第4話 鏡に映る心

 闇。一滴の光もないその空間は、どこにいるのか、何があるのか、まったく手がかりがない。その中で、駿はぼんやりと自分が浮いていることに気づいた。


「ここは……どこだ?」


 立っている感覚もない。手を伸ばしても、足を踏み出しても、何にも触れられず、不安定な感覚に不安を覚える。ただ、何か得体の知れない空間にいるだけだった。真っ黒な暗闇と思っていたが、時折、遠いところで蛍のように頼りない光が明滅していた。


 もしかして元の世界に戻れた? 寝ているだけで目を開ければ自宅の部屋なのか?


 駿はそう期待したが、夢とは思えないほどに覚醒した思考と感覚にやがて落胆した。


 ふと、遠くで何かが動く気配がした。何もないはずの闇の世界で小さな気配が近づいてくる。足音はないが、確かに存在感が迫る。


「誰だ……?」


 闇の中からぼんやりと影が浮かび上がる。輪郭が少しずつはっきりし、その姿が明瞭になるにつれて駿は息を飲んだ。


「……な、なんで俺がいるんだ?」


 そこに立っていたのは駿自身。まるで鏡に映した自分を見ているかのようだった。だが、「自分」の目つきは鋭く、表情には険しさが浮かんでいる。


「貴様、何者だ! どうして私の身体を操っているのだ!」


 低く、凛々しい声。その声には怒りと威厳が込められていた。「自分」とは違う雰囲気に駿はたじろいだ。


「え、いや、お、俺は……いや、お前こそ誰だよ!」


 だが「自分」の言葉は、まさに駿が質問しようとしていたこと。駿は思わず問い返した。互いに睨み合い、沈黙が流れる。だが、すぐに「自分」が言葉を紡いだ。


「貴様のせいでこうなったのだろう! その身体を返せ!」


「か、返せって……お、お前こそ、俺の身体を返せよ!」


 「自分」の言い方にカチンときて言い返す駿。すると相手は逆上したのか、顔をさらに歪めて飛びかかって来た。思わずうわっ、と目を閉じ、両手を構えて防ごうとするも、飛びかかって来たはずの「自分」からの衝撃は来なかった。


「くそっ!? どうしてすり抜けるのだ!?」


「あれ……?」


 ふたりの身体は重なり合っていた。ホログラムのようにすり抜けている。まるで自分が幽霊か透明人間にでもなってしまったかのようで、背筋に悪寒が走った。どうやらこの身体は実体のないもののようだった。


「くそっ! くそっ! こんなことをしている場合ではないのだ!」


「お、俺だって、お前と遊んでる暇はないんだよ! 早くどうにかしてくれよ!」


 普段ならば相手の剣幕に萎縮する駿だが、この異常事態にそんな遠慮は吹き飛んでいた。互いに相手の責だと譲らぬ言葉を応酬していく。やがて駿はこの言い争いが不毛だと悟った。


 「自分」は言い争いの中で魔法という言葉を使っていた。魔法なんてファンタジー世界の人間の話だ。それをさも当然のように発言する「自分」は、魔法が当たり前に存在する世界の人間であるということ。そしてこの奇妙な状況。


「ま、待て……お前の名前を教えてくれないか?」


「何故貴様に……。私の名はジークフリート・オブ・フロイエン、誇り高きフロイエン家の当主である! 貴様も名を名乗れ」


「ごご、ごめん。お、俺の名前は一ノ瀬。一ノ瀬駿。一ノ瀬が家名で駿が名前だ」


 名乗り胸を張るジークフリート。その堂々たる姿が、彼がその貴族であるということを物語っていた。対照的にいつもの調子で萎縮してしまう駿。相手の雰囲気に飲まれながらも、駿は状況を何とか理解した。


「ど、どうやら、理由はわからないけれど、俺とお前の身体が入れ替わったみたいだ」


「何だと!? くそっ! イザベラと話をせねばならぬというのに……!」


「そ、そうだ! 俺も梨央と話をしないと! こんなことをしてる場合じゃない!」


 状況が分かったところで、相手にも原因に心当たりが無いことも分かり、互いに頭を抱える。その姿は、見るものが見れば滑稽にも見えることだろう。


 やがて、二人は激しい焦りが冷めていくのを感じた。相手も自分と同じように戸惑っている姿を見たことで、冷静になれたからだ。


「……駿と言ったか。貴様も奥方と諍いがあったのか」


「……ジークフリート、お前もか」


 こんなところで歴史的独裁者の言い回しを、と駿は自嘲するも、その言葉に含まれた諦観はこんな気持ちだったのかもと妙に納得する。そしてそれはジークフリートも同じであった。そしてふたりは口角を上げる。互いに通ずるものを感じた。


「駿。貴様の奥方は娘と家を出ていったぞ」


「ええ!? そ、そんな……それじゃもう実家に……もう駄目だ……」


 駿は愕然とした。元の身体に戻れば平手打ちの直後に戻り、すぐに謝ればどうにかできると思っていたからだ。


「……諦めるのか? 貴様はそれで良いのか?」


「う、うるさい! もう駄目なんだよ! またあんな、あんな怒りを向けられたら……お、俺は、梨央に何も言えなくなっちまうんだよ……ああ、梨央……」


 駿は梨央が最後に見せた威圧的な低い声を思い出す。仕切り直して梨央と対面し、あの雰囲気で応対されると、萎縮してしまい何も言えなくなってしまう。笑顔が絶えなかった新婚時代にはもう戻れないのだと駿は絶望した。


「……弱気な自分の顔を見ると苛つくものだな」


 落ち込む「自分」を見たジークフリートの口からは厳しい言葉が飛び出す。


「駿。貴様は奥方に意見を伝えていたのか?」


「……え?」


「貴様の様子からして、相手へ配慮して意見を言っておらぬのだろう」


「う、うん。そうかも……」


 案の定、とジークフリートは合点する。この男は弱気すぎるのだ。


「駿よ、それでは駄目だ。お前は奥方にもっと自分の考えを言うべきだったのだ」


「……え?」


「自分の思いを伝えぬままにしてしまえば、その思いは誰に伝わることもなく消えてしまう。少なくとも貴様のように言葉を諦めるのならば、貴様に関心のない相手は意図など汲まぬのだから」


「……関心のない相手……」


「だからこそ人は言葉を紡ぐのだ。伝えねば思いは伝わらず、最初から無いのと同じであるからな」


「最初から、無い……俺の思いが……」


 その遠慮なく、ぐさぐさと図星を突く物言いに、駿はやはりお貴族様は尊大だと苛立ちを覚えた。だが、ジークフリートの言葉を反芻するうちに、彼は思い至る。


 駿はこれまで梨央に対し、思いを伝えたうえで選択を任せ、相手を尊重していたつもりだった。だけれども自身の考えをはっきりと言葉にしてきただろうか。ジークフリートの言葉の通り、自分の意見が、愛情が、梨央や杏奈に伝わっていないとしたら、いったいどれだけ無味乾燥な想いを抱かせてしまったのだろう。


 夕食の献立などと些細なものから、住居を決める時の物件選択も、杏奈の塾選びも。思いが伝わっていないとしたら、きっと無関心に見えてしまっていた。


 ジークフリートのその言葉は、彼の心に深く響いた。梨央や杏奈が自分に笑顔を向けてくれていたときはどういうときだったか。趣味のテニスをやりたくて、運動は楽しいと説いて休日の予定を押し決めてしまったとき。観たい映画を観るために、映画館の前でその映画の魅力を語り倒して決めてしまったとき。そうして、たまたま強い想いを伝えて、思い切って決断したときが多かったのではないか。


「だからこそ問うのだ。貴様のその奥方への思いを無かったことにしてよいのかと。もう奥方への思いは無いのか。もう奥方を愛してはおらぬのか」


「……い、いいや、ある、ある! 俺は梨央を愛してる! 無かったことになんてしたくない!」


「うむ。ならば伝えもせず投げ出すな。大事な言葉であれば、罵られても口にするのだ」


「ああ、伝える、伝えるぞ! 梨央に、梨央に謝って、戻って来てくれって言うよ!」


 ジークフリートへ答えを重ねるうちに、駿は自身がすべきことを悟る。無遠慮に伝えても大丈夫だろうか、思いを押し付けて嫌がられないだろうかと、いつも抱いていた怖れが鎌首をもたげていたが、自身のすべきことを言葉で叫び、その臆病さを押し殺した。


 戻ったら遠慮気味だった気持ちを言葉にして正直に伝えよう。杏奈の部活の話も彼女を守るために辞めた方が良いと伝えよう。そうして梨央が怒るにせよ悲しむにせよ、その反応も受け入れよう。


 その決意を抱くと、駿は急に目が覚めたように世界が広がった気がした。





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