい、いつか別れてしまうとしても。今だけは一緒にいたい、それが『ずっと』だって彼が言うなら。

 ちゅ。まるで自分のものように私の唇にキスを落として、月野くんは宙にぴょんと跳んだ。



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【本文の文字数:3,491字】

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