第9話 プロローグ
「これで終わりにはしたくない――」
藤吉郎は、足元に広がる土をじっと見つめていた。夕陽が西の空を染め、山影が次第に深い闇へと沈み込む。耳元で草を揺らす風の音が、彼の心に妙な焦燥感をもたらす。農民として生まれ、農作業に追われる日々。田畑に尽くし、家族を養うことが己の定めだと誰もが信じて疑わない。だが、藤吉郎の心の中には、ある種の違和感が常に付きまとっていた。それは、他の農民たちが抱くことのない、漠然とした「未来への渇望」だった。
農作業の後、彼は何度も夜空を見上げた。星々が無数に輝く中、自分という存在がこの広大な宇宙の中でどれほど小さなものかを感じる。だが、それでも藤吉郎には、どこかに自分を変える機会があると信じていた。それが何で、どこにあるのかはわからない。けれど、このまま農作業に追われる日々を送ることは、彼には耐えられなかった。
村の片隅にある小さな家――そこに帰り、ふと母の顔を見る。年老いた顔つき、荒れた手。彼女は生涯を農業に捧げ、藤吉郎を育て上げた。母のその姿を見て、藤吉郎は無言の決意を固めた。彼女もまた、藤吉郎と同じように農作業に精を出していたが、その瞳には静かに生きることへの諦めが宿っていた。この村では、生まれた場所でそのまま一生を終えることが当たり前とされている。それがこの土地の、そして人々の宿命だった。
だが、藤吉郎にはそれが許せなかった。
「俺は、もっと大きなことができる。いや、もっと大きなことをしなければならないんだ。」
彼の心には、そんな焦りが募っていた。
ある日、彼の耳に信じられない知らせが入った。織田信長という若き武将が、桶狭間で今川義元と戦うというのだ。今川家は尾張を狙い、信長はそれを迎え撃つつもりだという。農民たちはその話を聞いても、ただ遠い世界の出来事として受け止めるだけだった。戦国の世にあって、戦乱は日常茶飯事の出来事。農民たちには、それが自分たちの運命に関わることなどないと思っていた。
しかし、藤吉郎にとってその報せは、違った意味を持っていた。
「これだ。これこそが、俺が求めていたものだ!」
藤吉郎の胸は高鳴った。戦――それは破壊と死をもたらすものかもしれない。しかし、その中には「運命を変える機会」が潜んでいる。藤吉郎は、この戦いが自分の人生を変える絶好の機会だと確信した。
「俺は、戦に出る。」
藤吉郎の口から発せられたその言葉は、村の誰もが耳を疑った。農民が戦に参加するなど、考えられないことだった。農業に従事し、田畑を耕すことこそが彼らの務めであり、戦場に立つことは許されるものではない。だが、藤吉郎の目には確固たる決意が宿っていた。
親友の権六が、彼を引き止めようとした。
「藤吉郎、お前、何を考えているんだ?戦は遊びじゃない。死ぬかもしれないんだぞ!」
しかし、藤吉郎は笑みを浮かべて答えた。
「死んだって構わないさ。俺はこの村で腐るつもりはないんだ。戦で名を上げて、もっと大きな世界に飛び込むんだ。」
その言葉に権六は何も言えなかった。藤吉郎の目には、すでにただの農民ではない光が宿っていたのだ。
「俺は信長様に仕える。そして、この桶狭間の戦で俺の名を知らしめるんだ。」
彼の胸中には、野望が膨れ上がっていた。信長という男に仕えることで、自分はこの村を抜け出し、もっと高みに登りつめることができる。それが彼にとって、唯一の希望だった。
家を出るとき、母は何も言わずに彼を見送った。彼女の瞳に映る不安や悲しみを感じながらも、藤吉郎は振り返らずに前を向いた。振り返れば、足が止まってしまうかもしれないからだ。
夜が明け、藤吉郎は戦場へと向かった。草原に響く風の音、足元に感じる土の感触。すべてが新しい世界への道標のように思えた。戦乱の世に足を踏み入れるその瞬間、彼は不思議なほどの興奮を覚えていた。恐怖もあった。しかし、その先に待つのは、名声と運命を掴むための舞台だと確信していた。
「これで俺の人生が変わる。」
藤吉郎は、己の内なる声に従い、信長の軍勢に加わることを決意した。そして、その決意が、彼の運命を大きく動かし始めることになるのだった。
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