本棚の奥に眠るもの
あさのやよい
本棚の奥に眠るもの
彼女がその神社に足を踏み入れたのは、もう夕方も終わりかけた頃だった。夏の長い日も、夜に向かって徐々にその光を失い、周囲には静寂が漂っていた。近所の家々から漏れる生活の音も、鳥の鳴き声も、この神社の境内に届くことはなく、まるで別の世界に迷い込んだような気分にさせた。
「どうしてここに来たんだろう……」
ふとつぶやいたその言葉は、自分の声でありながら、どこかよそよそしく響く。神社の石段をゆっくりと上がり、境内に足を踏み入れると、空気はさらに冷んやりとし、深い森の中にいるかのような錯覚を覚えた。
この神社には昔から一つの言い伝えがあった。それは「本棚の奥に眠るものを目覚めさせてはならない」という奇妙なものだった。幼い頃に祖母から聞かされたときは、意味がわからず、ただの怖い話だと思っていた。しかし、大人になった今、その言葉が妙に心に残り、ふとここに来てしまったのだ。
「本棚……本棚の奥に眠るもの……」
繰り返して口にするたびに、何かが近づいてくるような、遠ざかっていくような、そんな感覚に襲われる。神社の社は小さく、誰もいないはずなのに、どこか生き物の気配がした。彼女は本殿の前で立ち止まり、深く息を吸い込む。そして、恐る恐る振り返る。
「本棚、なんて、ここにはないのに……」
彼女は自分の言葉が突拍子もないと感じたが、それでもなぜか「本棚」という存在がこの神社と関係しているように思えてならなかった。小さな社をじっと見つめていると、何かに引き寄せられるように近づいていった。
社の扉は固く閉ざされていたが、その隙間から冷たい風が吹き込んできた。彼女は、無意識のうちに扉に手を伸ばしていた。触れると、意外にも簡単に開き、中には薄暗い空間が広がっていた。
そこに、本棚があった。
「……え?」
こんな場所に本棚があるなんて、誰が想像できただろう。彼女は驚きながらも、一歩一歩慎重にその本棚へ近づいた。木でできた古びた棚には、分厚い本がずらりと並んでおり、どれもこれも何十年、いや何百年も触れられていないような雰囲気を醸し出していた。
「これが……本棚の奥に眠るもの……?」
彼女はある一冊の本に目を奪われた。それは、他の本と比べて少しだけ棚から飛び出しているように見えた。手を伸ばし、その本を引き出そうとすると、棚全体が微かに軋み、不気味な音を立てた。しかし、どうしても気になって仕方がない。ついに本を手に取ると、その瞬間、背後で大きな音が鳴り響いた。
驚いて振り返ると、神社の外の風景が一変していた。そこには、見覚えのない街並みが広がっていたのだ。
「ここ……どこ?」
彼女は混乱し、足元の本を見つめた。表紙には何も書かれていなかったが、手触りは柔らかく、まるで布でできたようだった。ゆっくりとページをめくると、中には不思議な文字がびっしりと書かれていた。見覚えのない言語だったが、なぜか意味がわかるような気がした。
「眠り……眠りにつくことで、全てが始まる……」
彼女は何度もその言葉を繰り返しながら、突然強烈な眠気に襲われた。体が重くなり、その場に倒れこむように座り込む。瞼がどんどん重くなり、意識が薄れていく。最後に見たのは、彼女の周囲を包み込む奇妙な光景だった。街はゆっくりと消え、神社も本棚も、全てが遠のいていく。
「寝る……ただ、寝るだけ……」
そう思った瞬間、彼女の意識は完全に途絶えた。
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目を覚ましたとき、彼女は自分のベッドの上にいた。窓からは柔らかな朝の光が差し込んでおり、周囲には何の異常もなかった。夢だったのか? それとも、現実だったのか?
しかし、彼女の手元には、あの本がしっかりと残っていた。
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