八十三日後・夜
十九時を回った現在、一番騒がしいのはキッチンだった。そこでは、
「ほれほれ、しっかり練り込まんとちゃんと
「んなこと、いっても、腕がっ――」
現在羽金は豚まんの皮を作らされている。基本はパン生地と一緒なためイースト菌を使って発酵させる工程が入る。羽金の両手とエプロンは白く汚れており、キッチンの周りは床も含め粉が飛び散っている。片付けはどうせ自分がやらされるのだろうと、
しかし、
『
有名な『
『
ただ豚まんを作るだけなら効果のほどは見込めないが、今回用意するのは対
『これがなきゃあ
白金と羽金は同意の上で、一条の操るナイフによって手のひらに
『
結局二人は子種を出していない。一条の口からその話が出た際、秒で強硬に拒否をしたが、一条もずいぶんゴネたのにも関わらずこの一件で白金と羽金が譲ることはなかったのだった。その白金と羽金は今説明を受けて頭では理解したが、たとえこれを事前に説明されていた所で〝子種を素直に提供していたか〟と問われると断じて否だった。要するに一条は他人の心情を勘定に入れないし、興味がないのだった。
「……ついにこのメッセージか」
「ああ、この次が届いた時が、
「いや、ワクワクしとんのはあんただけやろ一条さん」
「――ふっ」
そして今、〝もうきました〟のメッセージが白金と羽金のスマートフォンに届いた。時間は十九時十九分、時間と分がそれぞれ素数のゾロ目という法則に従えば次の受信予定は二十三時二十三分で、それで最後の受信になる。一条は拳で手のひらをパチンと鳴らしながらニヤリと笑ったが、それを受けた白金の冷静なツッコミが意外にシュールでツボに入った羽金だった。
そんな白金は白金で別途一条の指示を受け、テレビを
「ふう……こっちは大体終わった。んじゃあ、あんたらもはようシャワー浴びて体を清めえ。体の汚れは心の汚れやで、
二人が体を洗っている間、一条は家具を壁にすべて寄せて広くなったリビングのフロア上にブルーシートを敷き、その上にベニヤ合板を乗せる。さらにその上に自分で持ってきた大きな半紙を敷いて四隅を画鋲で留め、黒墨と朱墨で
「――よし。図面はこれで完成や。あとは――」
一条はフローリングに広げられた
それから、白金と羽金には判読不可能な、それでいて達筆であることが容易に分かる文字が書かれた札紙が渡された。
「ええか、間違うなよ。合図を出したらそれを額に貼っつけて目を閉じ、何が聞こえても絶対目を開けんな。息はしてもええが咳き込んだりくしゃみを飛ばすのは厳禁やぞ、分かったか。そして声は何があっても出したらあかん。これも厳守や。忘れんな」
ここにきて白金は、一条の表情と目からいつもと違う空気を感じ取り、唾をごくりと飲んで
その後も細かい位置調整や確認作業を重ねた一条だったが、やがてふうと大きく息をつき、額の汗を拭って、リビングの端に寄せたソファに座る白金と羽金の前にどっかと腰を下ろし、一升瓶に入った酒を
「これでお出迎えの準備は完了や。あとは時間がくるのを待つだけやな。さあいつでも来い、
現在時刻は二十二時三十分。〝来客〟まであと一時間を切っている。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――二十三時二十三分。
怪異は突然襲ってはこなかった。
緊張の糸を切らさず、
「……〝いたたきます〟やな」
白金が一条の予想に
「おい伊知朗、どうしたんや」
「い、いや……俺は……違うメッセージがきた」
「何やて? ちょ、見してみい」
一条の
「……なるほど、〝けふいらない〟か。あんたはもう必要ないちゅうことやろな。これでまた一つ、確定できたやないか。一度に始末できるんは一人だけやと。これが力の限界なんやろ」
「んじゃあ、俺はとりあえずもう――」
「いんや、やることは変わらんぞ。人間風情が
スマホを返しつつ指示を出す一条の言葉を受け、羽金は改めて小刻みに震える札紙を見る。ここにきて白金にも緊張と一緒に恐怖が訪れてきており、背筋に冷たいものが走っていた。
「――くる! あんたら、札を額に貼って目をつぶれ! ええか、何があっても声とか咳とか出すなよ! 出したらその瞬間死ぬと思え!」
張り詰めた空気を切り裂くように放たれた一条の声。その瞬間、部屋の電気が激しく明滅を始め、エアコンの影響ではない冷気が床を伝って一同に
ズルッ……ザリッ……ズルッ……
何かを引きずったような音が聞こえてくる。部屋の空気は尋常でない冷たさを帯び、寒気や
しかし、リビングの中央にある図面の四隅に立てられた
「っち、こいつ……ええか、あんたら。ウチの言葉絶対守れよ。何があっても――」
極度の緊張をはらんだ低い声が白金と羽金の耳に届くが、当然返答などしない。今の一条に他のことを気にしていられる余裕はなく、目の前で起きている怪異に意識を集中させていた。
「――カダ」
一条の声がポツリと聞こえてくる。それまでも何かを口の中で
「……ヒ」
突然、誰かが声をあげた。白金でも、羽金でも、一条の声でもない。喉が潰れたかのように引きつった声だった。そしてそれは今、床に広げられた図面を挟んで一条と対峙している。
「……ヒヒ、ヒヒヒヒヒ」
「おう
言葉はいつもの一条のようでも、その声色はいつもと完全に異なっていると白金は気づく。あの一条から余裕がなくなっている。緊張を隠して
目をきつく閉じ、息も漏らさぬ勢いで祈るようなポーズを取り続けている二人の首筋に突然冷たい何かが当てられた気がした。それは触れたものを瞬時に凍てつかせる刃にも感じられ、白金は思わず『ひっ』と口にしかけて、すんでの所で何とか踏みとどまった。その後も気配は二人の周囲をズルリズルリと
「……おい、白金、羽金。もうコイツはウチが押さえた。目を開けても大丈夫やで」
二人の前から一条の声が聞こえてくる。
(白金、羽金……?)
その考えに至った白金は、別の違和感にも気づく。
(今の一条の声……やけに耳の近くから聞こえてきた気がする――)
これは罠だ――白金はそう結論付けた。そうと分かれば彼に迷いはもうなく、目と口を固く閉じて意識を保つことに集中する。
(た、頼むぞ
危うい均衡が保たれてどれほどの時間が経ったのか白金には分からない。数時間のようにも思えるし、まだ数分しか経っていないようにも感じられる。今の彼が確実に分かるのは、まだ怪異は諦めずにそこに〝
「いつまで固まっとんねん、白金、羽金。もう大丈夫やから、さっさと目え開け」
「――――」
羽金も気づいている……白金はそう確信し、希望の光を自分の内に見出した。そして彼にも分かったのだ――この状態を保ち続けるかぎり、
だからこの
「キ――キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキリキルキリクリグリキリギリキイイキキキキキルキルキルキル……!」
突如、鼓膜が張り裂けそうな金切り声が部屋中に響き渡る。そして部屋中にありえないほど
「――クロウ……ユワウ……タテマツル……」
数瞬をおいて発せられた聞き覚えのある
「クロウゆワウタテマつル、クロうユワウタてマツる、テきくロウいシユわうニえタテまツルクロうユわウタテマつるクロうユワクろウクロロろロユゆユユたテマつまツマツテてテくロうユユゆゆユユユゆユユクロロロろてテテてテツつつツツつツツ」
さらに、〝それ〟はおぞましい声を発し続けた。それは腹の底にずしりと響くような低音で、さながら危険を知らせるサイレンのようだった。
「アたマアたまあたまあタまあたたたタタああアあああアアまたマたあアあたまマまたたまたアタマアたアアあマタタたたマまマままアアアアあアアアアあアああ――」
「――時間や。はよ食え。食ったら帰れ!」
その叫び声の直後、聞き慣れた声とともに、
「――よう頑張ったな、パンチ、メガネ。あんたらの肝、たいした
頭上からそんな声がかけられると同時に、なお固まって震えている二人の額から
「――ッブハアッ、ハアッ、ハアアッ――」
恐怖と緊張のあまり呼吸すらまともにできていなかった白金は、重圧から解放された反動で大量の酸素を求めてあえいだ。彼らの前には一条が腕組みをして
「先に謝っとく。すまんかった。ウチの見込み違いやった。アイツは――手に負えん」
「……えっ。で、でも一条さん、ちゃ、ちゃんとアレを追い返したんじゃ」
肩を激しく揺らしながら息をする白金が眉をひそめて問いかけるが、一条はただゆっくりと頭を振っただけだった。
「ど、どういうことや一条さん。あんたでも手に負えんて、じゃあどうして俺たちは――」
「時間切れや。今はもう日が変わっとる。粘り勝ちってとこやな、あんたらの」
「時間……切れ」
白金は傍らに放り投げてあったスマホを見る。今は
「せ、せやけど一条さん」
「ちゃうねん。ウチがアイツの姿を見た時、こらアカンと直観した。正直、あんたらの安全を護れる状態じゃなかったんや。自分の身を護るんで精一杯でな。しやから謝っとる」
「――あんたでも手に負えんその
「きちんと説明したる。しやけどその前に――」
そう言いながら一条はおもむろに羽金の前に立ち、彼の顔を下から覗き込むように屈んで、くつくつと忍び笑いを漏らした。
「――気絶しとるメガネを介抱したらなアカンわ。こいつ、恐怖のあまりトンどるで」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
落ちていたブレーカーを直して電気を入れ、部屋を見渡す。そこまで劇的に変わったという所はなかったが、ろうそくが四本とも倒れ、豚まんが一つ消えていた。
「白金の血を練り込んだ豚まんは持っていかれたわ。羽金のんは
「……いや、何なんやアレ。めっちゃ怖かった……俺いつのまにオチとったんや……」
「伊知朗、オチとって正解やったかもしれんぞ。あいつ、俺らを罠にハメようとしたからな」
「わ、罠?」
「ああ、一条の声真似で俺らの目を開かせようとしとった。俺は嘘に気づいたからよかったが伊知朗が気づくかどうかは分からんかったからな」
「…もしかしたら目を開いとったかもしれんな、俺」
「なるほどな。やたら静かやなあと思たら
一条は冷蔵庫から冷酒を取って一気飲みしている。
「んで、説明やったな。先ずもっぺん謝らせてくれ。ウチの見込み違いやった。アレはウチの手に負えるようなモンちゃうかった。何せ、めちゃくちゃに怒り狂っとってもうどうしようもなかったからの。ホンマにすまんかった」
「怒り狂って?」
「ああ。アイツの姿を見た時に実感した、こいつは何も見えとらんとな。怒り狂って話なんぞできる状態でもなかった。正直あんたらを護る余裕なんぞ、これっぽっちもなかったんや」
「……」
「豚まんは用意したけれどもやな、やっぱ血じゃ完全に
「バレてはいないってどうして分かるんや」
「最終的に持っていったからや。ニセモンやとバレとったら見向きもされんよ。それよりも、ホンマにあんたらよう堪えたわ。正直死んだ思たからな」
「……」
「ウチには
「それだよ一条さん。俺がナンボ言うても止めへんかった〝パンチ〟呼びや。あいつは俺らを〝白金〟〝羽金〟と呼んだからな。それでおかしいと気づけた」
「……俺はそんな言葉、聞こえとらんかったわ――」
白金の横で心なしか小さくなっている羽金がボソっと
「んで、怒り狂っとったって、そんなにヤバかったんか」
「ああ……あの姿は形容しようがない。説明するとは言うたが、あんたらに説明がしたくともどうあんたらに伝えりゃええのかちっとも分からんのや。何にせよ今日の所は何とかあいつの襲撃を乗り切った。まだ油断はでけんが、少なくとも白金は大丈夫やろ」
羽金の対策はまた改めて考えるが、今は対象から外れているとみていいと説明を受けた当の本人の顔は
「俺が大丈夫て、一条さん。何でそんなことが言えるんや。またくるかもしれへんやろ」
「いんや。あんたは多分もう〝
そう言いながら一条はアクセサリがたくさんくっついたスマホを取り出して白金に見せる。そこに映し出されたものを見て白金は目を大きく見開き、一条の顔を凝視した。
「――ああ、ウチにも、きたんよ。地獄への招待状がの」
つきいきます
「な、何で、一条さんが〝
「おっとパンチ、そこまでや。それ以上は
言葉を紡ぎ出そうとする白金を右手で制し、一条はニッコリと笑いながら言葉を続ける。
「――女とバケモンは、秘密があればあるほど強いモンでな、それがバレたらしまいなんや。そんな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます