第22話
胴丸を身につけ、たっつけ袴に脛当を脚に結びつけた源二郎が仮眠から目覚めたのは
真乃は濡れ縁に面した腰高障子の傍で襖に凭れていた。
「不気味なほど静かだよ」
囁きで真乃が教えた。
源二郎は用を足して真乃と交代した。
茶を飲みながら、握り飯を一つ食べる。
思う存分剣を振るうためには、満腹は論外だが、空腹も良くない。
待つ時間は長く感じる。
真乃の言う通り、不気味なほど静かだった。虫の音も聞こえてこない。じっと耳を澄ますと、微かに河岸に打ち寄せる波の音が聞こえた。
深川は水の匂いが強い。源二郎は来る度に思う。江戸は水路があちこちに走っているが、埋め立てられて間もない深川では特に水の気を感じるのだ。
時々軽く身体を動かしながら、ひたすら時の過ぎるのを待つ。
やがて丑の刻(午前2時頃)の鐘が小さく鳴った。
むくりと真乃が半身を起こした。すぐに刀を帯びて源二郎の隣へ来た。
源二郎はじっと耳をすませた。
水の音に何かが混ざっている。
――どこだ?どっちだ?
息をひそめる。
どれくらいの間があったのか。
ピーッと呼び子が遠くで鳴った。
「東だ」
源二郎の判断に真乃は障子をあけながら返した。
「宮嶋屋だな」
二人ともすぐに駆け出せるように草鞋を履いていた。濡れ縁から飛び降り、木戸へ三歩でたどり着く。
源二郎が引いて開けた木戸を真乃が潜り抜ける。その後を追う源二郎。
二人は内田屋の南東にある宮嶋屋を目指した。
――呼び子に賊は押し込むのをやめただろうか。それとも敢えて押し入ったか。呼び子を鳴らした見張りは二階にいるが、そちらを狙ったろうか。
源二郎も真乃もブレの少ない走りで突き進む。
内田屋から宮嶋屋への最短は、宮嶋屋のある一角の北側から路地を入り、宮嶋屋の裏木戸に出る経路だ。しかし、佐賀町の河岸は南の方にある。賊がそちらに逃げる可能性が高いと、挟み撃ちにすることも考えて角で二手に別れようとしたとき、北に開いた路地から黒ずくめの男達が出てきた。五人いた。源二郎達を見たからか、もともとの逃走路か、全員が路地から右へ、東へと駆け出した。
源二郎と真乃は顔を見合わすこともなく、揃って黒ずくめの男たちを追った。
――奴等はどこに舟をとめたのだ?まさか木戸の向こうの隣町の河岸?
今度は路地の口から着物を端折った若い男が飛び出してきた。見覚えがあった。直助だ。
源二郎は驚いた。
安藤も同意し、見張り役には賊を見つけても二階からおりるな、後を追いかけるなと、指示してあったのだ。
理由はもちろん、見張り役の力量では賊の浪人に斬られてしまうからだ。
「直助!追いかけるのはよせ!」
おそらく源二郎よりも早く直助だと認めたであろう真乃が叫んだ。しかし、直助はこちらを振り向くことも躊躇することもなく、そのまま賊を追いかけた。
「あいつ、何考えてるんだ!」
黒ずくめの男達の最後尾にいた二刀を差している男が立ち止まり、振り向いた。
抜刀から直助に斬りかかる。直助は見事にその初手を脇差で弾いた。と、思う間に直助の脇差は黒ずくめの男の肩をついていた。一見すると見事だが、直助は喉を狙ったのに交わされたのだ。
次の瞬間黒ずくめの男の返した刀が下から直助を襲った。
真乃と源二郎は同時に小柄を投げていた。
顔に飛んできた源二郎の小柄を避けようとした黒ずくめの男は、同時に飛んできた真乃の小柄を避けきれなかった。肩に小柄が刺さり、短い唸り声を上げて男は後ずさった。
その間に源二郎と真乃は賊と直助が向かい合う場所に着いた。
真乃が抜刀しながら、直助と黒ずくめの男の間に割って入る。
源二郎は視界の隅でそれを見届けると、立ち止まることなく四人を追った。あの黒ずくめの男ならば、真乃は簡単に勝つ。
源二郎は賊を追いかけながら、安藤や勘六と話して決めた手筈を頭の中でおさらいした。
呼び子を慣らした直後から、宮嶋屋の直助以外の三人の見張りが安藤、越後屋、内田屋の見張りに知らせに走ったはずだ。
近くにいた内田屋の見張り要員は呼び子が鳴り響いた時点で少なくとも二人は大川の西へ知らせに走り出す。豊島町の駒形屋や奉行所へ、である。後の一人は宮嶋屋の見張りから詳細を確認し、第二の使者として大川の西へ走る。そして、残る一人は勘六親分の腕っぷしの強い手下なので、捕り方の賊捕縛の加勢に後からこちらに向かっているはずである。
万蔵がどこへ知らせに走ったかわからないが、報告の役目を終えたらすぐに取って返しているはずだ。
越後屋の見張りをしていた捕物に自信のある勘六の手下も捕り方の加勢にこちらに向かっていることだろう。
隣町との境にある木戸は、人が楽に通り抜けることができるくらいの幅が開いていた。
木戸番は無事かと心配しながら、源二郎は四人のあとから木戸を抜けた。血の臭いはなかった。走り抜けながらちらりと認めた様子では、どうやら木戸番は猿轡で口を塞がれ縄で動けないようにされているだけだ。
源二郎は安堵した。
四人はひたすら東へ走っていく。四人のうち、二刀を差しているのが二人、脇差だけを差しているのが二人だ。
この先、今走っている道は水路で行き止まりになり、左右の二手に別れる。その右の道に沿って河岸がある。どうやら賊はそこに舟を置いているらしい。
道が左右に別れる箇所で大柄な二本差しの男が立ち止まり、振り向いた。
月明かりに浮かび上がる人影に、間違いなく白井般右衛門だと、源二郎は思った。仲間を逃がすために源二郎を迎え撃つ気だ。
右へ向いた三人の姿が町屋に隠れて源二郎に見えなくなった。
安藤が北の仙台堀に舟でひそんでいるから、今頃は知らせが届いてどこかの水路から南へ向かっているはずだ。賊の乗る舟を見つけられるか。間に合うか。
――間に合ってくれ!
後ろからは真乃の気配と足音がしていた。真乃以外の足音も微かに聞こえる。
舟で逃げる三人は安藤と真乃達に任せ、源二郎は般右衛門に集中することにした。真乃が言ったとおり、般右衛門を引き受けて仕留めるのが源二郎の役目だ。そして集中しなければ、般右衛門に殺られる。
般右衛門は仲間が舟に乗って漕ぎ始めたからか、源二郎が追うのは自分だとわかっているからか、左の方へ駆け出した。そこには豊島橋がある。
般右衛門は豊島橋の中ほどで立ち止まり、振り向きながら刀を抜いた。源二郎をそこで倒すつもりだ。
源二郎は橋の入り口で刀を抜いた。ゆっくりと橋に足を置く。
豊島橋は長さ六間(約10m)、幅三間(約5.5m)の府内にある橋としては平均的な大きさの橋である。落ちないように両端に高さ三尺(約90cm)の欄干がつけられている。
般右衛門との間合いはこのときにもう三間をきっていた。
「勇ましい格好だな」
般右衛門が先に口を開いた。
「あなたに肋を折られたおかげでね」
源二郎は一瞬で口の中がからからになっていた。
落ち着けと自分に言いきかす。
源二郎はゆっくりと右下段の構えをとった。刀を相手から隠す構えだ。
般右衛門もまたゆっくりと刀を動かした。顔の横に刀を構える、右の脇構えをとった。切っ先はまっすぐ源二郎に向いている。
その構えに般右衛門の流派は東軍流らしいと源二郎は思った。通り一辺のことしか知らないが、脇構えに特徴があると聞いていた。
その構えから、突きの鋭さを連想した。
源二郎が他流のことをあまり知らないというか、知ろうとしなかったのは、違いは些末な部分であり、根本はどれも同じだと思っているからだ。もともとは剣術の師匠の受け売りだが、実際に破落戸を倒したり、立ち会いや果たし合いに巻き込まれて実感した。
「町方が張っていたというよりも、お主が張っていたのだな」
般右衛門は淡々とした口調で言った。
「自分ならばこのような場合どうするかと考えて出した答えです」
源二郎は下段に構えたまま、般右衛門に返した。般右衛門を目の前に、賊とわかっていても、源二郎はつい丁寧な言葉使いになっていた。
「そうか……」
般右衛門の声はやはり淡々としていた。感情が読めない。
互いに構えたまま、源二郎は僅かずつ歩を進めた。
般右衛門の足元は足袋だった。夜に溶け込む黒足袋だ。つまり、足元が良く見えない。
源二郎は月明かりの中、全身を研ぎ澄まして黒ずくめの相手の動きを捉えようとした。
ただ、感覚を研ぎ澄ましつつも、身体は緊張していない。身体を緊張させては、いざというときに滑らかに動き出せない。それが剣術の師匠に何度も十代半ばの源二郎が注意されたことだ。
般右衛門も緊張しているようには見えなかった。構えは微動だにしないが、力が入っているわけではない。強敵である。
二人ともこの状態ならば何刻も相手の動きを待てる。
大抵は仕掛けた方が不利になる。その不利をはねのけるには……
その時、豊島橋の横、橋がかかっていない南北に走る水路を白波を蹴立てながら舟がやって来た。ぐんぐん近づいてくる。
舟の後方にでんと立っている人物は遠くからでもわかった。安藤茂兵衛だ。舟の揺れにびくともせず、片手に十手、片手を腰に当てて前を見据え、なにやら短い言葉を発している。
安藤の前には片側に四人ずつ、計八人の
それこそが、本所見廻りが誇る
鯨舟はあっという間に横を過ぎていった。横を過ぎて行く時、安藤がちらりと源二郎の方を見て、十手をあげた。舟はこちらに任せろということだ。
――安藤さんが本所廻りからなかなか変わらないのは、この鯨舟を指揮する手腕ゆえか……
鯨舟の速さに一瞬、般右衛門への注意が切れてしまった源二郎だったが、般右衛門も鯨舟に気を取られたらしく、動きはなかった。
源二郎は思いきって動いた。ギリギリまで我慢して下段から切り上げた。
般右衛門は源二郎の刀を払いながら、揺るがない突きを見せた。源二郎は半身になって紙一重で突きを交わした。
突きの鋭さに源二郎は交わしながら恐怖を感じた。剣術の師匠以外では初めてのことだった。
般右衛門の返しは早かった。小手を狙ってきたのを源二郎も素早く払われた刀を引きよせ、上段で跳ねた。
跳ねる動きから滑らかに返して振り下ろす。
般右衛門は横から突きに来た。
横凪ぎをなんとか鎬で切り落としたが、前に出れず源二郎は二歩下がった。
すかさず般右衛門が前に出てくる。突きの連続が源二郎を襲う。源二郎が胴丸を身につけているため、般右衛門が狙ってくるのは首から上と手足だ。
源二郎は顔に向かってくる突きを反らし、小手狙いを跳ね、肩狙いを切り落とした。しかし、またも切り落としから攻撃に出れなかった。
源二郎は、刀を返してまたも襲ってきた相手の切っ先を擦りあげながら、後ろへすばやく大きく退いた。体勢を立て直したかった。
般右衛門は前に出て来なかった。やはり体勢を立て直そうと考えたのだろう。
幅は三間しかない橋の上である。刀を振るうには狭い。
欄干に押し付けられては殺られると、双方が前後の動きを繰り返していた。
また間を取って二人は暫時対峙した。
この時も源二郎は右の下段に構え、般右衛門は右の脇構えだった。
そのときになって源二郎は後方の人の気配に気づいた。真乃は先ほど通り過ぎた。万蔵だ。息をつめて二人の対決を見ている。
じっと見合う間にも駆け引きは行われている。いかに相手にこちらの手を読ませずに動くか。相手をどうこちらの手に誘うか。
源二郎の頭の中では様々な一連の動きが再現されていた。
源二郎は心を決めた。再度仕掛けた。
般右衛門の喉を狙う鋭い突きを源二郎は下から円を描くように刀を動かして左の鎬で払った。仕掛けた勢いとその動きを使って源二郎は般右衛門の横の欄干へ跳び上がった。
横へ動いた源二郎を振り仰ぎ刀を返して斬り上げる般右衛門。
欄干から飛び下りながら、その首筋に刀を振り下ろす源二郎。
ほぼ同時だった。
般右衛門の刀が胴丸の胸に一瞬突きささった。それから落ちていった。
源二郎の刀は般右衛門の首に確かに振り下ろされた。
般右衛門がゆっくり俯せに倒れていく。
血は噴き上がらなかった。
源二郎が差していたのは刃引きした刀だったからだ。
欄干から飛び下りた源二郎は般右衛門のそばに落ちた刀を手が届かない所へ蹴った。帯から脇差も抜いた。
「万蔵、捕り縄を出せ!」
般右衛門の両腕をその背中であわせながら、源二郎は叫んだ。肋に響いた。
思わず、胴丸のうえから肋を撫でた。心の臓辺りの鉄が凹んでいた。
思えば、刀を振るっている間に肋に痛みが走らなかったのが不思議だ。それだけ集中していたということだ。
欄干に飛び乗らなければ、源二郎は首を突かれていたことだろう。そして、胴丸をつけていなければ心の臓を突かれていただろう。
万蔵が走ってきた。
「旦那、すげぇや!かっこ良かったぁ!五条大橋の義経みてぇだった!」
「義経記じゃ、義経が弁慶と戦ったのは、五条天神宮だけどな……早く縄を出せ」
般右衛門はすぐに気が付いた。源二郎はその逞しさに改めて恐れ入った。
首の傷みに少し顔をしかめたが、般右衛門はそれほどこたえているように見えなかった。後ろ手に縛られているのに気がついてから口を開いた。
「首がついているとは思わなかった。刃引きした刀を差していたのか……」
源二郎はひとこと「はい」と答えた。
「
源二郎は万蔵に手伝わせて般右衛門を座らせ、手足を縛った縄目が緩んでいないか確認しながら答えた。
「それがしは町方の同心です。賊を捕えるのが役目であって、仕置きするのが役目ではありません。捕物には刃引きした刀を差すのが決まりです」
そう言った直後、源二郎ははっとして、般右衛門の顎を両手で押さえた。般右衛門が舌を噛みきろうとしたと感じたのだ。
「自害は許さない!あなたにはやらないといけないことがある!」
般右衛門が源二郎を睨み付けた。その目は怒りではなく理由を尋ねていた。
動きと叫びで肋に走った痛みを堪え、源二郎は続けた。
「お、お白州で全てを話してください。弟御の身に何があったか、あなたがやったことも全て話すんです。それこそが弟御のためにあなたがやらないといけないことです」
般右衛門はじっと源二郎を見つめていた。源二郎が顎から手を離すと言った。
「今さらそんなことをして何になるのだ?弟は戻ってこない。国(藩)の連中は自分達の過ちを認める訳がない。誰も気にしない」
「すぐには何も変わらないかもしれません。ですが、どんな形であれ、後世に真実を残すことが大事だと、それがしは思います。弟御の身に起きたことは、我々町方の教訓になるだけでなく、こんな悲劇があったと、いつかあなたのお国に伝わるかもしれない。伝われば、お国でも二度とそのような悲劇を起こさないという教訓になります。何も変わらないかもしれない。けれど、変わるかもしれないんです。やらないで決めつけることこそ、逃げだ。それこそがあなたの……あなた自身への憤りと悔いだったのではありませんか?」
祖父江から黒木半右衛門の話を聞いたときに源二郎が疑問に思った、何故、盗賊の仲間に入り、無腰の町人を斬り金を奪うという悪行を続けているかの、源二郎なりに出した答えだった。般右衛門は自分を許せないでいると思ったのだ。色々な悔いがあり、その一つが他にやりようはなかったかという思いではないのかと。
憤りのまま、上に申し立てたとて無駄だと仇討に走ったのだろうが、源二郎からしたら、仇討ちをする前に、或いは同時に、弟が無実だと世間に知らせることを何故やらなかったのか不思議だった。仇討ちはその後でも良かったではないかと。そこに般右衛門と源二郎の、おそらく生い立ちからくる大きな違いがある。
般右衛門は指南するのも武士で、おそらく武士の中だけで生きてきたのだろうが、源二郎は微禄の町方役人の子として町地に住む多様な人々の話を聞き、実際に様々な人々と交わって育ってきた。彼等がまとまった時の力を知っている。
二人には似たところがある。だが、大きく違うところもある。違っているところが大事だと言った真乃の言葉が源二郎の頭に甦っていた。
「決して自害してはなりません。それは逃げです。臆病者のすることです。そうして、理由はどうあれ、無腰の町人を斬り殺した咎は消えません。その罪を償わないといけない」
源二郎は般右衛門に語りかけながら、涙を堪えていた。
般右衛門はじめ、押し込みの実行犯、五人の刑罰は、まず間違いなく市中引き回しのうえ獄門(晒し首)である。
わずか二月足らずの付き合いだったが、その間に源二郎が般右衛門との交流で心に得たものは大きかった。賊だとわかっても、その間に得たものを打ち消すことはできなかった。
――どうしてこんなことに……あなたほどの人が……
この期に及んでもその気持ちは消えない。
源二郎が話しかけている間、般右衛門は遠くを見ていた。無表情だった。
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