昇(七十二歳)①

「すみません」

 ……。

「あの!」

 ん?

「あ、いいです。申し訳ありませんでした」

 え?

 私に話しかけていた女性が離れていった。おかしな人に声をかけてしまったかも、とでも思った様子で。

 その若い彼女は出口調査をしているようだ。わざわざ振り返って見直す気はないが、ずいぶんと顔が綺麗な印象だった。

 どうやら、ぼーっとしていたらしい。今の女性に見とれたためではないし、だから実際に変な人などと悪く思われてしまったのだとしても構わない。ここのところ選挙のたびに投票所に一番乗りで、投票箱の中が空なのを確認させられるのが当たり前になっていたから、今回久しぶりにそうならなかったことで、脳が違和感でちょっとした混乱状態になっていたせいだろう。

 別に一番乗りじゃなかったことに落胆していたわけではない。毎回最初の投票者だったのも、子どもでもあるまいし、投票箱の中を見たいからではない。やるべきことはさっさと済ませるタチで、さらに加齢や定年退職して仕事の疲れがなくなり朝の目覚めが早くなったゆえに、結果的に誰よりも先に投票所へ行くのが習慣となっていたに過ぎない。

 残念ではないどころか、むしろ今回は喜ばしかった。というのは、私に代わって一番乗りだったのが、今しがたの出口調査の女性よりもっと若い感じの、派手でチャラチャラしているのとは違うものの遊ぶことのほうが大事そうな、選挙に足を運ぶイメージのない女のコだったのだ。

「それに比べて、今どきの他の若い連中ときたら、投票を棄権する奴ばかりでけしからん」などと私くらいの歳の人間はすぐに言いそうだけれども、私はそんなことは口にしないし、思いもしない。

 もちろん選挙には行ったほうがいい。行くべきだ。だが、棄権する若者が多いのは、自分たちの世代は人口が少ないために投票結果に及ぼす影響力は小さいから、どうせ政治家は自分たち向けの政策など行いはしないだろうと考えていたり、教育現場で生の政治について学ぶ機会がないか、あっても中立を意識し過ぎた中途半端な内容だったりして、それで選挙に行けと言われても、どの候補者や政党に票を投じたらいいのかなんてわからないよと思っている、といった背景があるのだろう。

 それでも、若者の投票率が目に見えて上がれば政治家たちの意識だって変わるだろうし、上の世代も政治に関して同じように学校ではほとんど学んでいないのだから自力で勉強するなり考えて、投票にいくべきではある。が、情報が多過ぎたりフェイクもあったり、バイトなどでやたらと忙しいらしい彼らに、わずかな判断材料も提供できていない親やマスメディア等にも問題があろう。理解するのが難しい事柄もたくさんあるなか、平和な国の若者が政治にそんなに関心を持てないのはある意味当たり前で、最低限のとっかかりだけでも、大人の手助けは絶対に必要なのだから。

 それにしても、投票率が低いことに限らず、なにかというとこの国では若者を否定的に見過ぎではないか? 選挙権が二十歳から十八歳に下がったときも上の世代の人間たちは、普通に反対であるとかその理由を語ればいいものを、若者が悪いことをしたわけでもないのに、昔や他の国の若者に比べて未熟だの責任感がないだのと批判ばかり口にするという印象だったし。自身や自分たちの世代は若い時分、そんなにしっかりしていたのか?

 そもそも世代というくくりで人の良し悪しを決めるようなのがいかがかと思う。人間は一人ひとり皆違うものだ。その世代ごとでかなり共通して見られる部分も確かにあるものの、それはその時々の社会情勢や教育などによって否応なく身につけさせられてしまったものであるはずだ。

 とはいえ、自分より上の世代に目立って見られる良くないところに対しては、まだ生まれていなかったりして、そうした事情をよく知らないのだから、文句を言ってしまいたくなる気持ちもわからないではない。しかし、下の世代は自らが教育したり影響を与えている側なのだから、歳が下の者たちに否定的な言葉を並べるのは自分たちのことを駄目だと言っているようなもので、しかもその自覚さえないのだから、これほどみっともないことはない。

 それに、いつの時代も若者が批判されるのは主にモラルが欠如しているという点であろうが、今の若者がそういった部分で過去の世代よりもひどいとはまったく思えない。当然善くない輩はいるし、インターネットの登場によって悪い行いを隠れてやりやすくなり、見えにくくなっている面もあるのだろうけれども、一昔前より深刻な社会問題が格段に増えていると感じる昨今のなかで、犯罪やトラブルをもっと起こしてもおかしくないし、全体的には真面目で、立派と言っていいくらいだろう。

 実は上の世代の人間の多くがそれを薄々感じているからこそ、「覇気がない」とか「内向きだ」といったかたちの批判をよくするのであろう。そして、それを象徴する言葉が「ゆとり世代」だったわけだ。覇気がないくらい、なんだ。ニヒリズムな若者なんてどの時代にもたくさんいるし、暴力だとか悪さをすることに比べたら遥かにましだろう。留学する者が少ないとか、指示待ちだ、受け身だ、などと言われたが、上の世代にしてみれば勝手に動かれるよりも扱いやすいということではないか。初めから何でもできる人間はいないのだから、少しずつ自ら物事をこなせるように指導してやればよい。それをくだらないレッテルを貼って批判して、愚かだ。

 だいたい、ゆとり世代のネーミングの由来である、彼らが受けたゆとり教育とは、それまでの大食い競争のように知識を詰め込んだ量が多いのを良しとする勉強のやり方では、単なる物知りな人間を増やすだけで、本人にも社会にもあまり役に立たないから、学ぶ中身をじっくりゆとりを持って習得させることで、思考力や読解力といったものを身につけさせようという教育だったはずだ。だから、知識が減ったことで、普通知っていそうな言葉を知らなかったりする点を揶揄するならまだわかる。ところが、勉強も競争もさせないゆるい教育によって、ひ弱に育ってしまった世代だというおかしな批判がいまだにされている。

 競争していないというのは見当違いもはなはだしい。よく運動会で順位をつけなかったと言われるが、そんなことを実際にやった学校はごく一部だろう。それに、受験や就職活動といった競争は一度も途切れることなく続いているではないか。

 勉強にしても、国際的な学力調査で、それまでよりも点数と順位が大幅に下がったことで問題視されるに至ったわけだけれども、それは当初教員らがゆとり教育をどう実践したらいいかわからず混乱した面があったようだし、一方で、ゆとり教育の目玉の総合学習によって、点数が低いことより問題だとも言える生徒の乏しい学習意欲を向上させたところも多く、脱ゆとりのカリキュラムに変える前の時点で、点数も順位も以前の水準に戻ったんだったろう。

 週の休みが二日になったが、そのぶん土日は宿題がたくさん出されるという話も聞いたことがあるし、学習塾に通っているコが昔とは比較にならないほど多いのだから、遊んでばかりで勉強しなかったなどということはないはずだ。

 それでも本当にどこか良くないところがあったとしても、ゆとり世代に該当する若者たちが自らゆとり教育をやってほしいと頼んだのではないのだから、本人たちを悪く言うのは筋違いってもんだろう。

 なのに、いっとき頻繁にテレビでゆとり世代を駄目な連中としてからかうような番組をやっていたけれども、安易にそういうことをするから、それを見た当の若者たちは上の世代はみんな自分たちを否定的に思っているという感覚に陥ったりするだろうし、年寄りを老害などと逆に悪く言うことにもつながるんだ、まったく。

 マスメディアは誰かを喜ばせるために誰かをけなすようなことをよくやるが、凶悪な犯罪者やぜいたくざんまいな暮らしをしている芸能人といった一握りの人間ならまだしも、けなしている者たちだって自らの顧客になり得るはずなのに嫌われることをして、何を考えているのかとときどき不思議に思う。もちろん本当に倫理面などで問題があれば批判する必要はあろうが、馬鹿にするようなことを言ったり書いたりしても気にしないでいてもらえると思っているのか? 相当気に障ったり、根に持つような人だって少なくないんじゃないか? だからこそ、すぐにけなされがちな若者が従来型のメディアから大量に離れていっている部分があるんじゃないか? 昔は自身が悪く言われる対象でも、他に世の中の情報を得られるものがなかったから仕方なく受け入れたりしたのだろうが、今はインターネットで好きな情報だけ目にしていられるのだから。

 悪く扱うのがもっと多いであろう芸能人に対してだって、ビジネスパートナーだろうに、離婚をするかどうかで揉めているなど、悪事を働いたわけでもないときまでやたらと意地悪に報道するから、結婚のような良い出来事の際も会見等をしてもらえないようになってしまったんじゃないのか?

 ともかく、上の世代にしてもマスメディアにしても若者をよく批判するのは、人生で一番楽しく輝いている時期で、なおかつ先が長くて可能性もたくさん残されている彼らへの、嫉妬なんかもあるのだろう。もしも今の若者が反対に活動的で、いろいろなことにチャレンジしたりするならば、せっかく自分たちが築いてきた世の中の価値観などを大幅に変えられてしまい、もっと難癖をつけるに決まっている。

 日本は縦の力関係が強いのだし、典型的な弱い者いじめになっていると認識すべきなのだ。子どもにいじめをやめろと言っておきながら、自分たちがそれに近いことをしているのだと自覚して、できる限り温かい眼で見るように努力すべきであろう。将来介護などで彼らの世話になるかもしれないのだし。

 投票にいかない若者よりも、私が選挙のときに不快に感じるのは、同時に行われる最高裁判事の審査だ。あれは何なんだ?

 一応、判断するための資料は選挙公報と同様に用意されている。しかし、あれだけではピンとこないで困る人のほうが多いだろう。駄目だと思う判事の欄にバツをつけなければならない一方で、良いと考える判事にはマルではなく何も書かなくていいという方式も、わからないとか面倒といった理由で何も記さなかった人は全員を信任したことになってしまうわけで、それを期待しているようにも感じるし、税金を使ってわざわざやっているはずなのに、誰も罷免されないよう形式的に行っているだけという印象を強く受ける。

 最高裁は、庶民の感覚なら当たり前なことを決定するまでに相当な月日を要したり、地裁の判決よりも権力寄りと感じるケースが少なくないし、一人ひとり好ましい判事なのか、できることならちゃんと判定したい人だってそれなりの数いるであろうに、マスメディアも知識人もこの審査に対する言及や議論が少な過ぎる。おかしいだろう、ったく。

 あ。

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