Ⅰ-ⅰ.ライラ
001 女王の娘
人が走ってくる音。
多くの人が行き交う広い通りで、まさか、それが自分の背中めがけてぶつかってくるなんて思わなかった。
「いってぇ」
思わずふらつく。
突っ込んできたとしか言いようがない衝撃。誤ってぶつかった、っていうレベルじゃないぞ。
「助けて」
女性らしい高い声に振り返る。
文句を言おうと思ったのに、最初に見えたのは顔じゃなくてツインテールに結んだ黒髪。その頭が動いて顔が見えたと思った瞬間。
輝く黒い瞳と目が合う。
静寂に放り込まれたような感覚を味わったのは一瞬。次の瞬間には、周囲のやかましい音が耳に入り込む。
っていうか、今、なんて言った?
助けて?
視線を遠くに向けると、男が三人走って来るのが見えた。
追われてるらしい。
「ったく」
紫色の玉を取り出して、地面に叩きつける。
「来い」
手を掴んで走る。
割れた玉から噴き出した紫煙が辺りに漂って、あちこちから悲鳴が上がった。
少量の混乱薬が混ざっているけど、ほとんど無害なものだ。煙が収まるまでには落ち着くだろう。
「ありがとう」
ありがとうって。
助ける以外の選択肢、なかっただろ。
さて、どこまで逃げるかな。
この辺りを歩いたのは今日が初めてだ。
周辺の地図を頭に描いて自分の位置を確認する。近場で人が多いのは朝市かな。この先の角を曲がれば見えてくるはずだ。
※
思った通り。
すぐに賑やかな通りに出た。
「この辺まで来れば大丈夫だろ」
どんな因縁をつけられたんだか知らないけど、流石に、ここまで追いかけては来ないだろう。
「じゃあ、気を付けてな」
「待って」
歩き出そうとしたところで、腕を掴まれた。
「なんだよ。礼ならいらないぜ」
「違う。……その、助けてほしい」
「助けてやっただろ?」
「そうじゃなくって……。そうなんだけど……」
立ち止まったまま、全然、腕を離してくれる様子がない。
しかも、簡単に振り払えるような力じゃない。こんなに小さいのに、なんて力してるんだ。
……いや。この形は剣士だよな。
胸部と背部を保護する白いキュイラスにフォールドとタセット、膝を超える長さのブーツ。両手は皮の手袋、腕は左だけ前腕から手の甲まで保護する篭手を身に着けてる。くすんだ紅のマントの内側に背負っているのは大剣。こんな重いものを扱えるなら、かなり鍛えてるに違いない。
身長なんて、俺の肩ぐらいまでしかないのに。……いや。グラシアルはラングリオンよりも平均身長が低いって話だから、これでも成人してるんだろう。王都を歩いていても、俺より背の高い女性なんて全然見かけなかった。
そういえば、兜は装備してないんだな。高い位置で二つに分けて結ばれた漆黒の髪は、結んでるというのに膝ぐらいまでの長さがある。
そのツインテールが動いて……。
「私を守ってほしい」
また、こちらを見上げた輝く瞳と目が合った。
綺麗。
宝石のような潤いと輝きをもつ黒。
まるで吸い込まれそうな……。
……何、考えてるんだ。
「護衛依頼なら、冒険者ギルドに行け」
これ以上、付き合う義理はない。
買い物の途中だ。さっきの店に早く戻ろう。
「あなたじゃないと、だめなんだ」
俺じゃないとだめ?
「どういう意味だ?」
「私の名前はリリーシア。リリーシア・イリス・フェ・ブランシュ」
ずいぶん長ったらしい名前だな。
「貴族なら、よけいに信頼できる筋を頼んだ方がいい」
見ず知らずの人間に言うことじゃない。
「この国の人間じゃないんだよね?」
「違う」
否定したのに、何故かリリーシアがほっとしたように息を吐く。
「お願い。出来るだけ早く、この街を出たい」
「なんで……」
『尾行されてるな』
尾行?
『本当ね。こっちを見てる人が居るわ』
妙だな。
偶然、因縁をつけただけなら、リリーシアを見失った時点で追いかけるのを諦めるはずだ。なのに、偵察役が別に居るなんて。
『いつまでここに居るのぉ?』
『ここに留まっているのは危険では?』
そうなんだけど。
「今の声、誰?」
……声?
『あら。聞こえているの?』
「どこに居るの?」
リリーシアが、きょろきょろと周りを見る。
『今は、姿を見せられないのだけど』
「どうして?」
ちょっと待て。
『なんて言ったら良いかしらね』
会話が成立してる?
俺が契約している精霊と?
なんで?
契約中の精霊の声は、契約者にしか聞こえないはずなのに。
……気が変わった。
「こっちに来い」
「え?」
まずは、追手をどうにかしないと。
※
リリーシアの手を引いて、朝市を離れる。人通りの少なそうな道を進むと、すぐに静かな通りに出た。
そろそろ来るかな。
『来た』
柄の悪そうな人間が五人。俺たちを尾行してた奴が呼んだんだろう。さっき、リリーシアを追い回してた奴も混ざってるな。
俺の手を掴んでいたリリーシアの力が強くなる。
間違いない。こいつらは、意図的にリリーシアを狙ってる。
「大人しくその女を渡しな」
「なんで?」
「でっかい剣で俺にぶつかって来たからに決まってんだろ」
ぶつかるような位置にあるか?これ。
「人違いじゃないか?」
「そんな長い髪で派手なマント付けた女が他に居るわけないだろ」
確かに、この容姿と服装は目立つ。
「お前たちこそ、女一人相手に何人連れてきてるんだ。ちょっとぶつかったぐらいにしちゃ、やりすぎじゃないのか?まさか、人さらいじゃないだろうな」
「うるさい!さっさと女を渡せ」
逆切れか。
「断る」
これ以上、情報は引き出せないな。
体の周囲に炎を集める。
「くそっ。魔法使いか!かかれ!」
五人の男が動き出す前に、闇の魔法を使って全員の影を縛る。
「なんだ?」
「動けない……!」
朝とはいえ。薄暗い場所なら、闇の魔法もかかりやすい。
動揺する相手に向かって集めた炎を放つと、五人が火だるまになって燃える。魔法を食らった男たちの悲鳴に加えて、すぐ隣からも小さな悲鳴が聞こえた。
「待って。そこまでしなくても……」
「これぐらい、大したことじゃないだろ」
「だって、燃えてる」
「魔法の炎は自然現象の炎と違う」
「そうなの?」
そうなの?って。
「魔法、見たことないのか?」
「こういうのは……」
どういうのなら見たことあるんだよ。
「あの……。本当に、大丈夫?」
「こんなんじゃ死なないし、火傷も出来ない。大したことじゃないって言ってるだろ」
燃えてるように見えるのは、魔法が発動している状態だから。もちろん、炎の魔法がかかっている相手は火傷が出来るような痛みを感じてるだろうけど、この魔法で火傷痕が出来ることはない。
「ごめんなさい……」
なんで、謝るんだ。
炎の魔法を消して、眠りの魔法で全員を眠らせると、五人の男が倒れた。
「あ……」
「眠りの魔法だよ」
これが一番、見た目に穏便だろう。
「これで全部か?」
『まだ居る』
『あ。あれじゃなぁい?』
『こっちには来ませんね』
ずっと、俺たちを尾行してる奴。
「おい!隠れてるのはわかってるんだぞ!出てこい!」
声も気配もしない。
挑発には乗って来ないか。
『去ったようだな』
逃がすわけにはいかない。
更に仲間を呼ばれたら面倒だ。
「追尾してくれ」
『了解』
「わっ」
急に、リリーシアがしゃがみ込む。
まさかと思うけど。
今、飛んで行くメラニーが見えた?
顕現の指示を出していない精霊は、契約者である俺にだって見えないのに。
「とりあえず、こっちに来い」
閑散とした裏通りに居たら何に絡まれるかわからない。今は尾行もなさそうだし、人通りの多い朝市に戻ろう。
手を引くと、リリーシアが大人しく付いて来た。
「お前、精霊が見えるのか?」
「え?」
リリーシアが首を傾げて、それから、何か気付いたように上空を見上げる。
「精霊が自然の中にたくさん居るのは知ってるんだけど……。その……。人の体から出て来るのは初めて見たから。だから、びっくりして……」
俺が聞いてるのは、そういうことじゃない。
普通、精霊は顕現しなければ見えない存在だ。なのに、リリーシアは見えている。さっき空を見上げてたのも、上空に居る精霊を見てたからだろう。
でも、人間と契約中の精霊は普段、契約者の体に入っているものだ。それを知らないなんて?
「お前、いったい何者だ?」
「私は、リリーシア・イリス・フェ・ブランシュ」
聞いてるのは名前じゃない。
ん?ブランシュ?
「今のグラシアル女王の名前はブランシュ。私は、女王の娘なんだ」
「……は?」
女王の娘?
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