第58話 同じだね
何かが触れていた。それがなんだか分からないが、確かに自分のどこかに何かが触れているのだ。二回、三回と繰り返し、場所を変えて優しく触れてくる。まだ意識は宙を漂っているらしく、うまく思考が働かない。
ゆっくりと意識が身体に戻ってくる。その何かは自分の顔に触れているらしい。温かくて柔らかくて、少ししっとりとしている。この感覚は何度か覚えがあったような気がした。
目を開けると、至近距離にひかりと彩月の顔があった。
「んぁ……?」
「おはようあつにぃ」
「おはようあっくん」
二人分の挨拶に、同じように挨拶を返す。ぼーっとしていた頭にようやく思考が戻ってきた。
「近いっすね」
「うん」
「ずっとあっくんをかんさつしてたからね」
三人で寝ると、こうしてひかりと彩月が先に起きるパターンが多い。朝は苦手というほどではないのに、なぜ二人よりも早く起きられないのだろうか。
「それはそうと、もしかしてキスとかした?」
「えへへ、しちゃった」
「そりゃするでしょ」
ひかりと彩月の物理的接触は、日に日に頻度と濃厚さが増している気がする。寝起きにキスなんて以前の関係なら考えられないことだ。されて嫌な気持ちになるわけではないが、なんというか、爛れているような気がしてしまう。
「そのー、二人にはもう少し節度を持ってほしいというか」
「せつどって何?」
「えーと……ほら、彩月が前に言ったろ。親しき仲にもってやつ」
篤哉が言うと、彩月が不機嫌そうな顔になる。そしてひかりが呆れたような顔で言う。
「親しいからこそでしょ?」
「そりゃ親しいからキスするんだろうけど、そうじゃなくて。こういうのは他の人に見られたらなんて思われるか」
言いかけて、しまったと思った。二人がどんどん不機嫌な表情になっていく。
こうしてひかりや彩月と一緒にいること、以前よりも関係が深くなっていること。それをどこかで“いけないことをしている”と思っている自分がいる。それに気づいてしまった。嬉しいことのはずなのに、世間に後ろ指を指されるのではないかと臆病になる。
志保に対して“悪いことをしているつもりはない”と言ったのに、自分は何も覚悟ができていない。弱くて卑怯な人間なのだ。
この罪悪感に似た感情は、ずっと付きまとうのだろうか。それともいつか吹っ切れてなくなるのだろうか。
答えは出ないが、今は二人の機嫌は取らなければならない。
「ごめん。変なこと言った」
素直に謝ると、二人は笑って許してくれた。今朝は二人とも機嫌がいいようだ。
「今朝のキスはね、お礼のキスだよ。昨日の夜、わたしとひかりちゃんをなぐさめてくれたお礼」
「おばあちゃんのことがあって悲しくなったけど、あつにぃがいてくれてすごく救われてるの」
そんなことを言われたら嬉しくなってしまう。二人の防波堤になるという自分の行動が実ったのだから。
「まあ、あれだ。二人のことはさ、俺が守る。守りたいと思ってうおっ」
言い終わる前に二人に抱きつかれてキスされた。二人の唇が嵐のように篤哉の顔を蹂躙していく。
「ちょっ、二人ともおちつけ。うひっ」
篤哉がマシンガンのような蹂躙を受けていると、部屋にノックの音がした。
「おはようみんな。もう朝ご飯の時間だけど起きているかな?」
飛び込んできた辰男の声に、三人は慌てて飛び起きる。ひかりがドアを開けて部屋の外へ出た。
「篤哉くんの悲鳴のようなものが聞こえたんだが、大丈夫かい?」
「あーへいきへいき。あつにぃが角の小指にタンスぶつけただけだから」
部屋の外の会話を聞いて、彩月と顔を見合わせて笑ってしまった。珍しくひかりが焦っている。ひかりも流石にキスをしているところを辰男には見せられないと思っているらしい。
「用意しよっか」
「そうだな」
篤哉と彩月は立ち上がって布団を畳んだ。
朝食はかなり豪華だった。それに加えてひばりの顔が昨日よりだいぶ明るかった。昨夜はきっと辰男がしっかり慰めたのだろう。普段はどちらかというと尻に敷かれるタイプの辰男も、守るべき人はちゃんと守っている。そういうところは素直に見習いたいと思った。
朝食を終えたら三人で近所の文房具店へ出かけ、紙芝居に使う画用紙を調達した。篤哉が画用紙を大人買いすると二人に尊敬の目で見られた。
そのまま再び桐生家へ戻り、ひかりの部屋で紙芝居の制作に取りかかった。ひかりは文章を進め、彩月は指定された場面の絵を描き始めた。篤哉は物語全体を場面毎に区切る作業に当たっていた。
「わあ……八重桜ってけっこうふくざつなんだね」
「本当だ、かなり立体的に咲くんだな。ていうか八重桜だけで何種類もあるのか……」
画像を検索していた篤哉と彩月は二人で唸っていた。なんとなく八重桜と言葉にしてみたものの、その八重桜にも百種類以上あり、数えきれないほどある中から一つの桜を選ぶのはかなりのセンスが要る。
しかし、そんな二人にひかりはこともなく言った。
「この“楊貴妃”っていうのでいいと思う。おばあちゃんのイメージにぴったりだし」
「でもその楊貴妃ってやつの説明に“可愛らしく咲く”ってあるぞ。ばあちゃんにぴったりっていうのはちょっと疑問なんだけど」
「あつにぃは分かってないなあ。おばあちゃんって気は強いけど、結構可愛らしい人だよ。あやとりとかお裁縫得意だし」
そういえば、静の趣味は女性らしいものが多いというのを思い出した。生け花もするし、お菓子作りだってする。それに、機嫌が良い時はたまに少女のような笑みを見せる時がある。色々思い出してみると、ひかりの言うことは間違いではないかもしれない。
「そうだな、ひかりの言うとおりだった。楊貴妃って桜にしよう。彩月、行けるか?」
「まかせて!」
紙芝居のメインとなる桜が明確に決まり、彩月のペンに力が込められる。
昼過ぎまでひかりの部屋で制作に励み、バスの時間が来たところでひかりに別れを告げ、篤哉と彩月は帰路に就いた。
帰りのバスの中で、彩月が久しぶりに亡くした父親のことを話してくれた。人の生死を身近に感じる出来事があったからだろうか。
彩月の父親の話は聞いていて基本的に心が温かくなるような話なのだが、その話を聞いて気づいたことがある。彩月の父親はどこか自分に似ているような気がする。行動や言動、恐らく雰囲気も。
勘の鋭い彩月がそれに気づいていないわけがない。だからこそ、なんとなくむず痒い気持ちになる。もちろん嫌な気持ちにはならないし、寧ろ嬉しく思うのだが、それにしても少し気恥ずかしい。でも、一度会ってみたかったという気持ちもあった。
「ねえ、今度はあっくんのお母さんのお話が聞きたいな」
ひとしきり話して満足したのか、彩月はそんなことを言った。
「母さんの話かあ。うーん、そうだなあ」
想いを巡らせると、胸に蘇ってくる。母とはたった18年ほどの付き合いだったが、思い出せる出来事はたくさんあった。
どの出来事から話そうか考えていると、視界の隅にふと何かを捉えた。
バスは信号待ちで駅前の交差点に停車している。交差点は駅前広場に隣接していて人通りは多い。ほとんど景色の一部のようなその人々が気になったことなど、篤哉にはなかった。でも、なぜか今は、周辺視野に捉えたある人物が気になってしまった。
駅前広場のベンチに、四十代くらいのスーツの男性の姿があった。姿勢を崩さずに座るその横顔は疲れた顔だ。
「あっくん、どうかした?」
急に無言になったのを不思議に思い、彩月が尋ねる。篤哉が見つめる一点に、彩月も視線を向けた。
「あれ、父さんなんだ」
「え、どれ? あのベンチに座ってる人?」
「うん。少し疲れた感じのスーツの」
「あの人があっくんの……」
窓側の席に座っていた彩月は、顔を窓に張り付けるようにして駅前広場の敦之を見る。その姿を目に焼き付けようと、じっと見つめた。
バスの窓から二人で駅前広場を見つめる様子はきっと滑稽に見えるだろう。そんなことを思って少し笑ってしまう。
「彩月には言ってなかったけど、ばあちゃんのことがあってこっちに帰ってきてるんだ」
「そうなんだ。あっくんの家で一緒に暮らさないの?」
純粋な一言に言葉が詰まる。普通の親子ならそうだけど、自分たちは歪だから。そう思っているが、言葉にはしなかった。
やがて、ベンチに座っていた敦之が何かに気づいて立ち上がった。立ち上がった敦之の元へ、にこやかに歩いてくる妙齢の女性の姿。篤哉と彩月は“あ”と二人揃って声に出す。女性と相対した敦之は、見たことのないような笑顔を浮かべていた。
バスが再び発車すると同時に、敦之と女性の姿は遠ざかっていった。
天津川に帰ってきてからは疲れた顔しか見せなかった敦之が、自分の知らない女性に笑いかけて楽しそうにしていた。それは篤哉にとってはそれなりにショックな出来事だった。ただ、どうしてショックなのかは自分でも分からなかった。自分で自分の感情を上手く理解できなかった。
自分には笑いかけてくれないのに赤の他人には笑顔を見せるのか、という嫉妬なのか。愛したはずの母に操を立てないことへの失望なのか。単純に昼間から何をするでもなく街をフラフラしている父への呆れなのか。
どれかと問われれば、たぶん全てなのだろう。全て交ざって肥大化して、敦之への感情は複雑なものに変わっていった。
けれど、篤哉が怒りに身を任せて怒鳴り散らしたりすることはなかった。ずっと彩月が手を握っていてくれたからだ。この小さな手で包まれているだけで、心は穏やかになれた。
「彩月がいてくれて良かった」
窓の外に流れる景色を見ながら、ぽつりと呟いた。相変わらず人の乗っていないバスの中で、篤哉の言葉は、エンジン音とタイヤが雪を掻き分ける音に紛れて彩月の耳に届く。
同じように窓の外を見つめながら、今度は彩月が口を開く。
「わたしと同じだね」
その少し困ったような笑顔を篤哉はただぼーっと見つめた。
彩月は父親を亡くし、母である神菜が別の男と交際を始めた。同じと言うのは早計だが、篤哉と彩月の境遇は似ているといえる。似ているからこそ彩月は篤哉の気持ちを理解できるし、慰めの言葉をかけてやれる。
しかし、彩月はほとんど喋らずに篤哉の傍にいた。バスを降りてからの帰り道も、何も言わずにただ篤哉の手を握っていた。それだけのことが、篤哉にとっては有り難かった。
夜、一人で考える。静のこと、敦之のこと、志保のこと、そしてひかりと彩月のこと。頭がパンクしそうになる。風呂上がりの篤哉は畳の上に転がってうめき声を上げていた。考えれば考えるほどわけが分からなくなる。
でも、そうして頭を使っていると、生きていると感じられる気がする。それに、理詰めで物事に当たる自分には、こうして考えることしかできない。
起き上がって何気なくスマホを操作して、敦之の番号を呼び出した。もう数年はかけていない番号だ。通話をタップしようとして手が止まる。
電話をかけたとして、話すことなんてあるのか。
あの女性のことが知りたい。
自分たち父子は歪だ。
母さんを裏切るのか。
歪を通り越してもはや崩壊しているのではないか。
もう自分とは向き合ってくれないのだろうか。
頭に様々な考えが浮かぶ度に篤哉の指はスマホの上でくるくると踊っていたが、結局その日は通話がタップされることはなかった。
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