女神に愛された男の話

つきかげ

前編

 1


 まだ幼かった頃、エリオは家の近くにある丘の上の小さな森で、友人たちとよく一緒に遊んで過ごした。

 森は、まるで別世界への入り口だった。

 丘を登り、森の縁に一歩足を踏み入れると、まるで現実の世界から切り離されたかのように空気が変わる。

 村の喧騒とは無縁の、鳥のさえずりや風が木の葉をさらさらと撫でる音が響き渡るその空間にいると、自分たちだけの秘密があるみたいで心が踊る。


 一方で、エリオの両親は彼が森で遊ぶのをあまり好ましく思わなかった。

 森には野生の獣や危険なヘビが潜んでいるし、なにかの間違いで奥深くに迷い込んでしまえば帰るのも難しくなるかもしれない。

 それでもエリオが森での遊びに夢中になっているのは知っていたし、あまり強くは止めなかった。


 ある日の夕方、エリオは森の奥で朽ちた木の傍らに横たわる一羽の小鳥を見つけた。

 その鳥は美しい純白の羽を持っていたが、片方の翼が傷つき、飛べなくなっているようだった。狐か犬にでも襲われたのかもしれない。

 エリオは優しく鳥を抱き上げ、その傷ついた翼を見て、まるで自分のことのように心を痛めた。

 まだ幼い彼にはどうすればいいのか分からなかったが、とにかく放っておくことはできなかった。

 彼は普段から、小さいものや弱いものに手を差し伸べてあげなさい、それが強さなんだよ、と父親から教えられていたのだった。


「大丈夫だよ。僕が助けてあげるからね」


 エリオはしゃがみ込み、傷ついた小鳥を優しく手に取った。

 傷ついた小鳥の体は弱々しく震えていたが、エリオの手に抱かれると、安心したようにまぶたを閉じた。

 そして彼は、小鳥になるべく負担をかけないようにそっと優しく手で包みながら帰路についた。


 夕暮れ時、森の小道を抜けて家に戻ると、父親と母親が家の近くの小さな畑で野良仕事をしているのが見えた。

 エリオは息を切らしながら両親のもとに駆け寄った。


「お父さん、お母さん!」と彼は言った。「小鳥が傷ついて飛べないみたいなんだ。助けてあげたいんだけど、どうすればいいの?」


 エリオは、手のひらの中の小鳥を見せながら、不安げな目を両親に向けた。

 父親は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。


「それは大変だ。なあに、手当をしてたっぷり餌をあげればすぐによくなるさ」


 その言葉に、エリオは安心したように微笑んだ。

 母親もすぐに近づいてきて、小鳥をそっと見つめながら言った。


「あら、かわいそう。……でも、大丈夫よ。私たちが助けてあげましょう」


 母親は、エリオが大切に抱えていた小鳥を優しく手にとると、家の中に連れていった。

 父親は、家の棚のなかから古い布を取り出してきて、小鳥を寝かせるための小さなベッドを作った。その後、小皿に水を少し持ってきて、いつでも小鳥が飲めるように準備を整えた。

 小鳥は少しだけ頭を持ち上げ、水を飲み始めた。

 それを見たエリオは、はらはらしながらため息をついた。


「きっと元気になるよね」


 エリオは小鳥を見つめながら、小さな声でそうつぶやいた。

 父親は大きく頷いた。


「ああ、絶対に助かるさ。お前が見つけてくれたおかげだよ。みんなで力を合わせて、この子を元気にしてあげようね」


 父親の力強い言葉を聞くと、エリオの胸に安堵が広がった。


 その夜、エリオの家族は小鳥をそばに置いて食卓を囲んだ。

 エリオは食事をしながら、何度も小鳥の方を見ていた。


 エリオは小鳥の世話を欠かさず続けた。水を与え、餌を少しずつ口元に運び、小鳥が生きる力を取り戻すのをじっと見守った。

 両親は彼のようすを微笑ましく見つめていた。

 彼の世話の甲斐もあって、やがて小鳥は少しずつ回復していった。彼の肩に飛び乗っては、羽を大きく広げ、必死に羽ばたこうとするようすを見せた。


 そしてある晴れた日の朝、完全に回復した小鳥の姿がそこにあった。

 傷つき、息絶えようとしていた小鳥の姿は、もうどこにもない。

 エリオはそっと小鳥を手のひらに乗せ、家を出て森の近くへと向かった。外では風が木々を揺らし、空は青く澄んでいた。


 「さあ、いけ。お前は自由だ。もう襲われるんじゃないぞ!」


 エリオが優しく囁いて放り投げると、小鳥は白く美しい翼を広げ、勢いよく空へと飛び立った。

 彼の目は少しの寂しさを感じながら、その小さな羽ばたきを追い続けた。

 小鳥は名残惜しそうに彼の周囲を何度も大きく旋回すると、しだいに青空の中へと溶けていった。


 その時の彼にはまだ分からなかった。

 彼が助けたあの小鳥は、ただの小鳥ではなかった。天上の世界から気まぐれに舞い降りたオーレリアという女神の仮の姿だったのだ。


 ◆


 エリオは村の人々から愛された。

 彼の聡明なふたつの瞳はまるで星のように輝き、彼の笑顔は太陽のように皆を照らした。彼が微笑むと誰もが笑顔になった。

 誰もが目を細めてその愛らしい少年の未来を期待した。


 さらに、村人たちの知らないところで天界から彼を見つめる存在があった。

 あのときエリオが助けた女神、オーレリアだった。

 彼に宿る魂は、村の人々の心だけでなく、神の心をも奪ったのだ。

 オーレリアがその瞳で見るものは、人の目には見えないもの、時の流れに影響されないものだった。

 エリオの純粋で透き通った魂は、褪せることのない輝きを放った。彼女はそれに魅了され、彼をいつか自分の伴侶にしたいと願った。


 しかし、神である彼女は、限られた方法でしか人間であるエリオと接触することがかなわない。

 そこで、彼が人としての生をまっとうし、その一生を終えたあとでその魂を迎えに行くことにしたのだった。

 女神オーレリアは、今はまだ幼い彼の成長をそっと見守ることにした。


 ◆


 父親も母親も、エリオのために時間も金も惜しまず、その小さな成長をいつも見守っていた。

 家の中はいつも笑い声に満ちていた。

 父親は厳しくも温かく、母親は優しく笑顔で、エリオが失敗を犯したときも微笑みながら励ましてくれた。

 エリオは、家族の愛情を一身に受けて、のびのびと毎日を過ごしていた。


 しかしそんな幸せな日常も、ある日を境に変わってしまった。

 父親が病で亡くなったのだ。

 あまりにも突然な父親の死は、まだ幼いエリオにとっては到底受け入れられるものではなかった。葬儀の日、父を慕っていた人々が家に押し寄せた。エリオはその光景をただ呆然と見つめていた。


 母親はすっかり歳を取ったように、沈んだ表情で過ごす時間が増えていった。

 かつてエリオに向けられていた優しさはなりを潜め、代わりに沈黙の時間が家の中に広がった。

 母親は笑顔を見せなくなり、何を話しても心ここにあらずといったようすだ。

 エリオは、愛情のかけらを求めて母親に近づいたが、かつての母の姿はもうそこにはなかった。


 やがて、新しい父親が家にやってきた。

 相手は村の男で、母の幼馴染らしかった。エリオは母からその男を紹介されたとき、あまり歓迎する気になれなかった。優しかった父親の思い出が徐々に薄れて、やがて完全に消え去ってしまうのが怖かった。

 しかし、それでも母親に少しだけ笑顔が戻ったことに関しては、エリオも喜ばしく思った。


 再婚相手は髭だらけの体格のいい男で、最初はエリオにも優しく接してくれた。

 しかしその柔らかな笑顔はどこかぎこちなく感じられた。

 男の大きな手が自分の頭を撫でるたび、エリオの心になんとも言えない不安が残った。


 やがて、母親と新しい父親との間にエリオの妹が生まれると、家の雰囲気は徐々に変わっていった。

 新しい父親の態度は冷たくなり、エリオを目障りに感じはじめたようだった。

 男はほんの少しの失敗で、エリオを怒鳴りつけた。幼いエリオは恐怖で縮こまるしかなかった。


「あいつが食うものなんて残り物で十分だろう」


 男の低い声が響き、家の中に重苦しい空気が漂う。

 母親もまた、その空気に押されるように、再婚相手の機嫌をうかがうだけだった。

 最初の頃は、エリオをかばってくれることもあったが、次第に彼に反抗しなくなっていった。母親は疲れてしまったのだろう。男の言うことには逆らわず、エリオが怒鳴られているのを見つめながら、黙ってその場をやり過ごすようになった。


 エリオは、変わっていく母親の姿を敏感に感じ取った。

 最初の頃は母親に助けを求める視線を送ったが、次第に無駄だと理解するようになった。母親は、もうエリオの味方ではなくなってしまったのだ。

 エリオに向ける母親の目は、どこか疎ましげで冷たかった。

 家には食べるものさえほとんどなくなった。

 着るものも、ボロ布のようなものを与えられるだけだった。

 彼はなにをしても怒鳴られて、殴られた。

 母親はそんな我が子のようすを、見て見ぬふりをして過ごした。

 荒んだ家の中で、エリオはただ孤独と空腹に耐えながら日々を過ごした。


 かつての暖かな家庭は崩れ去り、エリオの居場所はすっかり失われてしまった。

 彼を慕ってくれていた友人たちも、徐々に離れていった。惨めでみすぼらしく、金もなければ喧嘩も弱い、そんなエリオのことは、誰も必要としていなかった。一緒にいて利益がなければ、誰も近くにいてくれない。


 しかし、それでもエリオはたくましく生きていた。

 大人になりさえすれば、もう無力でなくなる。そうすれば、惨めでなくなる。

 孤独と空腹と人間不信が何度も彼の心を砕こうとしたけれども、その瞳には信念の炎があった。


 ◆


 時が経ち、エリオは青年と呼べる年齢になっていた。

 青年になった彼は故郷の村を離れ、都会の片隅で孤独な生活を始めていた。


 彼にはもう、守るべき家族も、帰る場所もない。父も母も、そして新しく産まれた妹も、過去とともに故郷の村へ置いてきた。

 もう何年も、家族とは会っていない。

 一生、会わないだろう。


 過去の傷を背負いながら、エリオは肉体労働で生計を立て、生きていくために必死に毎日を送っていた。

 この体があれば生きていけるし、ここにはささやかな幸せもある。ある程度なら、好きなものも食べられる。酒も飲める。まるで天国だった。


 エリオの仕事は、もっぱら古びた建物の解体作業だった。

 長い年月の中で崩れかけて住む者もいなくなった建物を取り壊し、新たな建設が行われるための準備をするのだ。

 石を崩し、梁を外し、屋根を落とす。

 粉塵が舞い、高い壁が崩れ落ちる危険な現場。体力と忍耐が必要な作業だ。

 そんな日々の中で、彼は一人の女性と出会った。

 彼女は同じ現場で働いており、男たちに混じって黙々と建物の解体をこなしていた。

 彼女は痩せっぽちで背も低かったが、その動きは力強く、毎日毎日、朝から晩まで寡黙に作業を続けていた。痩せた体に似合わない大きなハンマーを振り上げるその姿は、まだ若いエリオの目を引いた。


 彼女は誰とも言葉を交わさず、休憩の時間になっても離れた場所にひとりで座っていた。

 エリオはそんな彼女が気になって仕方がなかった。

 ある日の昼休み、勇気を出して彼女に話しかけてみた。


「この仕事、長いのか?」


 彼女はけげんな目でエリオの方をじろっと少しだけみると、面倒くさそうにどこかに行ってしまった。

 作業員の仲間たちがそんなエリオのようすを見て笑っているのが見えた。

 嫌われてしまったかと思ったが、懲りずに何度か声をかけ続けているうちに、彼女は少しだけ話をしてくれるようになった。

 たいていは短い言葉のやり取りだけだったが、それでもふたりの距離は少しずつ縮まっていった。


 日が経つにつれ、彼女は自分の過去についても少しずつ聞かせてくれるようになった。

 そこでエリオは、彼女は複雑な家庭のなかで育ち、両親の愛情を知らずに生きてきたことを知った。

 彼女の孤独はエリオの心を打った。

 打ちのめされた彼女の姿は、まるで鏡に映る自分自身を見ているようだった。エリオは彼女を放っておけなかった。


 ふたりは次第に心を寄せ合うようになり、仕事が終わったあとも一緒に過ごすようになった。


「私は、あなたが思っているような人間じゃないと思う」ある夜、エリオの部屋で彼女はぽつりと語り始めた。「実家には居場所がなかったから、物心ついてからは男の家を転々としながらなんとか生きてきた。何度か中絶もした。人を信用できないのよ。一緒にいれば、あなたにも迷惑をかけると思う。それでも、私と一緒にいられる?」


 エリオは迷うことなく彼女の手を取り、そっと抱き寄せた。

 彼女の抱える心の闇ごと、抱きしめてあげたいと思った。



<続く>

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