第25話

「女神様、ちょっと退いて」

 ゴーグルを付けながら飛び込み台付近に立っていた彼女に声をかける。すると、不思議そうな顔をしながらも指示に従ってくれた。

 また女神様呼びに反応しかけていたことには触れないでおこう。

 安全であることを確認してから、プールサイドを駆け出して飛び込む。やっぱこれやらないと練習始まらないよね。

「凄いですね。光月さん」

 それから一往復泳いで帰ってくると、プールサイドから声をかけられた。

「んーにゃ、わりと普通よ」

 もう卒業した先輩も昔やってたし。

「今からアップしてくるから、それ終わったら始めるよ」

「は、はい。分かりました」

 やった事の無いことに挑戦するということで緊張している彼女を見て笑みを零しながらプールの壁を蹴る。

 そこまで緊張することでもないんだがな。

なんてことを考えながら。


 どれくらい泳いだだろうか。200mくらいだろうか。凍えるような水温の中でもストレス無く動けるくらいには身体が温まってきた。

 もっと効率的なアップ方法は無いかと考えているのだが、これがまた思いつかないんだよな。水泳の効果的な練習が分からなくて半年ほど困っている。

「清水さん。やるよ」

「は、はい」

 彼女にメニューの本数と時間を指定して、スタートの合図を促す。

「ご、五秒前。三秒、よーい……はいっ!」

 良いじゃん。と心の中で謎の先輩面をかましながら壁を蹴ってスタートする。

 最初のうちは心配だったため自分でタイムを見ながらやっていたのだが、何度か泳ぐと彼女も慣れてきたのか、スムーズに合図を出してくれるようになった。

 清水さんのおかげで本数とタイム管理に気を回さなくて済む。つまりそれだけ練習に集中できるということだ。

 意識するということは、みんなの想像の百倍は大切なことだ。腕立て伏せ一回だって刺激される筋肉に意識を向けるだけで効果が何倍にも膨れ上がる。

 俺の種目は自由形、一般的にはクロールで泳ぎ切る種目だ。

 基本的な泳ぎだし大体の人は泳げると思うのだが、コンマ数秒を競う世界になってしまうと、腕の動きだけでも注意する点は呆れるほど見つかってしまう。

 水の抵抗を最小限にした静かな入水。僅かな体力で多量の水を掻くことができる軌道、水から出るその瞬間まで水を押し飛ばして前に突き進む。

「塩タブレットです」

「あがっと」

 前半のメニューが終わって少し長めの休憩に入ると、清水さんがタブレットをくれた。

 水に濡れて小袋が開けづらい俺でもすぐに食べられるようにわざわざ袋から取り出して渡してくれる彼女からは、女神たる所以を感じる。彼女に言うと睨まれるし言わないが。

 この時期ということもあって攣らないように水分と塩分の補給は欠かせない。女神様から受け取った塩の塊を口に放り込む。

 うーん、この味好きじゃないんだよな。

「なんというか、凄いですね」

「……なんが?」

「いえ、練習中の貴方はイメージとだいぶ違うというか。集中してるな、と」

 そんなに鬼気迫る練習をしていただろうか。俺自身はいつもの事だし、特に気にしたことがなかった。

「みんなこんなもんっしょ」

と軽く笑うと、彼女に速攻で否定された。

「一周のタイムも常にギリギリで設定されていますし、メニューだけでなく貴方自身も妥協を許さないように意識していますよね」

 そういうわけではないのだが、周りからすればそう見えてしまうのだろうか。

「どうしてそこまで?」

 彼女は心の底から不思議だ、という顔をしていた。そんな彼女に俺はプールの水で遊びながら笑いかけた。

「才能無い人間が彼らに追いつくには、僅かな甘えも許されないんだよ」

 これは、俺の個人的な意見だ。しかし正しい考えだと思っている。

 俺は元々運動なんてしてきちゃいない。強いて言うなら武道の指導を少々受けていたくらいだ。そんな人間が突然運動部に入ったらどうなるか、そんなことガキでも分かる。

 一瞬で置いていかれてしまう。それを阻止するには、彼ら以上の努力が必要になる。これも猿ですら分かる簡単な話だ。

 食らいついている理由を挙げるなら、単純に俺が負けず嫌いだというくらいだろうか。

「意外でした。貴方はもっと適当にやっているものかと」

「心外だな。俺がそんな人間に見えるか?」

 まさか彼女からそんな評価を受けていたとは。悲しいものである。

 この悲しさを表現するように、俺はムッとした表情をしてみる。

「貶しているわけではなくて、ただ普段の貴方からは想像もつかないというか」

「あはは、わかってるよ」

 確かに普段の俺は雑に物事を終わらせるし何かに熱中するような人間には見えないだろう。といっても桜桃は別だが。

「不快にさせてしまったのであれば、申し訳ないです。貴方が集中すると凄いというのは見ていたのに……」

「気にしないで。ほら、次のメニューだ」

 彼女が申し訳なさそうな表情を浮かべたところを見た俺は笑って話を変える。

 桜桃のリスナーである彼女だ。俺のことは理解してくれているだろう。それでも、桜桃だと知る前の印象が抜けてないと見える。

「分かりました。では行きます」

 彼女も俺の考えを感じ取ってくれたのか、食い下がらずに時計を見つめた。

 そうして少し長めのレストが終わり、俺は再び泳ぎ始めるのだった。

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